第2ターム(2009.2〜2009.4)の記事

本日でこのブログも終わりになります。3ヶ月間にわたってお読みいただきありがとうございました。この場を提供して下さったartscapeの編集部の方々、そのきっかけを作って下さった森司さんにも改めてお礼を申し上げます。

日々の研究活動に即して文章を書くのは初めての経験でしたので、自らの行動と思考を振り返るきっかけになり、実り多い3ヶ月でした。ソウルのセミナー、『アンフォルム』の翻訳、広島アートプロジェクトなどについて考え直すことで、自分なりの課題が整理できると同時に、お読みいただいた方に多少なりとも情報提供ができたのではないかと思います。初回に予告した日本の現代美術に関して行っている共同研究について書くことができなかったのは残念ですが、いずれ別の場所で紹介したいと考えています。

藤川さんもお書きになっているように、「ブログを読んでいます」と声をかけて下さる方には大いに励まされました。これまで非常に限られた範囲の研究者に向けて文章を書いてきましたので、思いもよらぬ方からコメントをいただいたりして、大いに勉強になりました。お読み下さった皆さま、ありがとうございました。

最後に、今後の活動について簡単に記しておきます。まず、5月22日(金)に東京大学駒場キャンパスで「ロスコ的経験----注意 拡散 時間性」と題するワークショップを林道郎さん、田中正之さん、近藤学さんと一緒に行います(詳しくはこちら)。

それから、前々回書きましたように、9月半ばには広島アートプロジェクト2009を行います(こちらに情報が出ます)。9月は、東京大学教養学部と沖縄県立芸術大学美術工芸学部で集中講義をしますので、忙しくなりそうです。

他にも、執筆、発表、翻訳など進行中の企画がいくつかありますが、随時こちらに掲載しますので、折にふれてご覧いただければと思います。

皆さまといずれどこかでお会いすることを楽しみにしています。3ヶ月間、本当にありがとうございました。
3ヶ月間の担当も今日で終わりです。こうした機会を頂いたことにあらためて感謝しています。

神奈川県立博物館、福岡市美術館、山口情報芸術センター、秋吉台国際芸術村の方々には写真の撮影や手配のほか、さまざまなかたちでご協力を頂きました。本当に有り難うございます。

また、ウェブサイトの編集担当の方には、いつも画像のリサイズで助けて頂きました。お陰さまで希望通りの表示が実現しました。有り難うございます。

執筆を担当していて一番嬉しかったのは、やはり「ブログ読んでます」と声をかけて頂いたり、メールでコメントを頂戴したことです。読者に励まされる、ということを強く実感しました。そうしたきっかけで沸き起こる熱い気持ちは、言葉で言い尽くせないくらいです。


最後に、山口のことをもう少しだけ紹介します。毎朝、自転車で大学まで通っていますが、その途中で川を渡ります。市の中心部を流れる椹野川です。この川は豊かな自然の息づく清流で、もう少ししたら、鮎漁が解禁になったり、支流では蛍が飛び交うのが見られます。

普段は、鯉やフナが泳いでいます。春先の夕暮れどきに、稚魚が一斉に川面から跳ね上がる景色は、山口へ来て初めて目にしました。

私は長崎の割と街中で育ったので、カワセミやキジを見たのも初めてでした。いずれも通勤途中に見つけて、ハッと息を飲む思いをしました。カワセミの体の青色は、光を発しているようにさえ見えます。

大学構内でもさまざまな野鳥を目にすることができます。

山口で好きな風景は、鏡のようにぴんと水の張った水田が一面に広がる初夏の景色と、あぜ道沿いに燃えるように紅く咲いた彼岸花が列を成している初秋の光景です。

国際美術展について資料を集めたり、海外から滞在制作のために招聘された美術家たちと交流し、最先端の情報芸術にも触れる機会もあって、それでいて豊かな自然に囲まれている、とこう書くとあまりにいいことずくめに過ぎて、かえってうまく伝わらないかも知れませんが、私は、自分でひとつの理想的な環境を生きている、と日々実感しています。

最初に書いた通り、私たちひとりひとりが生きている場所が「独楽の落つるところ」であり、世界の中心だと思いませんか?

ここまで読んでくださった皆さまにもう一度感謝の気持ちを込めて、ご多幸をお祈りしつつ筆を置きます。


またどこかでお会いしましょう。


20090430blog.JPG
椹野川(正面に見えているのは井出ヶ原橋) 2009年4月30日8時12分(晴れ)

前回の「広島アートプロジェクトについて(1)」の続きです。

スミソニアンアメリカ美術館での研究生活を終えて2006年に日本に戻ってきたときに驚いたのは、日本のアートプロジェクトの多さです。もちろん、アメリカにもコミュニティー・アートの歴史がありますし、韓国でもアートプロジェクトが盛んになりつつあります。しかし、全国各地でこれほど多くのアートプロジェクトが行われている国は、世界的に見ても少ないのではないでしょうか。

とは言え、現代美術に慣れ親しんだ人たちの中にも、アートプロジェクトにはそれほど関心をもっていない人はいると思います。玉石混交だという批判的な意見があることは承知しています。たしかに、キュレーター(やディーラー)によるスクリーニングを経た作品が展示される美術館の展覧会と比べると、アートプロジェクトのスクリーンは粗いものかもしれません。

しかし、そのスクリーニングの粗さは、アートプロジェクトの自由度の高さでもあると思います。自由度の高さは、クオリティを低下させる要因にもなりますが、未知なるものに挑戦するチャンスにもなります。後者は、作家が主導するアートプロジェクトにおいて重要になってくるように思います。というのも、そこでは、作家が作家の作品を選ぶわけですから、何を作品とみなすのかについて大胆な判断がしばしば行われ、美術でないものとのギリギリの境界で作品が選び取られることがあるからです。私たちの美術に対する考えを揺さぶるような作品に巡り合うことができるのがアートプロジェクトの魅力の一つなのかもしれません。

アートプロジェクトとは、ローレンス・レッシグの言葉を使えば、アートの「アーキテクチャ」について思考し、それを更新し続ける一つの重要な場なのではないかと私は考えています。アートプロジェクトによって、作品の概念も、鑑賞のあり方も、社会的な役割も、大きく変わりつつあります。アートプロジェクトを、まちづくりの観点(「クリエイティヴ・シティ」も含む)や、いわゆる「オフ・ミュージアム」の文脈で語ることも重要ですが、それと同時に、アーキテクチャとしてのアートプロジェクトについて考える時期が来ているように思います。日本におけるアートプロジェクトに対する関心の高まりが、アートのアーキテクチャに関する議論を活発にしていくことを期待してやみません。
2007年はヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展(6/10〜 )、アート・バーゼル(6/13〜 )、ドクメンタ(6/16〜 )、ミュンスター彫刻プロイエクテ(6/17〜 )が連続的に開幕した年でした。

この開幕の順に沿ってイタリアからスイス、ドイツへと北上して行った美術関係者の多くは、だんだんと天候が崩れ、緯度も高くなって肌寒い思いをしたと聞きます。私は、かつてバーゼルの宿を確保するのにかなり苦労した記憶からアート・フェアを割愛し、ドクメンタの開幕に合わせてヨーロッパ入りしてカッセルからミュンスター、ヴェネツィアへと移動する旅程を組みました。現地では、ほとんど同じ旅程で移動していた関西の美術関係者の一団と出会い、一緒に夕食を楽しんだりもしました。

同じ2007年の9月、日本では新たに2つのビエンナーレが開始されました。北九州国際ビエンナーレ(9/28〜10/31)と神戸ビエンナーレ(10/6〜11/25)です。また、現代日本彫刻展の名称で1960年代から続いてきた宇部市主催の野外彫刻展も07年から国際化してUBEビエンナーレを名乗るようになりました(9/29〜11/11)。さらにほぼ同じ時期、BIWAKOビエンナーレも開催されていたので(9/30〜11/18)、この2007年秋は日本でもビエンナーレの集中が見られた年だったと言えます。

もうすぐ発売される芸術批評誌『リア』に「ビエンナーレ化現象と国際美術展史料館」という一文を寄稿しています。ちょうどこの回想を投稿し始めたころに書いた小文です。国際美術展が増える中、展覧会本体の充実と並行して、開催ごとに入手される資料を蓄積して有効活用する体制も整えるべきだ、という意見を述べています。

4月に入って昨年度入手した資料を整理していたら、『マニフェスタ・ジャーナル』第6号が「アーカイヴ特集」でした。ラファル・B・ニーモエウスキ(Rafal B. Niemojewski)さんの論文もまた、ビエンナーレ化現象を総括し、史料館の活動に着目する論文で、親近感を持つと同時に、彼我の間にある言語の壁と時間のずれを意識させられました。ニーモエウスキさんの論文は、2005年冬号の掲載でしたが、同ジャーナルは予算不足のためにしばらく刊行休止になっており、昨年冬になってようやく4-6号の合併号を送ってきたのでした。

同誌の執筆者紹介によれば、ニーモエウスキさんはロンドン王立美術学校で、国際美術展の増加現象について博士論文を準備中とのことでした。多分、もう仕上がっているのではないかと想像します。

ニーモエウスキさんに限らず、アメリカやヨーロッパ、そして日本の大学でも国際美術展を主題とした論文が少しずつ書かれるようになってきているようです。

国際美術展の図録に掲載されている論文の中には、企画者や研究者、作家によって書かれた興味深い内容のものが非常に多く含まれています。特に地球規模化や多文化主義と現代美術の関係を論じた文章に示唆に富むものが見られます。

国際美術展の図録は、美術大学の図書館や美術館の図書室などで閲覧できると思います。より多くの人びとに関心を持ってもらえるよう願っています。

20070619blog.jpg
ドミニク・ゴンザレス=フォレスター《ミュンスターの小説》(過去のミュンスター彫刻プロイエクテ出品作品の模型) 2007年6月19日12時15分(晴れ)

このブログも今月で終わりですので、最後に私が関わっている広島アートプロジェクトについて書きます。

これまで書いてきたエントリーから分かりますように、私は、アメリカを中心とする近現代美術史、とりわけ美術批評史を主な研究対象としている研究者です。30代半ばまでは、主に英語の文献を読んでアメリカの美術と美術批評について考えてきました。

ところが、2007年4月に広島市立大学芸術学部に赴任して、状況が大きく変わりました。現代表現研究室の柳幸典さんがディレクターを務める「広島アートプロジェクト」という地域展開型のアートプロジェクトに携わることになったのです。赴任直後に開催された「旧中工場アートプロジェクト」には関わりませんでしたが、2008年2月にベルリンで開催した「CAMPベルリン」と、同年11月に広島で開催した「広島アートプロジェクト2008「汽水域」」には企画・運営に関わりました。

広島アートプロジェクトは、大学が中心となって企画・運営しているアートプロジェクトです。大学が中心のアートプロジェクトと言えば、取手アートプロジェクトが思い浮かぶ人が多いかもしれません。しかし、最近刊行された『アートイニシアティブ リレーする構造』(BankART1929、2009年)で東京藝術大学の渡辺好明さんが書いているように(この本では私も広島アートプロジェクトについて書いています)、取手アートプロジェクトは、最初の4年間は先端芸術表現科のプロジェクトとして行われたものの、次第に運営体制を学外・市民側に移していきました。それに対して、広島アートプロジェクトは、大学の教育の一環であることにこだわっていこうと考えています(註)。

それはなぜでしょうか。まずアートプロジェクトの担い手の問題があります。広島には、取手のように、20代後半の若い作家が近くに多くいるわけではありません。作家を志す者の多くは、大学を卒業すると、東京や京都などの大都市、あるいは海外に移り住んでしまいます。したがって、広島のような地方都市でアートプロジェクトをやる場合、担い手の中心は、現在大学で美術を学んでいる人たちになります。

そして、私たちには、アートプロジェクトを通して、大学の美術教育を変えていきたいという思いもあります。本学の芸術学部は、他の多くの大学と同様、技術の習得を重視してきましたが、その技術を社会の中でどのように活かすのか十分に教育してきませんでしたし、学生も自分たちの社会的な意味を考える必要がありませんでした。広島アートプロジェクトは、作品の制作や展示だけでなく、そのために必要な財政的な準備、地域住民や行政との交渉や調整なども学ぶ機会を提供し、アートマネジメントの能力育成と同時に、学生のシチズンシップ教育という側面も有した活動を行っています。私自身は、大学内の各種委員会で、芸術学部の教務や社会連携、中期計画作成等に関わって、教育体制の整備に向けて努力しています。

