artscapeレビュー

2014年01月15日号のレビュー/プレビュー

「日本工房」が見た日本──1930年代

会期:2013/12/03~2013/12/25

JCIIフォトサロン[東京都]

1933年に日本工房を設立し、海外向け日本文化広報誌『NIPPON』を編集・出版して、日本の近代写真・デザインの展開に一時代を画した名取洋之助については、JCIIライブラリーの白山眞理の調査によって、新たな資料が明らかになりつつある。今回の展覧会では名取家からJCII(日本カメラ財団)に寄託された初期の日本工房のネガを再調査し、名取、土門拳、藤本四八らスタッフカメラマンが撮影した写真80点あまりを展示していた。
『NIPPON』をはじめとして、『写真週報』『Berliner Illustrierte Zeitung』など、日本工房の写真が掲載された雑誌のバックナンバーを丹念に当たることで、写真家の名前が特定できたものもある。だが、展示された作品の大部分は誰が何のために撮影した写真かよくわからないものだ。だが、逆にそれらの写真には1930年代の日本の空気感が生々しく写り込んでいるように感じてしまう。銀座の店のモダンなショーウィンドー、1940年の幻の東京オリンピックに向けてトレーニングに励む選手たちなどの、明るく輝かしい写真と隣り合って、日独伊防共協定記念国民大会、支那事変一周年記念大講演会など、戦時色の強いイベントの写真が並ぶ。胸を突かれるのは、芝浦製作所(現・東芝)の社員と思われる小平芳男という男性の「出征の日」の写真だ。いかにも東京・山の手のお坊ちゃんという風情の彼と、その家族が並んで写っている。彼らの満面の笑みが逆に痛々しい。
オリンピック、特定秘密保護法など、現在の日本の社会状況と無理して重ね合わせる必要はないかもしれないが、写真を見ていると、どうしてもいくつかの接点が浮かび上がってくる。特定の写真家の作品ではなく、日本工房という組織による、いわば集団制作の写真群だからこそ、よりくっきりと「あの時代」の手触りが見えてくるのではないだろうか。なお、日本橋高島屋8階催会場では、『NIPPON』や『週刊サンニュース』の実物展示を含む「名取洋之助展」(2013年12月18日~29日)が開催された。それに併せて、白山眞理編著の『名取洋之助 報道写真とグラフィック・デザインの開拓者』(平凡社[コロナ・ブックス])も刊行されている。

2013/12/14(土)(飯沢耕太郎)

チェルフィッチュ『地面と床』

会期:2013/12/14~2013/12/23

神奈川芸術劇場[神奈川県]

