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王希奇展─一九四六─

2017年10月15日号

会期:2017/09/28~2017/10/05

東京美術倶楽部[東京都]

縦3メートル、横(というより長さ)20メートルにおよぶ超大作《一九四六》は、敗戦後に満州から引揚げる数百人もの日本人たちを群像として描いたもの。画面奥に3、4隻の引揚船が停泊する港が描かれ、左手前から右奥の船に向かって無数の日本人が列をなしている。人物は老若男女かなりリアルに描き分けられ、吹雪を思わせる灰色の絵具の飛沫がところどころ覆っている。色彩はほとんどモノクロームで、人物の立っている角度や光の当たる方向が一定でないことから、当時の記録写真を見て描いたであろうことは明らかだ。おそらく何枚もの写真のイメージをパッチワークのように継ぎ足して描いたものと思われる。
これを見てまず思い出したのが、藤田嗣治の《サイパン島同胞臣節を全うす》と、香月泰男の「シベリア・シリーズ」という対極に位置する2点だった。「サイパン島」のほうはいうまでもなく戦争画を代表する1点だが、自決しようとする日本人を描いた希有な例だ。リアルな人物表現といい、モノクロームに近い重苦しい雰囲気といい、また光の当たり方がチグハグなところといい、王はひょっとして「サイパン島」を参考にしたのではないかと思えるほど近さを感じる。一方、「シベリア・シリーズ」は香月が敗戦後シベリアに抑留された経験を描いた50点を超す連作。捕虜の日本人を描いた点で広く戦争画に括れるものの、いわゆる作戦記録画とは正反対の「敗戦画」と呼んでおこう。同シリーズの多くはなかば抽象化されているが、敗戦後日本に帰国するまでの苦難をほとんどモノクロームで表わしている点で《一九四六》と共通している。なかでも絶筆とされる《渚(ナホトカ)》は、港で待つ日本人の群衆を黒い帯として描いたもので、テーマ的にもぴったり重なる。
さて、ぼくが《一九四六》に興味を引かれた理由のひとつは、これを描いたのが中国人の画家であるということだ。いうまでもなく先の大戦において日本人は中国人にとって加害者であり、被害者である中国人が日本人に同情する絵を描くなどありえないと思っていた。でも引揚げは戦後の出来事であり、加害者=強者であったはずの日本人が一転、被害者=弱者の立場に突き落とされたため(特に民間人は)、中国人も絵にすることが可能になったのではないか。そう考えると、この絵が藤田の戦争画にも、香月の敗戦画にも似ているもうひとつの理由が明らかになってくる。これらはすべて被害者=弱者としての日本人を描いているからだ。

2017/09/29(金)(村田真)

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