アートプロジェクトとは、「美術とは何か」という問いを生み出し続ける場だと私は考えています。この問いは、「美術館に置かれたものが美術作品となる」というデュシャン的な図式のために、長い間、美術館という制度と密接に関係してきましたが、今日、状況は大きく変わりつつあります。美術館とは無関係の場で制作される美術作品はますます増えています。その一つの場がアートプロジェクトです。街なかの展示では、作品と物体を区別する仕組みがあまり機能しませんし、アートプロジェクトは作品を購入しません。まちづくりを目指す行政中心のアートプロジェクトと違って、大学が中心となるアートプロジェクトにおいては、「美術とは何か」という問いはより根源的になり、作品はより実験的になります。学生の中で作家になれる者がごくわずかであるという事実は、その問いをさらに切実なものにします。大学主体のアートプロジェクトは、「美術とは何か」という問いを最も深刻に受け止めて、美術を前に進めていく重要な役割を担っていると思います。

なお、広島アートプロジェクト2009は、今年の9月半ばに予定しています。ぜひご来場いただければと思います。


広島アートプロジェクト実行委員会は、広島市、広島市文化財団、広島市現代美術館の職員、広島市立大学の教職員、広島市民等からなる非営利団体です。本文は、あくまでも広島市立大学の教員としての立場に基づいた意見を述べたものであって、実行委員会自体が大学の教育をもっぱらに考えているわけでは必ずしもないことをお断りしておきます。
今年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展は77カ国が参加予定です(同展公式サイトより)。

この数は、国連加盟国が現在192、オリンピックへの参加国・地域の数が200強ですから、その1/3程度です。

ヴェネツィア・ビエンナーレは、現在開催されているものの中では最大の参加国数を誇りますが、それでも数の上では参加しない国の数の方が2倍近くある、ということはいつも心にとどめておきたいと思っています。この差は肯定的にも否定的にも考えることができます。

ところで、最近ヴェネツィア・ビエンナーレが開催される年とされない年では、はっきりとした違いが見られるようになりました。私は、同展が開催される奇数年を「表の年」、開催されない偶数年を「裏の年」と表現することにしています。今年は表の年であり、去年や2006年が裏の年です。

1980年代から国際美術展の開催は非欧米圏へと拡大し、90年代、2000年代を通して現在まで、欧米圏・非欧米圏を問わず増え続けています。そして、新設される国際美術展がビエンナーレ(2年ごと)である場合、その多くはヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展が開催されない裏の年に開催される傾向が見られます。また、表の年に開催される場合でも、同展が開幕する6月ではなく、9月から11月の開幕とし、競合を避けているように思われます。ユニヴァーシズ・イン・ユニヴァースのビエンナーレ・カレンダーを見ても、トリエンナーレも含めた2008年の開催数が32あったのに対し、今年2009年の開催数は約半数の17です。

つまり、国際美術展を見て回ろうとしたとき、裏の年は数が集中しているので、予算や日程の面で調整や熟考が必要になります。

そうした状況を踏まえて、複数の国際美術展の主催者が連携し、開幕日をそれぞれ少しずつずらすことで、関係者が一度のツアーで回れるような工夫が見られるようになってきました。

私の知る限り、そうした調整の最初の試みは、2006年のシンガポール、上海、光州の各ビエンナーレ間での取り組みだったと思います。そして、この時点では特に名称はありませんでした。

しかし同年秋には「トレ・ビエン」という名称のもと、イスタンブール、リヨン、アテネの3つのビエンが協力体制を打ち出しました。さらに、2007年には、ヴェネツィア、ドクメンタ、ミュンスターが重なる10年に1度の機会をとらえて、アート・バーゼルを加えた4都市を結ぶ「グランド・ツアー」が組織され、翌2008年には、シドニー、光州、上海、シンガポール、横浜の5つの国際美術展が連携する「アート・コンパス」、台北、広州、上海が連携した「三館互動」が誕生しました。

2006年には、日本でもA.I.T.とJALの共同企画で「3大ビエンナーレ・ツアー」の募集がありました。私もこのツアーに参加しましたが、A.I.T.の教育プログラムの受講生や、学芸員、新聞記者、美術評論家など職種や世代の異なるさまざまな方々と交流できて、とても貴重な体験となりました。

このツアーは2008年には同種のものが実現しなかったことを考えると、今後定着するかどうかまだ判断の難しいところですが、複数の国際美術展を比較することが、現代美術に対する新しい洞察へとつながる時代が到来している、ということは言えると思います。


20060901blog.jpg
シンガポール・ビエンナーレ開幕式での草間彌生「ファッション・パレード」(パダン広場特設ステージ) 2006年9月1日21時27分(晴れ)

新学期が始まり、あわただしくしています。今回は、大学で担当している美術史の授業について書きます。

昨年は、学部で「現代美術史」として1945年から2005年までの美術を講義し、大学院では、第二次世界大戦後の美術の代表的な作家(ジャクソン・ポロックからヴォルフガング・ティルマンスまで)を毎回1人ずつ取り上げる授業をしました。

今年は、学部では昨年とほぼ同様の授業をしていますが、大学院では批評理論を扱うことにしました。

私の所属する芸術学部は実技の学部で、授業中に現代美術の作品を説明するときに、その作品を理解する上で必要な批評や研究について最初から説明しなければいけないことがあります。ミニマル・アートを論じるときには、クレメント・グリーンバーグからマイケル・フリードへの批評の展開や、ドナルド・ジャッドとロバート・モリスの言説的な差異について、やはり触れておきたいと思うのですが、それを説明するだけで、けっこう時間がかかってしまいます。また、こうした言説を紹介しておかないと、作品について豊かに語ることも難しくなってきます。そこで、現代美術を理解する上で必要と思われる文章を13本選んで、毎回1本ずつ取り上げて論じることにしました。

選んだテキストは、現代美術の専門家でなくても、美術に関心がある人ならおおよそ知っているものばかりです。ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、モーリス・メルロ=ポンティ「セザンヌの疑惑」、クレメント・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」と「モダニズムの絵画」、ハロルド・ローゼンバーグ「アメリカのアクション・ペインターたち」、スーザン・ソンタグ「《キャンプ》についてのノート」、ドナルド・ジャッド「特殊な物体」、マイケル・フリード「芸術と客体性」、レオ・スタインバーグ「他の批評基準」、ロザリンド・クラウス「展開された場における彫刻」、フレドリック・ジェイムソン「ポストモダニズムと消費社会」、ホミ・K・バーバ「まじないになった記号 アンビヴァレンスと権威について――1817年5月、デリー郊外の木陰にて」、アーサー・ダント「芸術の終焉の後の芸術」。本当は全て原文で(少なくとも英語で)読みたいところですが、実技系の学生にそこまで要求することもできず、全て日本語で読むことになります(実は、翻訳の質の問題があるのですが、ここでは措きます)。

以前のエントリー「美術批評とアンソロジー」で書いたこととも関係しますが、こうした論文を集めた日本語のアンソロジーは存在しません(『反美学』や『視覚論』のように原著がアンソロジーであるものを除いて)。日本にはアンソロジーの文化がありませんし、翻訳を助成対象にする出版助成金もほとんどありませんので、採算が取りにくいのかもしれませんが、かつては、『現代の美術 別巻 現代美術の思想』(講談社、1972年)や『モダニズムのハード・コア』(『批評空間』1995年臨時増刊号、太田出版、1995年)など、アンソロジーの要素をもった書籍が刊行されて、好評を博したこともあります。良質な翻訳による現代美術のアンソロジーが出版されることを心より期待してやみません。
2005年から2007年にかけての3年間は、文部科学省の科学研究費補助金を得て、シンガポールや上海、台北、ブリスベン、サンパウロなど、これまで出掛ける機会のなかった国際美術展も含めて集中的に見て回ることができました。

研究課題名は「国際美術展における脱欧米中心主義の興隆の経緯についての研究」と、やや長いのですが、文化のグローバリゼーションについて均質化や画一化でない側面を見ていこう、という姿勢を「脱欧米中心主義の興隆」という言葉に表したつもりです。

グローバリゼーションをもじったものか、「ビエンナリゼーション」という言葉があります。国際美術展について豊富な情報を提供しているドイツのサイト「ユニヴァーシズ・イン・ユニヴァース(Universes in Universe)」の編集者ゲルハルト・ハウプトが2000年頃に使い始めた言葉だと言われています。

『アートネクサス(ArtNexus)』という雑誌の現物は見たことがないのですが(コロンビアのボゴタで刊行されている雑誌のようです。武蔵野美術大学に英語版が所蔵されています)、ネット検索で国際美術展についての批評記事を見つけました。カルロス・ヒメネス(Carlos Jiménez)によるその記事は「ベルリン・ビエンナーレ―アンチ・ビエンナリゼーションの見本?(The Berlin Biennale a mode for anti-biennalization?)」と題されており、2004年7-9月号の掲載で、「ハウプトが数年前に使い始めた言葉だ」と指摘しています。そこから逆算して、私は2000年頃だろうと推測しているのですが(ユニヴァーシズ・イン・ユニヴァースのビエンナーレ・カレンダーも一番古い情報は2001年のものです)、この件については、いつか実際に本人に確認してみたいとも思っています。

私自身がハウプトのサイトでビエンナリゼーションという言葉を見つけたのは2004年2月16日より少し前です。ある論文の註にサイトを閲覧した日付を入れているので、そのことが確認できるのですが、否定的な文脈で語られていた、という印象以上のものを残していません。ビエンナーレ・カレンダーのページに添えられた数行ほどの短いコメントの中にあった言葉だったと記憶します。また、当時はビエンナーレ・カレンダーの表題の位置に「キャラヴァン」という単語が掲げてありました。キュレーターと美術家たちを隊商に見立て、同じ顔ぶれが世界中を旅している印象を喚起することをねらったものだと思います。このキャラヴァンの表示も2006年頃までは残っていましたが、今は過去の分も含めて削除されています。

結局、ハウプトがビエンナリゼーション―「ビエンナーレ化現象」と訳したいと思います―という批評を国際美術展をとりまく状況に投げかけた時点、確かに90年代を通して同質化の危機はあったと言えるかも知れませんが、むしろこうした否定的な側面は2000年代の実践の中で解消されていった、と考えることができると思います。

2005年の横浜トリエンナーレが「場にかかわる」ということを重視して個性化を図ったのと同じ問題意識が、他の多くの国際美術展でも共有され、実践されているように感じます。

日本国内だけを見ても、2009年の現在、横浜以外にも福岡や越後妻有、2010年に始まる「あいち」を含めて4つの大きなトリエンナーレがあり、ほかにも神戸や北九州、BIWAKOやUBEなどのビエンナーレがありますが、それぞれ実に個性的です。

2005年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展の印象も2003年と一転してすこぶる良く、このとき初めて―文献上評判の悪い―日本館の人造大理石の床を目にしましたが、石内都さんの展示とよく映え合っていて、とても美しく感じました。

どんな状況にも創造的に対峙する、という取り組み姿勢が大切な気がします。

20050615-3_blog.jpg
ヴェネツィア・ビエンナーレ第51回国際美術展 日本館の展示風景=石内都「マザーズ 2000-2005 未来の刻印」 コミッショナーは現・東京都写真美術館の笠原美智子さん 2005年6月15日13時09分(外は晴れ)

※4月25日から6月14日まで、群馬県立近代美術館で「石内都 Infinity ∞ 身体のゆくえ」が開催されます。石内さんは群馬県桐生市のお生まれです。


2004年に研究助成が得られことが決まって、先ず行ったのはマニフェスタ5の記者登録でした。プレス・プレヴューとも呼ばれる内覧会・開会式に参加するためです。記者登録は、ほとんどの国際美術展で、公式サイトから行えます。「Press accreditation(記者認定)」をクリックし、申込フォームに必要事項を入力。後日電子メールで送付されてくる書式を返送します。

かつて、国際美術展の展覧会場での撮影は大らかなものだったと記憶します。記者登録の必要性を感じたのは、2003年の第7回リヨン・ビエンナーレで会期中の撮影許可が下りなかった経験からです。会場撮影は内覧会の日のみに限定する、という方針です。一方、同じ調査旅行で回ったヴェネツィア・ビエンナーレ第50回国際美術展では、そうしたことはありませんでした。