ぼくはポッドキャスト中毒者だ。1人でいるときはほとんど常時、そして寝る前と起きてすぐも必ずiPhoneに差したイヤーフォン越しに、ポッドキャストを聴いている。お笑い芸人のも好きだけれど、欠かさず聴いているものの多くは社会問題や政治問題を論じる番組のものだ。artscape読者のなかでぼくのようなヘヴィリスナーは少なくないと思うけれど、ぼくが最近試みている、TBSラジオとニッポン放送を交互に聴くというリスナーは多くないかも知れない。荻上チキや青木理、神保哲生などTBSラジオの出演者にはどちらかというと「左」の論客が多い。それに対して、ニッポン放送の場合、論客の多くは明らかに「右」より。ぼくは比較的「左」の意見に同調しがちなタイプだが、ひょんなことから「ザ・ボイス そこまで言うか!」を聴くようになり、イライラしつつも、こちらの意見にも耳を傾けたほうがいいと思うようになった。あっちもこっちも聴くとぐらぐらする。あっちでからかいの対象だった政治家が、こちらではヒーロー扱い。逆もしかり。そして、簡単にどちらかに軍配が上がるものではなく、対立は根深いということがわかってくる。いまは、自分の欲しい情報だけを取り込んで、それが世界だと思ってしまえる時代。だからこそ、このわかり難さに向き合うことは、結構意味があることかもしれないと、ぐらぐらしてみる。
ぼくにとって『地面と床』は、「右」と「左」の番組を両方聴く感覚と似ていた。近未来の日本。国際情勢が不安定になり、戦争へと進むことが現実味を帯びている日本。そこに暮らす一組の家族。兄は結婚しその妻は妊娠中。弟は最近、失業の苦しみから解放され、仕事を得た。しかし、兄弟の仲は険悪だ。道路をつくることで自己アイデンティティを回復しようとする弟は、愛国的な意識を強め、対して兄はこの国の将来を憂いて子どもが生まれるのを期に国外への移住を考える。この両者の対立は、けっして調停されることがない。この舞台には、どんな調停の契機もない。弟は兄夫婦を怨む。その怨みは、義理の娘を嫌悪する母の思いと同調する。母はすでに死んでいる。母は「地面」の下から弟を経由して、「床」にいる者たちに力を及ぼす。この死者の及ぼす力が「日本的伝統」のメタファーなのか、たんなる嫁姑問題なのかははっきりしないのだが、兄弟の諍いという横の軸に対して、死者と生者あるいは伝統と進歩という縦の軸が設定される。シンプルな構造がこの芝居を引き締めている。
この芝居は、ほかにも二項対立の緊張に満ちている。「世界9都市国際共同製作作品」という冠のもと、複数の国での上演を前提にしてつくられているという経緯がそうさせているのだろうが、上記した家族のほかに、「日本」について語るイライラした女性が登場し、「日本とその他の国」という対立を浮きぼりにする。具体的にはこうだ。舞台上に白い十字状のオブジェがある。これはスクリーンでもあり、海外の上演で用いられたまま、英語字幕が映写される。この女性は、客席に座るどれだけのひとが自分の話す日本語を理解しているのだろうかと絶望を口にしながら(この部分は、日本での上演の場合、明らかにちぐはぐなのだけれど、観客は海外での上演の模様を想像しながら見ることになるので、このちぐはぐな状態は実際のところなんら問題とはならない)、自分の思いを早口でまくしたてる。ところが字幕はそれに追いつけない。イライラした女性はこの字幕の進行を待ち、一層イライラしてくる。このメタ演劇的仕掛けは、日本のマイナー性を明らかにする内容面だけではなく、マイナーな国がどう自分たちの状況を表現すればよいのかという方法的側面においても効果的だった。そして、日本人の観客としては、この国に生きる不穏さは、別に3.11が起きようが起きまいが私たちを取り巻いていた、なんてことに気づかされる。
もうひとつの二項対立は、役者の身体に関わることだ。今作では、『三月の5日間』以降注目されたいわゆるチェルフィッチュ的な身体性は、最小化されていた。山縣太一は汗をびっしょりかきながら、独特の、観客にとって不可知のルールに縛られた身体動作を続けていたのだが、そのほかの役者たちは、以前のような、発話に動機づけられた無意識的な動作の拡大・反復表現はしないで、微小な動作を行なうだけだった。何というか、薄っぺらい、存在の重さを欠いた、あてどない身体だ。興味深いのは、以前のチェルフィッチュとは異なり、観客の身体への訴求力が弱いことで、けれども、だからこそこの身体はこの作品の上演にふさわしいと思わされたことだ。言い換えれば、これまでのチェルフィッチュにはモダンダンス的なところがあって、観客の身体に直接訴える身体の強度を帯びていた。確かに演劇においてはユニークなのだが、そうした試みはモダンダンス的な文脈の更新にはなっても、身体に直接訴えるのとは別の身体の可能性を模索しようとするならば、妨げになりかねない傾向でもあった。本作の「薄っぺらい、存在の重さを欠いた」身体は、調停しえぬ対立のなかで揺れている人間の身体にふさわしい。その印象を倍加させたのは、サンガツの音楽だった。今作でサンガツは、舞台美術のように舞台上で存在感を示す音楽を目指したらしい。なるほど、でも、舞台美術というよりは、ぼくの目/耳には、音楽は役者と並立する位置にあった。音楽と音響(音素材)のあいだにあると言えばよいか、サンガツの音楽はギターやドラムなどの楽器の存在を強く意識させる質を帯びていて、「ジャリッ」「ガリッ」などのノイジーな響きはそうした楽器の身体性をむき出しにしていた。しかも、その音がかなり大きく響き(ときには観客の身体を直接揺さぶるほどに)、耳を支配するので(そのため、役者はマイク越しに台詞を発していた)、目には見えないのだが、舞台上にあるいは客席に徘徊する幽霊のような仕方で、場を支配していたのだった。この「もう一人の役者」とも言える音楽と、人間の役者との対立は、音楽の存在位置を高めるとそれだけ、役者の身体が薄っぺらく脆弱に見える効果を与えていた。快快と比較しても面白いかも知れない、舞台から追い出されそうなこの脆弱な身体たちは、しかし、汗を垂らしている山縣が存在していることによって、なんとか消滅の危機に抗っているようだった。
今作で岡田利規は、演劇が抱えうる多数の「二項対立」を取り出し、そこに調停なしの争いを露呈させた。なんと率直でわかりやすく、それでいて簡単には解消できない諸問題が舞台上で露出してしまったことだろう。「二項対立」とは、言い換えれば「批評性」ということだ。政治の実践的場とは異なり、演劇の上演は結論を出す場でなくていい。むしろ丁寧に対立を浮きぼりにすることこそ重要だ。日本を生きることの不穏さは消えないし、対立は容易に解消しないだろう。けれども『地面と床』から、ぼくたちは「対立」の相貌を知ることができる。岡田の作品のなかで、これまでの最高傑作なのではないかと思う。


