2018年01月15日号
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artscapeレビュー

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN マーク・テ『Baling(バリン)』

2016年12月01日号

会期:2016/10/22~2016/10/24

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

マレーシアを拠点とするマーク・テが10年間の集大成として完成させた『Baling(バリン)』は、公に語られずにきた自国の現代史に光をあてるドキュメンタリー演劇。タイトルの元となった「バリン会談」とは、イギリスによる植民地支配、日本による占領を経て、国家の独立をめぐる内戦状態に陥った「マラヤ危機」を終結させるため、1955年に行なわれた和平会談を指す。会談に臨んだ3名の政治指導者は、マレー系マラヤ連邦初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマン、中華系マラヤ共産党書記長のチン・ペン(陳平)、シンガポール主席大臣デヴィッド・マーシャル。ジャングルに潜伏してゲリラ戦で抵抗するチン・ペンが、公の場に姿を現わす稀な機会としても注目されたこの会談を報じるニュース映画の上映で、作品は幕を開ける。武装解除と共産党の解散(もしくは国外退去)を条件に講和を求めるラーマンとマーシャルに対し、粘り強く交渉するチン・ペンとのやり取りは平行線をたどる。本作から浮かび上がるのは、マレー系/中華系というエスニックな差異が、保守/共産主義というイデオロギーの対立と重ねられ、民族・階級・思想の分断線をより強固にしている点、そしてそうした多民族国家の姿をポストコロニアルな視点から検証する姿勢である。
『Baling』が秀逸なのは、実際の記録に基づいて俳優たちが会談を「再現」するとともに、シーン毎に3名の「役」が順番に入れ替わること、実際は男性のみの会談を1名の女性俳優を交えて演じること、そして俳優たちが手にした「台本」に視線を落としながら演じることで、歴史を「再現/再演」しつつ、歴史=フィクショナルな存在であることをパフォーマティブに示す点だ。こうした歴史の虚構性は、時局の推移に伴って両極的なイメージを付与されたチン・ペンの写真イメージについての考察を交えることで、より強調される。抗日闘争の英雄としてメダルを授与されるチン・ペン/政府にゲリラ戦で抵抗する悪玉組織のボスとして糾弾されるチン・ペン。パスポート写真から取られた後者の顔写真は、指名手配のビラのように天井から吊られ、上空から観客の身体の上に降りかかる。ここでは観客もまた、安全な傍観者として静観することを許されず、『Baling』が発する幾重もの問いの中に身体的に巻き込まれるのだ。


撮影:井上嘉和

ニュース映画の上映、会談の「再現」と「役の交替」、そして俳優自身が個人的な活動について話す場面が交錯して展開する『Baling』では、場面の転換ごとに背景となる壁やスクリーンが切り替わり、床に座布団を敷いて座る観客たちは、視線の矛先を変え、時に身体ごと移動しながら鑑賞することになる。あるいは、観客という一時的な共同体は、その間に割って入る俳優によって二分され、撹拌される。歴史は仮構的であること、それゆえ多視点で複眼的に眼差す必要があることが、安定した位置を脅かし、視点を流動化させることで、文字通り身体的に経験/要請されるのだ。
こうした多視点的な空間構成は、作品中の「語り」の位相の複数性とも対応する。政府の公式見解/会談の実際の記録/俳優個人としての語りかけといった複数の「語り」が交錯することで、作品は、唯一の「声」への奉仕ではなく、内部にいくつもの分裂を抱え込みながら、「誰が、何を、どのような視点から語るのか」という意識への覚醒を呼び覚ます。それは、演じる役柄の交替という、フィクションであることを曝け出すメタ的な仕掛けともあいまって、歴史=フィクションへの疑義とともに、演劇という機制それ自体への問いでもある。
そして、「交換可能な役として演じられること」と「身体から引き剥がされた写真イメージの過剰性」によって浮かび上がるのは、チン・ペンの実体性の希薄さ、亡霊性である。アクティビストでもある一人の俳優が語るように、実体がなく死なない=亡霊として回帰するからこそ、支配層にとって「チン・ペン」は恐怖の対象となり、過剰な検閲や取り締りが課される(この俳優は、亡命先のタイで死去したチン・ペンの葬儀に出席し、式で配布された自伝的な記録本を「汚れた洗濯物の中に隠して」持ち帰ったが、マレーシアの空港で本の所持を発見された者は逮捕されたという)。

終盤、ドキュメンタリー監督でもある別の俳優が、晩年のチン・ペンを亡命先で取材した映像記録が流される。だがそこに映るのは、かつての革命の闘士の真実の姿ではなく、ほとんど記憶を無くし、言葉もおぼつかなく、質問に対してただ「生まれ故郷のマレーシアに帰りたい」と所在なく繰り返す、ひとりの老人だった。それは、「チン・ペン」の真のイメージの不在を告げるとともに、より象徴的には、歴史の「忘却」、記憶喪失、健忘症という事態を暗示する。
ここで、『Baling』を、複数の国による植民地支配を受けた多民族国家マレーシアという特殊なケースとして片付けることは、作品のより本質的な要素を見誤ってしまうだろう。作品という個別的な特異点から普遍性を抽出し、自らの文脈に照射させて考えることが真の受容ではないか。興味深いことに、2日間に及んだ会談の再現場面では、「First Session」「Second Session」と表示される字幕に、「上演時の現在時刻」が同時に示されていた。私たちはここで、単に歴史の回顧を超えて、その批判的検証を「現在」に引きつけて考える場にまさに「立ち会っている」のだ。それは、グローバル化の進展、難民や移民の増加、強まる保守化・右傾化、民主主義の機能不全など、近代国家のアイデンティカルな輪郭や基盤が再び問われている現在へと折り返して考えることを取りも直さず要請している。

公式サイト:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN

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2016/10/24(月)(高嶋慈)

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