リヨン・ビエンナーレの事務局は、代わりに記者資料として作品画像の入ったCD-Rをくれました。しかし、日本に帰って中を見てみると、出品作家の過去の作品が中心で、展示されていた作品とは異なる写真が随分ありました。設営美術を中心とする現代美術展において、開幕と同時に発売される展覧会図録には、実際に会場で見ることのできた作品ではなく、図録刊行に間に合わせられた過去の作品写真が用いられるのが一般的です。リヨンの記者用CDは、図録に掲載されている図版とほぼ同一でした。

しかしながら、第7回リヨン・ビエンナーレでは2種類の図録が刊行されることになっていました。「アヴァン(事前)」と「アプレ(事後)」と題され、「アプレ」の方に会場写真が収録されています。展覧会終了後や会期中に、こうした記録集が刊行される例はいくつかあります。リヨンの第7回展のほか、ドクメンタ11、横浜トリエンナーレの第2回展(2005)年と第3回展(2008年)が、私の知っている例です。国際美術展の全体数に比して、ごく少数と言えます。

そうした中で、国際美術展の開催に合わせて、ふんだんに作品図版を掲載して特集号を組んでいるドイツの美術雑誌『クンストフォルム(Kunstforum)』や日本の『美術手帖』は貴重な情報源です。しかし、こうした雑誌でさえ、すべての出品作品を網羅してはいないのです。自分で撮影できなかった分については、各作家やその扱い画廊、そして展覧会主催者が蓄積しているであろう記録写真が最後の拠り所になります。


2004年のマニフェスタ5はバスク地方の観光都市ドノスティア=サン・セバスティアンで開催されました。内覧会は6月10日に行われ、翌11日午前中に記者会見、夕方には討論会、夜7-8時頃にジェレミー・デラーの企画による開幕パレードが行われました。

このうち、記者会見では「スペイン人作家がバスク出身のイニャキ・バルトロメ、アシエル・メンディサバル、D.A.E.の2人と1組、およびガリシア州出身でロンドン在住のアンヘラ・デ・ラ・クルスだけだったのには、政治的配慮があるのか」という質問に企画者の1人マッシミリアーノ・ジオーニが「国籍はまったく顧慮していない」とかわし、その直後に「王に死を(¡MUERTE AL REY!)」と書いたボードを掲げた女性が立ち上がり、液体の入ったペットボトルを主催者席に投げつけようとした男性が取り押さえられる、という顛末を目撃しました。

この2004年6月、バスク地方へ列車で乗り入れるための基点としてマドリードに滞在したのですが、同地のプラド美術館では、三脚を使わずフラッシュを焚かなければ作品の撮影ができましたが、2006年10月からは展示室内の写真撮影が禁止となりました。

デジタルカメラやカメラ付き携帯電話の普及で、フィルムの残量を気にせず、持ち運びにも気にならない機器を使って大変気軽に写真撮影を楽しめるようになってきた一方で、撮影禁止区域の設定や許可制度の徹底もまた広がりつつあるように思います。


20040611blog.jpg
マニフェスタ5記者会見での一幕 2004年6月11日11時58分(外は曇り)


『アンフォルム』の翻訳の話の続きです。

前回、『アンフォルム』の方法論的な慎重さや作品重視の姿勢について書きました。それは現代美術の専門家だけを対象としているということではありません。むしろその逆で、現代美術の研究者以外の方にも手に取ってもらえればという思いが私にはあります(なお、以下に書くことは私の個人的な考えであって、訳者同士あるいは出版社との共通見解というわけではないことをお断りしておきます)。

まずお勧めしたいのが、現代美術に関心がある一般の方々です。近年は、出版物の刊行や美術館の教育普及活動等により、現代美術の作品に対する解説や説明に触れる機会が増えてきましたが、作品のもっている歴史的、理論的な背景をここまで真剣に掘り下げている本はそう多くありません。文章は決して平易ではありませんが、それを読んだ後、作品を理解するということがいかにスリリングな体験であるのかがよく分かります。この本に取り上げられている作品の多くは、アメリカやヨーロッパの現代美術館でよく見かける作品ですので、海外で美術作品を見るときにも大きな助けとなります。

また、キュレーターの方にも興味を持って読んでいただけるのではないかと思います。もともとこの本は、イヴ=アラン・ボワとロザリンド・クラウスが企画した展覧会のカタログだったこともあり、作品の選択自体にさまざまな主張があります。たとえば、ブルース・ナウマンの《私のスチール椅子の下の空間 Space Under My Steel Chair》(1965-68)は、椅子の下の空間をコンクリートで固めて反転させて作った彫刻作品ですが、この作品が選ばれたのは、同種の作品が「署名作品signature work」となっているレイチェル・ホワイトリードのやや高すぎる評価に対抗するためであったことは明らかです。キュレーターは、現在、制作されている作品に価値を与えていくと同時に、それがどのような歴史を作り出しているのかについても自覚的に活動しています。美術作品を歴史に位置づける際の研究者側の有力な視点の一つを『アンフォルム』は提供していると思います。

そして、哲学思想に強い関心があり、同時に美術にも多少関心がある方にも、興味を持っていだたけるのではないかと思います。日本の読書層は、哲学思想への関心が高く、長い伝統があります。哲学者や思想家はしばしば美術作品を参照しますが、彼らよりもずっと巧みにかつ面白く美術作品を持ち出しているのが本書です。一見すると取りつく島がないように見える現代美術の作品が、理論的にアプローチすることでまったく違って見えるようになると同時に、その理論のもとになった哲学思想もまた新鮮に見えてくるのではないかと思います。

最後に、現在、作品制作に携わっている作家の方々にもお読みいただければと思います。私は、立場上、若い作家や学生のポートフォリオを見たりプレゼンテーションを聞いたりすることがあるのですが、そのときに思うのは、理論的に考えることの大切さです。「理論的に考える」とは、特定の理論的な立場に立って考えるということではなく、曖昧さを残すことなく徹底的に考え抜くということを意味するとすれば、本書は、そうした理論的な思考を鍛え上げる道具として第一級の価値があります。決して平易な本ではありませんが、読み終わった後に得るものもまたその分大きいことは保証できます。

以上書いてきたように、『アンフォルム』は、現代美術の専門家だけを対象とした本ではなく、様々な分野や立場の方々にとっても面白く読むことのできる本です。訳者の一人としては、上記以外の方々にも手を取っていただければ、望外の喜びです。『アンフォルム』のように学際的な性質をもち、より広い読者層に開かれている未邦訳の本は、まだまだあると思います。本書に関心をもって下さった月曜社の炯眼に感謝すると同時に、こうした書籍がこれからもっと注目を集めていくことを心より祈念しています。
先月、翻訳の仕事が一段落しました。近藤學さんと高桑和巳さんと一緒に翻訳していたイヴ=アラン・ボワとロザリンド・クラウスの『アンフォルム 無形なものの事典』の校正がほぼ終わりました。3人で翻訳しようと言い始めてから随分と年月が経ってしまい、その間お待ちいただいた方には大変申し訳なく思うと同時に、ようやく出版できそうでほっとしています(月曜社から出版されます)。本来なら、こうした文章は、刊行されてから書いたほういいのでしょうが、このブログも4月末までですので、今の時点での思いを書かせていただきます。

この本は、アメリカで活躍する二人の美術史家が、バタイユの用語を方法論として練り上げながら、主として第二次世界大戦後の美術を論じたものです。もとは、二人が96年にパリのポンピドゥー・センターで企画した展覧会「アンフォルム 使用の手引き」の図録として出版されました。翻訳は97年に出版された英語版に基づいて行いましたが、フランス語版にも一通り目を通して異同もチェックしています。

著者のボワとクラウスは、それぞれプリンストン高等研究所教授とコロンビア大学教授で、アメリカを代表する美術史家です(ボワはアルジェリア生まれのフランス人ですが、80年代半ばからアメリカで活動しています)。ともに学術誌『オクトーバー』の編集委員を務め、様々な理論を援用して美術史の方法論を変革しつつ、主に20世紀の美術作品について画期的な解釈を行ってきました(二人については、林道郎さんによる優れた紹介が『美術手帖』の1996年2月号と5月号に載っています)。

この本は、タイトルにある「アンフォルム(無形なもの)」から分かるように、第一に、クレメント・グリーンバーグが提唱したフォーマリズムに対する批判を目指しています。フォーマリズムに対する批判はその同時代から始まって、1980年代半ば以降は理論的に再検討する作業が進みました。ボワもクラウスも、それぞれの著書や論文の中で幾度となく論じています。本書は、さまざまな論者によって行われたフォーマリズムの再検討を踏まえつつ、これまでの二人の議論を集大成したものと言ってよいでしょう。

それと同時に、この本は、90年代前半に注目を集めていた「アブジェクト(おぞましいもの)」に対抗することも目指しています。松井みどりさんが『アート "芸術"が終わった後の"アート"』にまとめている通り、90年代前半には、アブジェクトと多文化主義に対する関心が高まりましたが、前者に対してはこの本が、後者に対しては1996年夏の『オクトーバー』77号のヴィジュアル・カルチャー特集が、否を突きつけたことになります(当時クラウスははっきり "I hate visual culture." と言っていました)。ボワとクラウスは、フォーマリズムだけでなく、反フォーマリズムの文脈で注目された「アブジェクト」に対しても批判の矛先を向けたのです。

この本を最初に読んだときに印象深かったのは、方法やその対象に対する姿勢の慎重さでした。実は、ボワもクラウスも、一般的に思われているほど、新しい理論や方法に関心をもつような美術史家ではありません。本書に出てくるのは、バタイユだったり、精神分析だったり、記号論だったりと、とても「古くさい」理論ばかりです。フォーマリズムに一時期慣れ親しんでいた二人は、この本において、自分たちが依拠してきた方法を再検討して批判するという、地味な作業を行っています。丸山昌男が『日本の思想』で論じたように、新しい理論が出てくると、それまでの理論は古くさく見えてしまい、新しいものに取って代えようという動きがよく起こりますが(これは日本だけの現象ではなくアメリカのアカデミアでも一部見られます)、そのように意匠として理論を扱うのではなく、自らが依拠してきた方法を愚直なまでに検討し続けているところに新鮮な思いがしました。

そして、それと同時に、彼らが最終的には作品の解釈を豊かにすることを目指しているところも印象的でした。本書はきわめて理論的な書物で、フォーマリズムやアブジェクトに理論的に対抗するという側面もありますが、他方で、彼らの大きな関心が、どうしたら作品をこれまでとは違ったやり方で見ることができるかというところにあることも事実です。二人は、一般的に思われているのと違って、作品分析を重視しています。美術史でもホミ・バーバの議論が注目を集めたこともあり、昨今、作品そのものよりはそれが生産・流通・受容された時代や地域、状況の分析に重きを置く論文が増えましたし、私自身そうした論文を何本か書いたことがありますが、絶えず作品に還っていこうとする二人(とくにボワ)の姿勢を見ると、いつもハッとさせられる思いがします。
2002年4月に山口大学へ着任して以降は、毎年、何らかの国際美術展を見に出掛けています。

研究テーマを国際美術展に絞ろうと考えたのは2003年秋頃です。2002年にドクメンタ11とマニフェスタ4、そしてカールスルーエのZKMで開催されていた「イコノクラッシュ(Iconoclash: 造語、Icon 偶像+clash 衝突)」展を見るためにドイツへ出掛けた時点では、デジタルカメラはまだビクターのGC-S1(98年3月発売)を使っていました。

当時のデジタルカメラの性能が格段に向上していることを認識できたのは、再び国際美術展のスライドレクチャーのおかげです。高価な電気製品は基本的に長く大切に使い続ける、という信条ですが、A.I.T.の主催で2002年7月に開催された「第11回ドクメンタを考える」(東京、スパイラル)で見た作品画像と、自分のカメラで撮影した画像の鮮明度の違いは悲しくなるほどに大きく、質素倹約の思想の一部を切り崩してでもデジタルカメラを買い換えねばならない、という気にさせられました。

それでもおそらく控え目と言えるニコンのCOOLPIX 3100を携えて出掛けた2003年の第50回ヴェネツィア・ビエンナーレを見終わった直後、私は、もうヴェネツィアに来るのはやめよう、と考えました。

