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KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN シャンカル・ヴェンカテーシュワラン/シアター ルーツ&ウィングス『水の駅』

2016年12月01日号

会期:2016/11/12~2016/11/13

京都芸術劇場 春秋座[京都府]

マーク・テ『Baling(バリン)』とは対照的に、言葉を費やす饒舌ではなく、一切のセリフを排した「沈黙」によって、人間存在の本質とともに、ナショナル・ランゲージとしての統一言語を持たない多民族・多言語国家の姿をネガとして浮かび上がらせたのが、インド気鋭の演出家、シャンカル・ヴェンカテーシュワランによる『水の駅』である。劇作家・演出家の太田省吾による『水の駅』(1981年初演)は、音声言語としてのセリフを排し、極端にスローな動作を俳優に課す「沈黙劇」の代表作。沈黙劇はリハーサルの過程で不必要な言葉を削っていったプロセスから生み出されたが、『水の駅』は当初から「沈黙劇」として構想され、より形式的な純化を経ている。



撮影:守屋友樹

舞台中央に設けられた水飲み場では、蛇口からひと筋の水がチョロチョロと流れ続けている。下手側から舞台中央へ続くゆるやかなスロープを下り、18人の老若男女がこの水飲み場を訪れ、渇きを癒し、水を奪い合い、愛し合い、死を迎え、叫び、いたわり合い、上手側のスロープを下って去っていく。初めて目にする神聖なものであるかのように驚嘆の眼差しを水に向け、捧げ持ったコップに注がれた水を飲み干す少女。我先に飲もうと水を奪い合っているうちに、口づけの体勢になってしまう2人の男が放つ滑稽さ。髪や肌に官能的に水を受け止め、生の充溢に満たされた女。乳母車を引っ張る夫婦は、水のほとりで愛の営みを始める。生命を与える水場の隣には、荒廃したゴミの山がうず高く積み上げられ、中からひとりの男が彼らの様子を見つめている。ホームレスのような風体の老婆は、水場にたどり着くと死を迎え、その死体はゴミの山に捨てられる。洗濯物をカラフルな旗のように掲げた3人の娘に先導されて登場する一群の人々は、来し方を振り返り、破滅的な光景を目にしたかのように無言の叫びや慟哭を上げる。時に裸足で、時に巨大な荷物を背負った彼らは、人生という旅のそれぞれの「時」の象徴であるとともに、より直截的には故郷を追われて放浪する難民を連想させる。セリフの不在と指先にまで神経をはりつめた身体言語の語りが、想像力で埋める余白を生み出し、引き伸ばされた時間は意味の拡散ではなく、むしろ感情の強度を凝縮させる。

ここで、本作が、多民族・多言語国家のインド全土とスリランカから集められた俳優によって演じられていることを思い起こせば、戦後日本における実験的な演劇実践を、統一的なナショナル・ランゲージを持たない多言語状況を浮かび上がらせるネガとして読み替えているとも言える。『水の駅』は、マーク・テ『Baling(バリン)』と合わせ鏡のように、多民族・多言語が前提である社会において舞台芸術を実践することの意義を、二つの極として指し示す。一方には、徹底的に対話を重ねて、歴史的検証の多面性をポリティカルに構築する知的強度を鍛えること。片方には、言語を一切削ぎ落とすことで、美的洗練と抽象度の強度を高めつつ、ナショナルな共同体の同質性へと編成する力学の不在と解体をもくろむこと。対話の手段であるとともに差異を生み出す装置でもある言語への敏感な眼差しは、演劇が成しうる批評性である。では、表面的には同質性で覆われた日本では、同様の試みは果たして可能なのか? その答えは次回以降のKEXに期待したい。同質性へと包摂する圧力と、表裏一体の排除の論理は強まる一方だから。



撮影:守屋友樹

公式サイト:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN

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2016/11/13(日)(高嶋慈)

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