チェルフィッチュ「地面と床」

2013/12/15(日)(木村覚)

ゼロ・グラビティ

会期:2013/12/13

丸の内ルーブル[東京都]

映画『ゼロ・グラビティ』がおもしろいのは、その物語が宇宙の無重力空間を舞台にしながらも、重力との拮抗関係をありありと実感させるからだ。むろん、すぐれた映像技術による無重力空間の描写は注目に値する。けれども原題がgravityであるように、この映画の醍醐味はそのような無重力空間をとおして、逆説的に重力の働きを私たちに想像させることにある。体感し得ない無重力を視覚化することによって、重力を視覚化しないまま体感させると言ってもいい。
果てしない宇宙に投げ出された主人公の孤独と恐怖は計り知れない。しかし私たちがほんとうに身震いするのは、彼女の背後に映る美しい地球を目の当たりにした時である。これほど地球の近くを漂流してしまったら、もしかしたら大気圏内に引きこまれてしまうのではないか。眼前にどこまでも広がる闇に慄きながらも、眼に見えない地球の重力にも空恐ろしさを感じるのである。この二重の恐怖がたまらない。
映画を見ていて気づかされるのは、人間の存在自体が重力に大きく規定されているという事実である。身体運動が重力に依存しているだけではない。ものの見方そのものが重力に左右されているのだ。
たとえば無重力空間では身体の動作はままならない。じっさいこの映画でたびたび表わされているように、ひとたび回転してしまった身体を安定させるには並々ならぬ労力と時間が必要とされる。しかし、よくよく考えてみれば、こうした不自由な身ぶりの描写は地球の重力を前提とした視点に基づいている。どんな身体運動にも重力が等しく作用しているからこそ、身体の「安定」や「自由」という見方が可能になるからだ。
確かに宇宙を漂流する身体は不安定で不自由極まりない。ただ、そのように認識するのは、私たちの視線にも重力が働きかけているからだろう。画面の背後にたびたび映り込む地球は、帰還すべき目標であると同時に、認識の根底に重力が隠れていることの象徴にほかならない。
重力という枠組みを取り払った視線を想像してみると、あるいはこうも言えるかもしれない。宇宙空間で回転しているのは身体ではなく、むしろ宇宙ではないのか。身体が宇宙で回転するのではなく、身体のまわりの宇宙が回転する。事実、この映画のなかでもそのようなシーンは、部分的とはいえ、表現されていた。そのようにして私たちの世界観を想像的に転倒させるところにこそ、この映画の芸術性があるのだ。

2013/12/15(日)(福住廉)

Lisbon Triennale Millenniumbup Lifetime Achievement Award

リスボン建築トリエンナーレ2013の生涯業績賞の審査員をつとめ、公式ホームページで、その結果としてケネス・フランプトンに決定したことが告知される。非西洋圏にとっても批判的地域主義の概念は重要ということで、最後の決戦では彼を推した。
http://www.trienaldelisboa.com/en/#/news/vencedor_premio-carreira
こちらは審査員名も記載。
http://www.close-closer.com/en/programme/lifetime-achievement-award/about

2013/12/15(日)(五十嵐太郎)

ゼロ・グラビティ

会期:2013/12/13

映画『ゼロ・グラビティ』は、ほとんどひとりのシーンだけで、どうやって90分を持たせるかと思ったら、危険につぐ危険のジェットコースター・ムービーになっており、重力がある地球に帰還する最後まで、緊張感を維持していた。最近、CGを使う映画はお決まりの超人戦闘シーンによる都市の破壊ばかりで食傷気味だったが、こんなシンプルな設定で無重力の空間を描く表現の可能性があるのだと、新鮮に感じた。これは「揺れる大地」どころか、立つべき大地すら存在しない静寂な闇の無限空間である。宇宙=死の世界(娘の喪失)での絶望から、結果はともかく最高の旅という肯定を経て、生命の世界への帰還。よろめきながら大地に足を踏みしめるまでの90分。
重力がないことを徹底的に描きながら、逆説的に重力の意味を思い起こさせる『ゼロ・グラビティ』を鑑賞した後は、今までの/これからの宇宙を舞台とするほとんどのSFの見え方が変わってしまう。また全映画と言ってよいが、地球上の映画はSFであるないにかかわらず、すべて重力が自ずと表現されていたのだ。つまり、コンピュータが映画内のあらゆる動きを計算しようとすれば、あるいは映画だけの情報をもつ地球外の知的生命体がいたとして、必ずや重力の法則を見出す。以前、アーティストの彦坂尚嘉と人間は最初にどうやって直角を発見したかを議論したとき、僕の考えのひとつは重力が垂直→直角の概念を普遍的に見出させるというものだった。

2013/12/15(日)(五十嵐太郎)

2014年01月15日号の
artscapeレビュー