第50回展の総合監督を務めたフランチェスコ・ボナーミは、「観客の専制」という副題を与えていましたが、アルセナーレの展示から受けた印象は、むしろ逆で、観客や出品作家をないがしろにし、展覧会の企画者の名前ばかりが飾り立てられているように思われました。同展の国際企画展部門は、複数の展覧会から構成されるオムニバス形式となっており、各会場の入口には、展覧会のタイトルとその展覧会を企画したキュレーターの名前が大きく表示されていました。言っていることとやっていることが違う。これではまるで「キュレーターの専制」だ、と腹立たしい気分になったのです。ボナーミには、「キュレーションのさまざまな方法論を比べる」という意図があったようです(『美術手帖』2003年9月号、42頁)。

そしてこの義憤に似た感情から、私は国際美術展を本格的に研究するための助成金申請書を書き始めました。

「国際美術展とグローバリゼーション―展覧会企画者の理論と実践」として財団法人花王芸術・科学財団の2004年度の芸術文化助成に応募し、幸いにも40万円の研究助成を得ることができました。

同研究課題につけた英語の副題が「Curator's Discourse and Audience's Experience(企画者の言説と鑑賞者の体験)」です。研究に取り組んだ1年のうちに、グローバリゼーションに関する基礎的な文献を読み、国際美術展図録の収集を拡充し、マニフェスタ5と光州ビエンナーレという欧州とアジアの国際美術展を比較しつつ、ビエンナーレ化現象(Biennalization)について考察することができました(マニフェスタと光州ビエンナーレは、ともに2004年に第5回展を迎え、それぞれ約10年の歴史を持っていました)。

また、あれこれ考察していく過程で、当初の怒りの矛先は、結局、展覧会企画者の意図というものは、展覧会の中にうまく実現できる場合もあれば、できない場合もある。思いが先走ることはむしろ多いのかも知れない、というごく当たり前の事実に思いが至って、随分と収まりました。「結果的な言行不一致」という理解です。

ところで、最近大阪でヴェネツィア・ビエンナーレ第50回国際美術展のイスラエル館で見た作品と再会しました。ミシェル・ロブナーの《Order》と《More》で、出品されているのは新しく再編集されたものです。この作品のほかにも第48回展の日本館に出品された宮島達男の《MEGA DEATH》が展示されている「インシデンタル・アフェアーズ―うつろいゆく日常性の美学」(サントリーミュージアム[天保山]、5/11まで。企画・構成:大島賛都)は、国内の所蔵品をうまく活用しつつ、現代作家17名の質の高い作品を会場にバランス良く配した、とても好感度の高い企画でした。

20030918blog.jpg
カステッロ公園の並木道(画面左の椅子を乗せた木の切り株はクリストフ・シュリンゲンズィーフ《恐怖の教会》の部分。砂利道の中ほど右側の大きなパスポートはサンディ・ヒラル&アレサンドロ・ペティ《国境なき国家》) 2003年9月18日11時17分(晴れ)


前回紹介した通り、2001年の第49回展にゼーマンは伊・英・独・仏の併記で「人類の舞台:プラテア・デル・ウマニタ/プラトー・オブ・ヒューマンカインド/プラトー・デア・メンシュハイト/プラトー・ド・ルマニテ(Platea dell'Umanità / Plateau of Humankind / Plateau der Menschheit / Plateau de l'humanité)」というタイトルを与えました。

もしこれに漢字やアラビア文字などアルファベット以外の表記も加わっていれば、より一層国際性や地球時代性を表現できたかも知れませんし、かえって「鼻につく」という批判を浴びたかも知れません。

スイス人のゼーマンは複数の欧州語に通じていました。伊英独仏の4言語に限ったのは、自らの守備範囲に自覚的な態度だと思えます。前回も引いたインタヴューで「アフリカ現代美術の動向を展覧会に反映できているか」という質問に、「アフリカについては、まだ一度も訪ねたことがないから作家を選出するのは難しい。ジュネーヴの現代美術館で見たキンゲレーズなどには関心を持っている」と答えていたくだりが思い出されます(『アートプレス』1999年6月号)。こうしたやりとりから類推されるゼーマン像は、自分の拠って立つところを的確に分析した上で行動の指針を決めていく人物です。

2001年の「人類のプラトー」という表題は、私にとって悩ましいものでした。先に耳に入っていた『千のプラトー』が意識にまとわりついていたためです。調べてみれば、「『人類のプラトー』はドゥルーズ+ガタリの『千のプラトー』が霊感源の一つだ、とゼーマンが冗談交じりに語った」という証言もありました(『アートフォーラム』2001年5月号、ダニエル・バーンバウムによる記事)。

ゼーマン自身は同展の図録の中で「この概念は多くの概念を内包している。それはプラトー(plateau)であり、基礎(basis)であり、土台(foundation)であり、プラットフォーム(platform)である」と述べていました(xviii頁)。さっぱり正体がつかめない、といった印象を持ったものです。

「人類の舞台」という訳は、『美術手帖』2001年9月号の小倉正史さんの記事に倣っています。ドゥルーズ+ガタリの「リゾーム」の邦訳からは「台地」という訳語も導かれるため、当初私は「人類の台地」の方が適切とも考えていたのですが、ある朝、ふとゼーマンが展覧会を「舞台」になぞらえるのには相応の理由がある、と腑に落ちました。

ゼーマンの生涯に関する記事の多くは、彼がベルンのクンストハレの館長に就任し、1969年に「態度が形になるとき」展を企画した辺りから書き起こして、同展の前衛性が問題となって、組織から独立した展覧会企画者の先駆けとなる、という流れでまとめられることが多いため、私自身、意識の表面に引っ張り出すのに時間がかかったように思えるのですが、ゼーマンは彼の経歴を演劇から始めた人でした。

詳しくは、同じスイス人でもあるハンス=ウルリッヒ・オブリストによるインタヴューに書かれていますが、ゼーマンは18歳の頃、友人の役者2人と音楽家1人と一緒にキャバレーを始め、そこで人間関係に嫌気がさして、1955年頃から結局一人芝居を始めた、と語っています(『アートフォーラム』1996年11月号)。

ゼーマンの言葉の中でも特に印象的だったのが「構想から釘まで(From Vision to Nail)」(前出の『アートフォーラム』、112頁)です。思い描いた仕事を実現するために釘を打つことも含めて全部独力でやる取り組みの姿勢として解釈されます。インディペンデント・キュレーターという肩書きと、一人芝居をやっていた経歴は、うまく符合しているようにも思われます。

語の多義性を活かすために「人類のプラトー」と敢えてカタカナ表記することも考えられるのですが、「人類の舞台」とした方が、私は命名者の人生―温もり―が感じられてより良い、と思えるのです。

20050615-2blog.jpg
リアルト橋から大運河を望む 2005年6月15日20時26分(晴れ)

私が勤務している広島市立大学芸術学部は実技系の学部で、美術学科には、日本画、油絵、彫刻の各専攻が、デザイン工芸学科には、視覚造形、メディア造形、立体造形、金属造形、漆造形、染色造形の各分野と現代表現領域があります。全ての学生は、制作として芸術を学んでいます。

私以外の教員は全て、実技を教える教員で、芸術学部では私だけが「理論系教員」と呼ばれる美術史担当の非実技系教員です。もちろん、一人で美学美術史をすべて教えているわけではありません。美学や日本美術史は国際学部の教員が担当していますし、西洋美術史や東洋美術史などは非常勤講師が教えています。私は現代美術史を受け持っています。

この大学に赴任する前も作家や実技系の学生と知り合う機会はありましたが、私は美術大学の出身ではないので、学生から教員まで周りがここまで作家ばかりという環境は初めてです。もちろん、それゆえに苦労することもなくはないですが(特に校務で)、総じて新鮮な環境を楽しんでいます。

現代美術を教える現代表現領域の授業では何度も作品の講評をしていますし、授業以外で講評を求められることもよくあります。これまで、本当のコンテンポラリーの作品はもっぱら見るばかりで、書く文章は、「現代美術」と言っても数十年も昔の歴史的な作品や作家を対象にしてきましたので、最初は多少の戸惑いを覚えたのは事実ですが、じきに興味を覚えるようになりました。作り手の考えを身の丈で考えるようになりましたし(そもそも研究者もある意味で「作り手」です)、作家である他教員や、非常勤講師などで来学する批評家や学芸員の方が講評する場に立ち会うのも得難い経験です。

現代美術の作品を見るという経験は、研究者が議論を作り上げるプロセスに似たものがあります。最初に受ける印象は漠然としているのですが、そのときに心に引っ掛かったことが徐々に見えてきて、それを明らかにするうちに、あるとき「見えてくる」という経験です。昔、クレメント・グリーンバーグの美術批評における「瞬間性」論を、マイケル・フリードの「瞬間性」論と峻別して、再解釈する論文を英語で書いたことがありましたが、そのときに考えていたのは、まさにそういうことでした。制作と研究はそれほど大きくかけ離れた事象ではないと私は考えています。

研究者として以前から考えてきたことを、作家や作品と触れ合う中で実際に体験するということもありますし、その反対に、作家や作品との対話の中からある種の言説が立ち上がってくることもあります。現在の恵まれた環境をうまく活用しながら、現代美術に関する自らの議論を練り上げていければと考えています。
1999年は、ハラルド・ゼーマンがヴェネツィア・ビエンナーレ第48回国際美術展の総合監督を務めた年です。

ゼーマンは、2001年の第49回展も続投しました。雑誌『アートプレス』の99年6月号に掲載されたインタヴューで、「今後、監督の任期は4年になった」と述べていますから、最初から続投の予定だったようですが、第50回展以降の総合監督は毎回異なるので、4年任期制はゼーマン一代限りとなったと考えられます。

第48回展を、ゼーマンは「全解放:ダペルトゥット/アペルト・オーヴァー・オール/アペルト・パル・トゥ/アペルト・ユーバー・アル(dAPERTutto / APERTO overAII / APERTO parTOUT / APERTO überALL)」と題しました。伊・英・仏・独の4言語表記は、第49回展「人類の舞台(プラテア・デル・ウマニタ...)」にも引き継がれます。

「展覧会はキュレーターの作品か?」といった議論がありますが、最近講義の関係で読み直した佐々木健一さんの『タイトルの魔力』(中公新書)には、「名づけ」という行為そのものが、ひとつのものの見方の提示である、と書かれていました(121頁)。展覧会の題名が、その全体像をうまく言い表していることもあれば、逆に裏切っていることもあるように思いますが、展覧会に題名を与える立場の人は、少なくともその展覧会の作者的な役割を担っている、と言えるでしょう。展覧会がキュレーターの作品化することの善し悪しを別として、キュレーターが展覧会の「タイトルづけ」を介して、そうした立ち位置にあることを論及していくことには意義があると思います。

ドクメンタ(72年)、リヨン、光州(97年)、シドニー(00年)、セビーリャ(04年)など、ヴェネツィア(80, 99/01年)以外にも数々の国際美術展の企画に携わったゼーマンは、2005年2月18日に71歳で亡くなりました。

2005年6月に開幕した第51回展以降、ヴェネツィア・ビエンナーレの主会場にあるスイス館(ゼーマンはベルン生まれ)の外壁には、「ゼーマン通り」という表示が掲げられています。

20050615blog.jpg
カステッロ公園のスイス館 2005年6月15日12時55分(晴れ)

韓国から戻ってきた後、週末の東京出張が続きました。会議や研究会に出席する合間に、先々週は、「VOCA展2009」(上野の森美術館)を見て、Port Bの「サンシャイン63」に参加しました。先週は、「アーティスト・ファイル2009」(国立新美術館)や「ジム・ランビー」(原美術館)を見る一方、ギャラリー等を回って、「田中功起」(青山|目黒)や「ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー」(メゾンエルメス)、Chim↑Pomの「広島!」(VACANT)等を見ました。

それぞれに興味深い発見があったのですが、今回はChim↑Pomの「広島!」を見て考えたことを書きます。

ご存知の方も多いと思いますが、Chim↑Pomは、昨年秋に広島市現代美術館で個展を開催する予定でしたが、作品制作のため広島の上空に飛行機で「ピカッ」の文字を書いて問題となり、展覧会が中止になりました。今回の「広島!」は、そこで展示される予定だった《リアル千羽鶴》や、中止の原因となった映像作品《ヒロシマの空をピカッとさせる》を展示する企画でした。

《ヒロシマの空をピカッとさせる》は、広島の上空に「ピカッ」という文字を書いた5分ほどの映像作品で、原爆ドームが入った映像と文字にクローズアップした映像がセットになっています。ともに、街を行く人々のオフの声が入っています。

この作品については、今回出版された書籍を始めとしてさまざまな議論が展開されましたが、その中でも興味を引いたのは椹木野衣さんの文章でした。椹木さんは、この作品は、その「薄っぺらさ」において、アウシュヴィッツ以後の芸術がもつ「暴力」(アドルノの意味における)の問題を回避し得ること、「ピカッ」という文字は、原爆を表象するよりも、こうした行為が可能な戦後日本の平和を表象すること、上空に文字を書いて一方的に地上の人に見せるという、非対称な関係に基づく行為は、想像力が欠如している点で、加害者としてのアメリカ人的な感性に基づいていること、そして、その感性は、Chim↑Pomだけのものでなく、アメリカ化しフラット化した戦後日本の感性であること、などを指摘しています。

実際の作品を見た印象も、こうした指摘に違うところはほとんどありませんでしたが、それに一点付け加えるとすれば、文字が、スチル写真でみるほど鮮明ではなく、書いたうちから文字どおり雲散霧消していくということの意味です。

描いたものが消えていくという点で想起したのが、表現方法も主題も全く異なりますが、オスカル・ムニョスの《あるメモリアルのためのプロジェクト》です。この作品は、路上のコンクリートの上に水で肖像画を描いていくけれど、日に照らされてたちまち消えていくのを収めた映像作品で、行方不明になる人々が後を絶たないコロンビアの政治的・社会的な状況を浮かび上がらせたものとされています。絵が完成しないうちに、最初に描いた部分が薄れていく様子は、Chim↑Pomの作品にも見られる特徴で、ともに、記憶というよりもその忘却を強く感じさせる表現だと思います。

「忘却」を意識したのは、それが日本語で書かれていたこととも関係しています。水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』が指摘しているように、近代の日本においては、西洋語を読みながら日本語で書くことに一定の意味があったとしても、英語のグローバル化が進む今日、日本語で論文を書くことの虚しさを感じたことがない研究者は、おそらくほとんどいないでしょう。「ピカッ」という文字はやはり日本語で書かれなくてはならなかったと思いながらも、この3文字のもつ意味合いが、日本語を超えた世界でどのように伝わるのか、考えさせられました。そしてそれは、単に日本語を使っているというだけの問題ではなく、日本語環境の経験によって作られた表現そのものが直面する問題であるように思います。

雲間に薄れてゆく「ピカッ」の文字に、戦争の記憶が失われ、戦後日本の平和が基づいてきたものが見えなくなる様子を重ね合わせながらも、それと同時に、私たちが用いている日本語が、そしてそれが可能にした経験や表現が、英語のグローバル化が進むなかで、どのような意味を担っていくのか、他の日本の作品も参照しながら、考えていく必要があると思いました。
1995年のヴェネツィア・ビエンナーレでフィルムを51本使った話の続きです。

合計1,757枚という数は、当時1本のフィルムで36枚から38枚撮影できたことを考えれば、200枚近く少ない計算になります。ヴェネツィアの風景など展覧会と直接関係のない写真や撮り損じを除いた数、という意味でもあるのですが、より具体的には、100枚ずつPhoto-CD化したものが17枚、そして18枚目のCDに57枚の画像が記録されていた、ということから導き出した数字です。

当時、ネガやポジから画像データに変換して、CD-Rに焼きつけてくれるサーヴィスがありました。93年にもこのサーヴィスを利用して3枚のPhoto-CDを作成しています。

今回、このブログの記事を書くにあたり、先ずそれらのPhoto-CDから画像を取り出してみましたが、768×512ピクセルというサイズは、すでに実用的な水準からこぼれ落ちてしまった感じを受けました。そこで、他の記事で表示している写真と合わせる意味でも、あらためてフィルムからスキャナで取り直してみたところ、サイズだけでなく、色調やコントラストもより好状態の画像が得られました。この分野での技術が日進月歩で向上してきたことを実感します。
 

1997年は、ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展とドクメンタX、ミュンスター彫刻プロイエクテの3つの大型展が重なった最初の年です。ドクメンタは1972年の第5回展以降、5年ごとの開催に安定し、ミュンスターは1977年の第1回展以来決まって10年ごとに開催されたので、2つの大型展はずっと重なっていたのですが、1990年代に入って、ヴェネツィア・ビエンナーレが95年に100周年を迎える関係から、93年に、それまでの偶数年の開催から奇数年の開催へと変更したため、3つの大型国際美術展が連続して開幕する「惑星直列」のような周期性が生まれたのでした。今後もいずれかの国際美術展に開催周期のずれが生じない限り、10年ごとに3つの大型展が重なるヨーロッパ現代美術の一大イベントが続くことになります。2007年にはアート・バーゼルも含めた「グランド・ツアー」という協力体制も生まれており、さらなる展開もあり得るでしょう。

私はこれまで1997年、2002年、2007年の3回のドクメンタを訪れましたが、もう少し長く見続ければ、惑星直列の年(97年、07年)とその裏の年(02年)というように、ドクメンタを2つに分けて、対比的に論じることが可能になる、と考えています。
 

ところで、1997年の私は、最初にお話した群馬県立美術館の学芸員になったばかりでした。公務員の1年目で年休は少なかった反面、業務的には先輩方にご協力頂いて秋口に出掛けることができました。夏季休暇や代休も合わせた9月20日から10月4日までの15日間で、パリ、リヨン、ミュンスター、カッセル、ヴェネツィア、ローマを回る計画を立てたのは、限られた日数内にできるだけ多くの展覧会場を訪れたかったからです。

当時私が所持していたデジタルカメラはQV-10Aでした。カシオから96年3月に発売されたヒット商品で、同年4月から水戸芸術館で開催された「水戸アニュアル'96 プライベートルーム」の取材用に購入したので、ほぼ発売直後に入手したことになります。日常的にはかなり活躍しましたが、内蔵メモリに96枚までしか記録できず、長期出張で大量に撮影する予定なら随時パソコンかFDに転送する必要がありました(しかも相当時間がかかりました)。画像のサイズはわずか320×240ピクセル。レンズも固定焦点で、引きのない会場で大きな作品を撮影するのには向いていませんでした。

限られた滞在時間と、撮影のためにノートブックか専用の読み取り装置を携帯しなければならないという煩わしさを考え合わせて、このときの旅行で「見ることに専念する」と決め、撮影そのものを自分に禁じたことは今でも悔やまれます。写真の必要があれば、プロが撮影したものを利用するべきだ、という妙な職業意識を持ってしまっていたとも言えます。この旅行で唯一撮影したのは―つまりそれでもQV-10A本体は携帯していました―リヨン・ビエンナーレの会場で見たクリス・バーデンの《空飛ぶスチーム・ローラー》でした。軍用の巨大なローラー車がメリーゴーランド風に旋回する様子は、写真に撮らなかったとしても今日まで脳裏に焼きついていたかも知れません。そして、むしろ印象の薄かった作品ほど、撮影しておくことの重要性をのちに痛感することになります。

QV-10Aの次に購入したのがビクターのGC-S1でした。しかし、サイズや解像度の点で、現在、使用に耐えられる画像となると2002年9月に入手したニコンのCOOLPIX 3100で撮影したもの以降になってしまいます。

 
20030917blog.jpgヴェネツィア・ビエンナーレ第50回国際美術展の国別参加部門で金獅子賞を受賞したルクセンブルク館のツェ・スー・メイの映像作品 2003年9月17日16時18分(外は晴れ)

※ちょうど今、「ツェ・スー・メイ」展が水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催されています(5月10日まで)。


1993年のヴェネツィア旅行の続きです。

ヴェネツィアへの旅は、海外調査としては3度目で、91年6月のニューヨーク、フィラデルフィア、92年3-4月のヨーロッパ周遊に次ぐものでした。卒論のテーマがマルセル・デュシャンだったので、ニューヨーク近代美術館とフィラデルフィア美術館のデュシャン作品を実見し、修士に進学した年に1カ月近くかけて、ロンドン、ブリュッセル、アムステルダム、パリ、ベルリン、ケルン、ミュンヘン、ウィーン、ミラノ、マドリードの主要美術館と現代美術を扱っている画廊を中心に見て回りました(第2回目に紹介した概論の講義は、このときの旅をもとにしています)。

とにかく見に行くことを主目的としていた最初の旅行では、写真にお金かけるという意識がまるでなく、「写ルンです」を持って行きました。2度目と3度目の旅行には、さすがにズームレンズを付けたペンタックスの一眼レフを持って行きましたが、まだネガフィルムに日付入りで撮っています。ポジフィルムを持って行くようになったのは95年の第46回展です。ヴェネツィア・ビエンナーレ100周年の記念すべき回、ということで、再び出掛けたのでした。このとき、中古で買ったオリンパスのOM-IIに、やはり中古の40mm/f2レンズ(ズームレンズより明るい)を付けて、デイライト用とタングステン用の2種類のポジフィルムを準備し、合計1,757枚の作品写真を撮影しました。

93年のヴェネツィア旅行で使用したフィルムが10本。それに対して95年に使用したフィルムは51本に増えました。

なぜ、そんなにたくさんの作品写真を撮ったのか。前回の記事を書いたあと、ずっと忘れていたことを思い出しました。当時、「ヴァーチャル・ミュージアム」という言葉が注目を集め始めていて、私はほとんど、その考えに熱狂していたのでした。100周年のヴェネツィア・ビエンナーレの展示を再構成できるくらいの写真を撮ろうと、展示室ごとにさまざまな角度から撮り続けていくうち、帰りの荷物が肩に食い込むほどの本数に達していました。

2009年の現在、いくつかの美術館のサイトにヴァーチャル・ギャラリーのメニューがありますが、あれから15年の歳月が流れたことを考えれば、この領域はほとんど進歩していない、という気がします。かつての静止画1枚を表示させるのにもイライラするほど時間がかかった時代から、今や高精細な動画をストレスなく楽しめる時代へと、インターネット上のデータ転送速度は大きく向上しました。他方、3D空間を自在に散策して美術作品をBGM付きで鑑賞したり、よその国からアクセスしている人と同じ作品をめぐってリアルタイムで意見交換したり、というニーズは開拓されず、むしろ美術作品こそヴァーチャルでない本物との対面が必要だ、という考えが広く浸透し、さらにはオーディオガイドの普及によって鑑賞体験は一層個人化したように感じます。

ある種の美術作品は永遠の存在でも、展覧会自体は、会期が終了すれば消滅してしまう時限的な存在です。また設営美術、設置美術―適訳がありませんが要するにインスタレーション―のような形態をとる現代作品の多くが、場の特性(=サイトスペシフィシティ)を作品の要素として含み込んでいるため、発表の機会が違えば、それらはすべて「異なる」作品である、という理解も成り立つ状況が出現しています。

現代美術を考察するための基礎的な作業として、展覧会を再構成できる枚数の写真撮影が必要だ、という考えは私の中で強くなる一方です。

19950618blog.jpg崔在銀の作品で外観を一新した日本館 1995年6月18日13時頃(晴れ)




前回のソウル出張の続きです。

ソウルを訪れたのは今回が初めてでした。韓国の現代美術は、何年も前から、当時住んでいたアメリカでも話題になっていて作品を見る機会も時々あったので、もう少し早く訪れたかったのですが、なかなか機会に恵まれませんでした。

今回の滞在では、セミナーをしたSOMA美術館の他に、国立現代美術館、徳寿宮美術館(国立現代美術館別館)、アートソンジェ・センター、オールタナティブ・スペース・ループ、サムジー・スペース、リウム美術館、数々のギャラリー、京畿道のナムジュン・パイク・アートセンターなどを訪問しました。

こうした施設・組織の方々の何人かと話していると、日本のアーティストだけでなく、日本のキュレーターや批評家の名前がよく挙がります。すでにご存知の方も多いと思いますが、日本や韓国、他のアジア諸国のキュレーターが共同で企画する展覧会やシンポジウムは2000年代に入って増えていて、そうした状況の中で当事者同士のネットワークが進展しているようです。

そこで気になったのは、日本で現代美術を研究している研究者の名前がほとんど挙がらないことです。たしかに現代美術研究は、歴史のある美術史研究から見ると、端緒についたばかりと言っていいですし、現在のアートシーンで研究者が果たしている役割は、研究者が批評家として活動する場合を除いて、決して大きくありません。

もちろん、国際美術史学会や国際美学会等の国際的な組織があり、そこで交流が行われているのも事実ですし、私自身、アメリカにいた頃はそうしたシンポジウムやワークショップに参加したこともありますが、キュレーターのように、アジアの同世代と、メールとスカイプで連絡を取り合いながら、共同でプロジェクトを立ち上げていくには至っていません。

とは言え、現代美術の分野で研究者が共同でできることは数多くあります。グローバルな学問動向を反映して関心事の共通性は高まっていますし、比較研究の余地は限りなくあります。また、同じ本を翻訳している場合も多いです(ある美術館の図書室でArt Since 1900 [2005] の韓国語訳を見つけました)。共同研究で検討するテーマについては事欠かないように思います。

日本の現代美術の研究者も、少しずつですが、国際シンポジウムや今回のようなセミナーで、アジアの同世代の研究者と知り合う機会が増えてきていると思います。近い将来に、同世代の研究者と共同で、現代美術のシンポジウムや公開セミナーを企画していければと思いました。

しばらく更新ができず失礼しました。昨日韓国から戻ってきました。今回は、前回触れたセミナーについて書きます。今回の滞在では、セミナーを行っただけでなく、主要な現代美術の美術館やギャラリーにも行きましたし、美術関係者ともお会いしましたが、それは稿を改めたいと思います。

3月7日、ソウルのオリンピック公園内にあるSOMA美術館で「エモーショナル・ドローイング」展に関連したセミナーを行いました。ヤン・ジョンム先生(韓国芸術綜合学校美術学部准教授)と私がそれぞれ韓国と日本のドローイングについてレクチャーをした後、キム・ヨンチョル先生の司会でディスカッションを行いました。聴衆は、美術に関心をもっている学生を中心に、おそらく100名以上が集まり、立ち見も出るほど盛況でした。

ヤン先生は韓国でドローイングに関する展覧会が近年増えていることを指摘しつつ、韓国の近現代美術史におけるドローイングの重要性についてお話しになりました。私は、絵画や彫刻の下絵や習作とされてきたドローイングが1960年代以降、どのようにして自立的な価値を持つようになったのかをアメリカやヨーロッパの事例を中心にお話しした後、第二次世界大戦後の日本におけるドローイングの展開について説明しました。

日本の「デッサン」という言葉は、東京美術学校に西洋画科が新設された頃から使われ始めたと推定されています(ただしデッサン教育自体は工部美術学校の頃から行われています)。その「デッサン」という言葉が指し示してきた領域の中に「ドローイング」という言葉が登場して普及し始めたのは1970年代です。そのような言語的な変化を促したのは、フランスからアメリカへと美術の中心が移ったという地政学的な問題に加えて、1960年代のアメリカにおけるドローイングの位置づけの変化によるところが大きいように思います。

今回のレクチャーは、聴衆のことも考えて一般的な話を中心にしましたが、今後はもう少しテーマを絞って、研究を進めていければと思いました。日本におけるデッサン教育については先行研究もあるかと思いますが、フーコー的な視点を入れて言説の編制について詳しく追っていきたいですし、アメリカの60年代の動向と、90年代以降のドローイングに対する関心の高まりはどのように関係しているかについても考えていければと思いました。

日本とアメリカ以外でレクチャーをするのは初めてでしたので、当初は少し不安も感じましたが、ヤン先生やキム先生と事前に話しているうちに、美術史的な理解を共有していることが分かってきて、不安も解消されていきました。さらに、ヤン・ミソンさんのすばらしい通訳のおかげで何の不自由を感じることもなく、無事に終えることができました。最後になりますが、この企画をして下さった国際交流基金とSOMA美術館の方々にこの場をお借りしてお礼を申し上げたく思います。

kajiya20090307.jpg

ソウルオリンピック公園内にあるSOMA美術館の正面入口。2009年3月7日12時頃(晴れ)

年度末ということもあって、昨秋訪れたマニフェスタ7の調査報告書を作成しています。並行して、明日〆切の雑誌原稿も書いていますが、これも国際美術展の特集号への寄稿なので、要するに今、頭の中は国際美術展のことでいっぱいです。

国際美術展に関心を持つようになったきっかけは、修論のテーマにニュー・ペインティングを選んだことから、美術雑誌のヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタの記事をコピーしたり、まとめ直したり、といったこともやっていたのですが、より強い動機づけになったのは、1992年9月にワタリウム美術館で開催されたドクメンタIXのスライド・レクチャーでした。

国際美術展のスライド報告会は、現在、頻繁に開催されています。東京に限らず、山口や九州でもそうした機会はありますし、また日本以外でも同じような状況ではないかと思います。スクリーンに大写しにされた写真やヴィデオ映像とともに会場を見た感想が語られる報告会は、雑誌の記事を読むより格段に臨場感があります。

しかし、それだけではありません。そもそも2009年の現在と1992年当時では、現代美術をめぐる国内の環境が大きく違っていました。作品の先鋭さと展覧会の規模、そしてキュレーター、ヤン・フートが展覧会に込めた社会的メッセージなど、さまざまな点でスライド・レクチャーで紹介されたドクメンタIXは、私がそれまでに国内で見ていた現代美術展と大きく異なっていたのです。

当時、「八王子ゼミ」と呼んでいた大学の研究室の合宿があって、毎年1回、2泊3日や1泊2日でセミナーハウスに泊まり込み、学部生から院生までがそれぞれの研究テーマの時代順に発表を行っていました。1993年2月の合宿で、私は「国際展と現代美術」と題して発表しました。

発表を行った時点で、私は国際美術展を実際に見てはいませんでした。発表内容も、国際美術展にどのようなものがあるか、それらが現代美術を考える上でいかに重要な役割を占めているか、といった点が中心でした。

実際に見たのは、1993年のヴェネツィア・ビエンナーレ第45回国際美術展が最初です。会期終盤の10月3日から10日までの8日間の滞在で、思えば、このとき長期間にわたって水の都ヴェネツィアを散策しながら、世界各国から集まった作家たちによる現代美術展を見て回る、という滞在生活を心底楽しんだのが、いいかたちで今につながったのでしょう。

探しにくい場所で開催されている国別の展示や、会期の短い企画展を見逃すようなことがあっても気にならず、すべての作品の写真を撮ろうとして時間に追われるようなこともなかったのは、学生だったから、の一言に尽きると思います。

昨年11月にYCAMの湯田アートプロジェクトのレセプションのために来山されたMonochrome Circusの坂本公成さんと森裕子さんにご挨拶したとき、同じ93年の第45回展を見ていた、という話で盛り上がりました。遠い昔の記憶だからこそ、人と共有できたときの嬉しさはひとしおです。


雑誌やネットの記事、スライド・レクチャーを通して国際美術展を知っているけれども、あるいはまた国内で開催されている横浜トリエンナーレなどへ出掛けたことはあるけれども、ヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタへ出掛けたことはまだない、という人は多いと思います。

若い人なら学生のうちに、仕事のある人なら家庭を持つ前に、夫や妻のある方なら子どもを授かる前に―いろんなタイミングがあると思いますが―いずれにしても、滞在日数に少し余裕がもてるタイミングで出掛けられることをお勧めします。


今年のヴェネツィア・ビエンナーレ第53回国際美術展は、6月7日(日)から11月22日(日)までです。

19931003blog.jpg
カステッロ公園の並木道(正面奥にイタリア館、中空に元永定正《水》) 1993年10月3日16時頃(晴れ)


「weavingscapes―紡景」展のオープニングへ行ってきました。同展は、秋吉台国際芸術村で滞在制作を行った3人の美術家たちの成果発表展です(3月7日-17日)。

芸術村の滞在制作事業は、1998年の設立以来、毎年開催されています。今年度は49カ国185組の応募の中から、タイ出身のジャクラワル・ニルサムロン、アメリカ出身のアマンダ・J・ヒル、そして柳本明子さんの3人が選ばれました。

ニルサムロン―本人から聞き取った発音は「ジャッカーワン・ニータムロン」でした―は、《人と重力(Man and Gravity)》(約22分)という神話的な映像作品を完成させました。「人と重力」は、すでにタイ編が完成しており、今回の秋吉台編制作後も撮影を続け、シリーズ化する予定だそうです。会場ではタイ編と秋吉台編の2本を見比べることができます。
タイ編では、ゴミ集めを仕事としている男が、大きなゴミの山をバイクの脇に繋いで荒野を運んでいく様子が、淡々と、ロード・ムービー風に描写されます。
秋吉台編では、自分よりも巨大な鈴を引きずって歩く男が、森の中で女性の話を聞いたり、自分よりも年老いた息子と対話します。自分より年老いた息子という設定は、物質世界ではありえない設定ですが、「精神世界では可能」というのがニータムロンの考えで、カルマ(業)や輪廻転生について考えさせる内容になっています。3人の登場人物は、いずれも地元の人にお願いし、秋吉台の山焼きの光景も効果的に挿入されていました。

ヒルの作品も映像ですが、彼女は、日常生活の音に注目する作家です。山口で出会った人々に「音の日記」をつけてもらい、それらの映像と音を編集して「山口の音の風景」(約20分)を作り出しました。
梅の枝を切る音、商店街を走る自転車の音、湯田温泉の足湯の流れ出る音、そして精米所の籾殻の山が崩れてさらさらと流れ落ちる音など、山口を感じさせつつも、普段気づかない、あるいはまったく知らないような音も含まれていて、しかもそれらが関連性や対照性を織りなすように、とてもうまく編集されていました。
昨年7月にYCAMで大友良英さんとアンサンブルを行った、石井栄一さん(自作の電子楽器を操る中学生)も参加しています。

柳本さんの作品は、透明ビニールを支持体として、パステル色の毛糸や蛍光色の細いビニール・チューブで室内風景を編み上げたものでした。
葦簀(よしず)に編み出された古い日本家屋の廊下の風景は、秋芳町のあちらこちらに置かれ、町の人々の目に触れている様子がヴィデオに記録され、上映されていました。葦簀の作品も、施設の野外劇場の舞台中央にワイヤーを使って自立するように展示されていました。
ギャラリーには、もう1点、こたつのある室内を編み出した作品が宙づりにされていました。
どちらも独特の色彩感覚で、地元の人々のお宅を訪ねて取材した室内風景をもとに構成したもので、好感の持てる作品でした。

総じて、「景色を紡ぐ」という展覧会タイトルが、とてもしっくりくる滞在制作展だったと思います。

オープニングに合わせて、あいちトリエンナーレのキュレーター・拝戸雅彦さんと、山口大学教育学部准教授で、国際美術展などでも活躍している美術家・中野良寿さん、そして3人の滞在美術家を交えたトーク・イベントも行われました。
拝戸さんは、「3人の作品は秋吉台を題材にしているが、その手法は他の地域にも応用可能で、作品のテーマにも国際性、普遍性がある」、「それぞれきちんと作り込んであって、しみじみと見ることができた」と高く評価する一方で、「東京や愛知からわざわざ人が見に来るようになるには、最低10人くらいの規模が欲しい」と建設的な注文をつけました。
中野さんは、「7年前に山口に赴任して以来、芸術村の滞在プログラムに参加したほとんどの作家と交流してきた」と自己紹介の際に語っていました。また、司会進行も務められ、1人1人の経歴や今回の滞在制作の様子について、丁寧に聞き出していました。

トーク・イベントには、14歳の石井さんから72歳のおばあさんまで、取材を受けた人や、出演した人など、さまざまなかたちで滞在制作に関わった約30名の人が集まり、熱心に話を聞いていました。毎年の作家数は少なくとも、交流の実績は着実に積み重なっている、と感じました。

20090307blog.jpg
トーク・イベントの様子(左から、ジャクラワル・ニルサムロン、アマンダ・J・ヒル、柳本明子、中野良寿、拝戸雅彦の各氏) 2009年3月7日15時56分(晴れ)



今週末に韓国でセミナーをすることになったので、その発表原稿を準備しています。昨年、東京と京都で開催された「エモーショナル・ドローイング」展(主催=東京国立近代美術館・京都国立近代美術館・国際交流基金)が現在巡回しているソウルのSOMA美術館で、1960年代以降のドローイングについて話す予定です(ハングルですが詳細はこちら)。

ドローイングとは、実に多義的なメディアです。ドローイングは、線を引くという美術の最も基本的な行為でありながら、絵画や彫刻の下絵や習作として補助的な役割を担わされてきました。また、フランスのアカデミーで、感覚を連想させる色彩を重視したルーベンス派に対して、プッサン派が知性と結びつく線描を重視したように、ドローイングは知性と結びつけられてきました。その一方で、今回の「エモーショナル・ドローイング」展にあるように、情動を誘発する媒体ともみなされています。現在のドローイングは、こうした多義的な特徴を受け継ぎつつ、おそらく1960年代に大きく変貌を遂げたのではないか――そうした考えのもとに、今回の講演では1960年代以降のドローイングについて話してこようと思っています。

講演で時間があれば少し触れたいと思っているのが「ドローイングとアジア」というテーマです。他ならぬ「エモーショナル・ドローイング」展は、アジアや中東の作家の作品を集めた展覧会でしたし、関連シンポジウムで、信州大学の金井直さんが西洋とアジアでの石膏デッサンの展開について発表なさったとも聞きました。

日本の絵画史では、色彩を重視した琳派を除いて、概ね線描が重視されてきました。障屏画でも絵巻物でも、ものの輪郭線は丹念に描かれています。それは、絵を描くことがものの輪郭を描くことを意味したからだと言えます。しかし、明治以降に本格的に入ってきた西洋の画法は、ものの形(プロポーション)に加えて、陰影の調子による立体感の表現を重視しており、それまでの日本の絵画と大きく異なるものでした。そうした西洋の画法が普及する中で、菱田春草や横山大観らが試みたのが、輪郭線によらずに面で描く「朦朧体」でした。それは日本画の近代化運動であり、アジア的な線描表現からの脱却を目指していたと言えるでしょう。

今日の日本におけるデッサン教育は、こうした西洋化・近代化の帰結です。現在では見直しも進んでいますが、入試の科目に石膏デッサンが入っている大学は依然として多くあります。ある美術大学の先生から聞いた話では、日本の大学院でデッサンをさせると、日本の学生が職人のように上手に立体感のあるデッサンを描くのに対して、ヨーロッパの留学生はジャン・コクトーのような輪郭線だけの線描画を描くことがあるそうです。ドローイングをめぐるこうした逆転現象はとても興味深いものです。受容史という意味では、ドローイングとデッサンという言葉の差異も考える必要があるように思います。

今回はどこまで話せるか分かりませんが、ドローイングのもつ歴史的・地政学的な多様性について、これを機会に考えていきたいと思っています。

昨日は、山口情報芸術センター(YCAM)のダンス公演を見ました。珍しいキノコ舞踊団×plaplaxによる「The Rainy Table」です。

珍しいキノコ舞踊団は、伊藤千枝さんが主宰するダンスカンパニーです。1990年の結成で、すでにかなりの活動実績があります。近年は現代美術の世界でも注目を集めており、2006年には金沢21世紀美術館でオーストラリアの美術家との共同制作を行ったほか、07年にはインドネシアで開催された「KITA!!」展に招待されています。

公演は、女性6人で構成されており、独自の世界観や統一感が感じられました。やわらかさやかわいらしさ、そして激しさや力強さを感じる舞踊でしたが、男性の踊り手が登場しないことによって、男女の対比・対照という観点が舞台からごく自然に除外され、ある種、「非日常的な世界」に没入できる、という仕掛けになっているように思いました。

「ある種」と婉曲的に表現したのは、女性の観客にとっては女子校や、幼稚園・小学校の母親同士のつき合いなど、「女性社会」は、かえって日常的で、現実味のある世界なのかも知れない、という思いがよぎるからです。
美術館や劇場などの文化施設も、女性スタッフの割合が高い職場になって久しいように思いますし、私が所属する人文学部も、女子学生の方が圧倒的に多く、研究室の男子学生は毎年1、2名です。女性ばかりの世界は、男性の私にも案外、「身近な」世界だったように思えてきます。

ポストトークで伊藤さんは、「雨と馬とテーブル」というキーワードから出発した、と話されていました。テーブルは「家族や人が集まる場所」で、これまでにもよく登場した題材だそうです。雨は「自分の意思と関係なく外からやってくるさまざまのもの」の象徴で、今回、「傘を差したりしてよけるのではなく、浴びたらどうだろう」という思いが込められている、と言います。馬は「それでも誰かに導いてもらいたい、という思いがあって」という文脈で登場したようですが、公演が完成してみると「結局、私自身かも知れない、という気がしています」とのお話に、共感できるものがありました。

女性がテーブルにつっぷしている場面が、始めと終わりに繰り返され、最後は大音量の雨音の中、テーブルに積み上げられた食べ物やお酒を、6人が猛烈な勢いで飲み、喰らい、大騒ぎする場面で照明が落とされます。

幕間に、映像として大写しにされた馬の首が、男性の声で「人参じゃ、馬力出ない」など、結構笑える独白をする場面がありましたが、この挿入によって、男性は一層実態のない「影」のような存在として意識され、とても効果的だったと思います。


同公演は、YCAMの開館5周年記念事業として、約1カ月間にわたり、山口で滞在制作された新作です。YCAM の紹介で、メディアアートユニットplaplax(近森基・久能鏡子・筧康明)と共同制作を行ったことが、特色の1つとなっています。

踊り手と馬のシルエットが共演する場面は、plaplax設立以前の代表作《KAGE》(1997年)を想起させ、見どころの1つとなっていましたが、私は、舞台後半で、大小さまざまの踊り手の映像と、舞台上の女性たちが複雑に入り混じって乱舞する場面が、最大の見どころになっていたと思います。

「舞台上では直接人間に指示すれば、すぐ直せるけれど、映像との組み合わせでつくる公演では、取り直しと編集作業があって、そこに独特の時間が生まれる」という趣旨の発言が、伊藤さんとplaplaxの双方から出ました。

「メディアと身体」をめぐるYCAM開館以来の挑戦が、また1つ新たな成果を生んだことを実感しました。

同公演は、3月19日(木)から22日(日)までの4日間、世田谷パブリックシアター/シアタートラムでも上演される予定です。

20090227blog.jpg
リハーサル風景 2009年2月27日21時00分 提供:山口情報芸術センター[YCAM] photo:Ryuichi Maruo(写真:丸尾隆一)



ヴィクトル・I ・ストイキツァの講演会へ行ってきました。

演題は「集中そして/あるいは蒸発――肖像・自画像・『現代生活』」。ストイキツァは、現在、スイスのフリブール大学で教えている美術史家で、日本では2001年に『絵画の自意識』が翻訳・刊行されて話題になりました。その後も『ゴヤ』、『ピュグマリオン効果』、『影の歴史』、『幻視絵画の詩学』などが邦訳されています。

2003年に続いて2度目の来日で、今回は2月22日(日)に福岡市美術館、24日(火)に京都大学吉田キャンパス、27日(金)に東京大学駒場キャンパスと予定が組まれており、ちょうど今国内を移動中です。福岡と京都の演題は同じで、東京では「カラヴァッジョの天使たち」となっています。私が出掛けたのは福岡会場でした。

福岡では「レオナール・フジタ展―没後40年」の記念講演会としての開催でした。冒頭に藤田嗣治の自画像がプロジェクターで数点映写され、「フジタの眼鏡は、単なる視力補助の手段ではなく、視覚世界を探究し、絵画化する画家の存在様態を象徴的に示す役割が与えられている」という、ストイキツァらしい言及がなされました。『絵画の自意識』にも同じように眼鏡に着目しているくだりがあります(415頁)。

「フジタは重要な作家だと思うが、彼について語る準備が自分は十分でない。彼が参照することが出来たであろう、パリで一世代前に活躍した2人の画家、マネとドガについて私の考えを述べたい」とストイキツァは話を切り替え、ボードレールのアフォリズム集『赤裸の心』にある「自我の集中と蒸発について。すべてがそこにある」という言葉を参照点として、肖像画や自画像における顕在化(≒集中)=マネ、隠蔽(≒蒸発)=ドガという整理をもとに、両者の対照性や複雑な影響関係を読み解きました。

特徴的な例は、競馬場を主題とした2人の作品で、マネは競走馬が走ってくるトラック内に画家の視点を据え、こちらへ向かってくる馬の様子を描いているのに対し、ドガは休んでいる騎手たちを描いて、画家はどこか物陰からそうした光景を眺めているように感じられる、と説明しました。

両者の関係は、単に対照的であるにとどまらず、複雑な入れ子構造として読み解かれていたため、メモをとりながら聞いてはいたのですが、全体を細部まで思い出すことはできません。それだけ濃密な内容で、いつか再び、本としてまとめられたものを読んでみたい、という気にさせられました。

そうした中でも、1832年生まれのマネと、1834年生まれのドガは2歳しか違わない、という事実は強く印象に残りました。この2歳違いという近さと隔たりが複雑な磁場を象徴しているように思えます。


講演会終了後に見たフジタ展では、同館所蔵の《仰臥裸婦》とその下絵《腕をのばした大きな裸婦》の比較展示や、ウッドワン美術館所蔵の油彩作品《イヴ》とフランスの個人蔵による版画連作「イヴ」をまとめて展示した一画が大変興味深いものでした。

前者では、特に顔に注目すると、油彩作品で理想化されていることがわかります。
また後者の見どころも油彩作品における理想化ですが、その違いは目覚ましいものです。鼻の稜線に隠れていた右眼や、左手の後ろに隠れていたもう片方の乳房をはっきりと描き、髪の毛に躍動感を与え、花々からなる髪飾りをより豊かにする、などが主な変更点ですが、両者を見比べる楽しみは、展覧会ならでは、と言えるものでした。

20090222blog.jpg福岡市美術館講堂(壇上右=ストイキツァ氏、同左=松原知生氏) 2009年2月22日14時43分(外は雨) 提供:福岡市美術館

*講演会写真についてストイキツァご本人にウェブ掲示の許可を頂くにあたり、担当学芸員の三谷理華さんと、西南学院大学準教授の松原知生さんに迅速なご対応とご協力を頂きました。心よりお礼申し上げます。

2009/2/27追記
東京での講演会は、2/28(土)にも日本橋公会堂(主催:京都造形芸術大学ほか)で予定されていました。そこでの演題はやはり「集中そして/あるいは蒸発――肖像・自画像・『現代生活』」です。
最近、1950年代から70年代くらいまでの日本の美術批評を読み直しています。古本屋で買い集めた古びた『美術批評』や『美術手帖』の変色した紙面を少しずつめくって、日本の美術批評の全盛期に思いをはせながら、読み進めています。

この時代の美術作品のほうは、日本だけでなく世界的にも再評価が進んでいます。国内では、本格的な展覧会や出版物が増えていますし、ヨーロッパやアメリカでは、戦後の日本美術を回顧する展覧会が開かれるだけでなく、近年では、具体美術協会やもの派に関する学術研究もずいぶんと目にするようになりました。また、個々の作家に対する関心も高まっており、今や田中敦子の作品は世界各地で見かけますし、ウォーカーアートセンターで「工藤哲巳」展が開催されたことも記憶に新しいことと思います。

他方、美術批評のほうはどうかというと、美術作品に匹敵するほど再評価を得ているわけではありません。針生一郎については、『日本心中』(2002年)や『9.11−8.15 日本心中』(2005年)といった大浦信行の映画などで再び関心が高まりましたが、それを除けば、過去の美術批評を読み直そうとする機運は、まだ依然として弱いような印象があります(数少ない例外として、光田由里の『『美術批評』〈1952−1957〉誌とその時代 「現代美術」と「現代美術批評」の成立』があります)。

しかし、たとえ50年以上前に書かれた美術批評でも、今なお面白く読めるものがあります。針生の「サドの眼」や中原佑介の「密室の絵画」(ともに1956年)は、説得力ある作品分析を行うのにとどまらず、状況を捉えるための確かな視点を提唱するもので、時代を超えて読まれるに値する批評です。その批評が書かれた文脈を知っていれば、もっと興味を持って読むこともできます(例えば「サドの眼」が「スカラベ・サクレ」論争や新日本文学会内の路線対立を踏まえて書かれたことを知っていれば、花田清輝と比較して読むこともできます)。

問題は、日本においては、こうした過去の代表的な美術批評が入手困難であることです。美術雑誌のバックナンバーは、大きな図書館に行かないと閲覧できませんし、過去の批評は、批評家の著作に再録されることもありますが、絶版になることも多い上に、論争の場合、両方の文章が再録されることはまずありません。たしかに基本的に雑誌に書かれる批評は、一時的な性格が強いのかもしれませんが、歴史的に重要な批評も数多くあり、こうした批評にアクセスできないのは文化的な損失と言ってもいいでしょう。

英語圏では、代表的な批評や論文を集めたアンソロジーが数多く出版されています。ポロック論を集めた、ミニマル・アートの批評や作家の文章をまとめた、作家の文章を大量に集めた、20世紀の芸術に関する文章を集めた......。もちろん、こうした本では元の文章を抄録している場合も多く、解釈の固定化に繋がったり、歴史的な文脈が見えにくくなったりすることもあります。それでも、歴史から忘却されて、似たような議論を一から始め直すよりもずっといいように思います。美術批評に限らず、展覧会カタログの文章(これこそ入手困難な場合が多い)も含むようなアンソロジーが出ればいいのになあと改めて思った次第です。

山口圏

| | コメント(0)
学生たちと津和野へ行ってきました。

毎年この時期、卒業生の「追い出しコンパ」を兼ねて、1泊2日の小旅行へ出掛けています。企画は研究室の3年生の担当で、2007年は萩に泊まって山口県立萩美術館・浦上記念館を見学したり、高杉晋作誕生地などの歴史的な街並みを散策し、2008年は三隅町立香月美術館を見学して、湯免温泉につかりました。

津和野へは、山口から電車で約1時間20分。街全体にくつろげる雰囲気があって、小旅行にはぴったりの場所でした。

初日は朝10時頃出発してお昼前に旅館にチェックイン。五大稲荷の1つと言われる太皷谷稲成神社へお参りし、西周旧居、森鷗外旧宅を訪ねて、杜塾美術館を見学しました。
杜塾美術館は、津和野藩の筆頭庄屋屋敷を修復した美術館で、同地ゆかりの中尾彰・吉浦摩耶夫婦の作品のほか、マドリード国立銅版画制作室によって1983年に制作された、ゴヤの「闘牛技」40点が展示されています。

帰り道、本町通りで地酒の味見ができました。初陣、魁龍、華泉と銘柄ごとに造り酒屋が並んでおり、普段はお酒を飲まない学生も、少量ずつ味の違いが比べられる機会を楽しんでいました。

今日は、津和野町立安野光雅美術館と葛飾北斎美術館を見学しました。

安野光雅美術館は2001年開館と比較的新しく、2つの展示室のほか、昔風の小学校の教室や安野光雅のアトリエ、プラネタリウムなども併設されています。
故郷というものが、誰にでもある子ども時代のことだとしたら、そうした「故郷」へと通じる道が津和野にはある、といった趣旨の安野光雅さんの言葉が紹介されていて、心に残りました。

葛飾北斎美術館は、初刷りの『北斎漫画』が津和野で発見されたことを機縁として設立された美術館で、肉筆画や浮世絵版画、門人の作品や資料などが展示されています。


学生たちと一緒にこうした美術館を巡りながら、私は、安野光雅さんについて卒論を書こうとした学生がいたことや、私が着任してからの過去7年間に葛飾北斎について2本の卒論が提出されていることなどを思い出していました。

津和野は島根県、という意識ではなく、山口から1時間ほどで行ける「山口圏」と考えて、北斎についての研究室蔵書や、学生に紹介する機会を増やしていこう、と考えたのでした。

20090220blog.jpg
津和野町立安野光雅美術館 2009年2月20日14時31分(曇りまたは小雨、のち晴れ)
先週末は、藤川さんと同じく私も東京に出張していました。

いくつかの所用の合間に、森美術館で開催されている「チャロー!インディア インド美術の新時代」展を、遅ればせながら見てきました。

インドの現代美術に関する大きな展覧会は、日本では、1998年に国際交流基金アジアセンター(当時)の主催で開催された「インド現代美術展 神話を紡ぐ作家たち」以来で、とても興味深く拝見しました。

私の主な研究分野は、アメリカと日本の現代美術史・美術批評史ですが、昨年秋に国際交流基金主催の国際シンポジウム「Count 10 Before You Say Asia: Asian Art after Postmodernism」に参加して、日本におけるアジアの現代美術の受容に関する発表を行ったことをきっかけに、アジアの現代美術についても強い関心をもつようになりました。

もちろんその前から、ヴェネチア・ビエンナーレなどの国際美術展や他の展覧会で、アジアの作家の作品に触れる機会がしばしばあり、興味をもって見ていましたが、受容史をひと通り調べた後は、研究者としての関心が大きくなりつつあります。

10年前の「インド現代美術展」と今回の「チャロー!インディア」展では、出品作家が1人しか重なっておらず、異なる印象を抱いた人は多かったと思います。その大きな要因の一つは、インドの作家と日本の観客の間で共有できるコンテクスト、とりわけ美術史的コンテクストが増えたことではないかと思いました。

インドの作家たちの作品を見ながら、作家たちが明示的に参照するピカソやデュシャン、アンディ・ウォーホルやシンディー・シャーマンだけでなく、どこまで意識しているか分からないハンス・ハーケ、ソフィー・カル、キキ・スミス、リジア・クラーク、会田誠、ロバート・ワッツ、マルジャン・サトラピなどの作品を想起した人は少なくないと思います。

この類似は、これまで現代美術で行われてきた、引用やアプロプリエーション(及びそこにあるオリジナリティ批判)というよりも、視覚的語彙の共有化の現われのように思います。もちろんこうした事態は、現代美術を含む文化のグローバリゼーションの効果ですが、それは、文化のフラット化をもたらしているというよりも、むしろ、そのことによって、他者の文化との「関わりしろ」(藤浩志さんの言葉)が増えているのではないか、フラット化による複雑化が進行するのではないかと思いました。

アジアの現代美術については、キュレーターの活躍が先行していて、批評や研究は後塵を拝しているのが現状です。中国の現代美術においては批評や研究が進みつつありますが、今回「チャロー!インディア」展を見て、インドの現代美術についても、グローバリゼーションの一つの効果として、批評や研究が成立しやすい状況ができつつある印象を受けました。

東京出張

| | コメント(0)
今日は、東京のホテルからの投稿です。

主たる用事は、16日の委員会への出席ですが、1日早く山口を出て、神奈川県立歴史博物館で「アジアとヨーロッパの肖像」展を見て、記念講演会も聞いてきました。

前回ご紹介した通り、同展は大阪、福岡を経て神奈川へと巡回してきた展覧会で、大阪と神奈川では博物館と美術館の2会場で開催されています。会場ごとに出品作品に独自性を持たせている点が、国内では異例の試みで、同じ内容が巡回している、というものではありません。

それでも、国立国際美術館で「美術館分」を見た私にとって、神奈川県博で開催中の同展へ再び足を運ぶことは、見逃していた「博物館分」を補う意味がありました。図録の最初の見開きページを飾っている、狩野探幽《東照大権現霊夢像》とトーマス・マレー《ウィリアム3世像》を見ることができて、ようやくこの展覧会の内容が自分の中で1つのまとまりを成した気がします。

東照大権現=徳川家康と、イギリス国王ウィリアム3世の肖像画の対比は、東西の権力者像の表現の違いを見比べるというだけでなく、こののち、アジアとヨーロッパの交流が盛んになって、それぞれの伝統様式が変容していく歴史をたどる基点ともなっています。国立国際では、作者不詳の《東照宮御影 元日拝礼》とゴドフリー・ネラー郷の《ジェームズ2世》が展示されていました。

会場には、西洋から日本への影響だけでなく、ジャポニスムのような日本から西洋への影響、あるいは、日本以外のアジア諸国で生み出された西洋風の肖像画や、アジアに滞在した西洋人による東洋風の肖像画なども展示され、一口には語れない複雑な「乱流」(同展図録、161頁)が存在したことが示されていました。

企画代表の吉田憲司さんの講演会では、各会場で展示作品が異なることについて、「中心となる1人か数名のキュレーターによるストーリーによってパッケージ化された展覧会が巡回するのでは、共同開催とは言えない。18カ国の共同作業であることから、コンセプトだけを巡回させて、各館のキュレーターが独自に内容を組み換える多声的な展示方式へと至った」という説明がありました。

従来、日本発の国際巡回展に対し、アジア諸国から文化帝国主義的であるとの批判がありましたし、また、逆に日本では、欧米のキュレーターが監修した展覧会が国内を巡回することが、現在でも少なくありません。巡回館の各学芸員が主体性を発揮する同展の方式を、県博の嶋村元宏さんは「競催」という言葉で表現されていました。

また、「移動する都市」展を参考にされたのか質問してみたところ、独自に到達した、ということがわかりました。

この展覧会には、以前話題にした「2人の肖像画」も数点見られます。
日本の《本木良永夫妻像》や、韓国の《文官夫妻の肖像》など一幅の掛け軸に描かれた夫妻像は、それ自体、珍しい作例だと思います(3/1までの展示)。
また、《五州大薬房ポスター》や《ローラースケートをする二人の女性》など、20世紀初頭の中国で制作された商業ポスターは、「双美人図」と言うべき興味深い作例です。

20090215blog.jpg
神奈川県立博物館での展示風景 2009年2月15日13時22分(外は曇り)

昨年のアメリカ大統領選挙キャンペーンで使われたバラク・オバマのポスターがAP通信の写真を利用していたことが分かり、ポスターを作成したシェパード・フェアリーに対してAP通信側が権利を主張していた件で、今週、フェアリー側が権利確認の訴訟を起こしたニュースが伝えられています。

美術史を教える大学の教員・研究者として直面する問題の一つに著作権があります。美術作品の授業で画像を見せたり、論文で参考図版として利用したりするとき、著作権が問題になります。また、私の所属する芸術学部は、美術、デザイン、工芸の各分野からなる実技系の学部ですので、教員や学生から、制作や展示に関連して著作権の質問を受けることもあります。

もちろん、授業で美術作品の画像を引用として利用することは許されていますし、学術論文で参考図版を掲載する場合もおおよそ一般的な合意がありますので、問題は少なかろうと思います。しかし、教育や研究を行っていると、どう判断してよいか分かりかねるケースがあります。とりわけ私が関わる現代美術の分野では、著作権のあり方自体を考えさせる作品に出会うこともよくあります。

例えば、創作性(オリジナリティ)とは、著作権法が保護する著作物の条件の一つですが、デュシャン以降、数限りない作家が創作性を問い直す作品を制作しています。アイディアと表現の区別も著作物を考える上で重要な要素です(著作権が発生するのは後者)。アイディアは共有すべきものとされているので著作権が発生しないのに対して、そのアイディアを実現する表現は、さまざまな実現の形態がありえるため、著作権が発生します。しかし、そのアイディアと表現の区別がほぼ意味をなさない作品も数多くあります。2001年のターナー賞を受賞したマーティン・クリードの《作品227 点滅する照明》[展示室の照明が点滅する作品]は、その一例と言ってよいでしょう。

研究においても、著作権の範囲がグレーゾーンになっている印象を受ける場合があります。以前学術論文を書いたときにこんなことがありました。論文の参考図版として、アンディ・ウォーホルの《ゴールド・マリリン・モンロー》(1962年)の図像を利用しようと思って、所蔵先のニューヨーク近代美術館に問い合わせたら、権利を管理しているイタリアの会社に問い合わせるように言われました。そこに問い合わせたらある金額を請求されたのですが、さらにウォーホル財団に問い合わせたほうがいいだろうと言われて問い合わせたら、そこでまたある金額を請求されました。さらに今度はモンロー財団にも問い合わせたほうがいいだろうと言われて、結局利用を諦めてしまいました。よく考えてみると、それぞれの財団の言い分は「別の財団にも権利があるかもしれない」というもので、私もよく分からずにそのまま問い合わせを続けてしまったわけですが、本当に著作権がこのように何重にもかかっているかどうかは分からないことに後で気がつきました。

現代美術の分野では、著作権の及ぶ範囲はますます曖昧になっているように見えます。それは上記のようにある種の混乱や不都合をもたらしているのも事実ですし、そうした事態を受けて、特に音楽の分野では管理の厳密化が進行しているようにも思えます。しかし、そうした混乱や不都合にも拘らず、著作権の不確定性の中に創造の可能性があるようにも思えてなりません。もしフェアリーが既存の写真を用いずにオバマのポスターを制作したとしたら、全く別のものになっていたかもしれません。また、グレーゾーンの中でポスターが制作されたことによって、あのポスターの創作性とは何なのかについても議論が興ってきます。日本の著作権法は、著作権の権利が及ばない対象を、制限規定(「引用」など)として具体的に列挙しているのに対して、アメリカの著作権法は、フェアユース(公正使用)ならば許されるとして、包括的に規定しています。フェアリーの弁護には、フェアユースによる創造的自由の向上を目指すスタンフォード大学のフェアユース・プロジェクトも関わっているようです。何がフェアユースなのかということについて、フェアリーの訴訟をきっかけに議論が興ってくることを楽しみに見ていきたいと思います。

ブロガー

月別アーカイブ