artscapeレビュー

2017年10月15日号のレビュー/プレビュー

大山エンリコイサム ファウンド・オブジェクト

会期:2017/09/01~2017/09/30

コートヤードHIROO[東京都]

ニューヨークの骨董屋で見つけた時代ものの版画や写真に、グラフィティのストロークを施した作品15点の展示。元の絵柄は花、人物、建物、風景などさまざまで、そこに細密な鉛筆やアクリル絵具でジグザグパターンを描き加えている。グラフィティを「落書き」とすれば、これは紛れもなく版画や写真への落書きであり、大げさにいえば他人の作品へのテロともいえる行為だが、グラフィティの「ゴーイング・オーバー」がそうであるように、元の画像を汚したり隠したりせずに丁寧に線描しており、オリジナルを尊重していることがわかる。バンクシーにも古い絵画に手を入れて現代的な風刺画に変えてしまう作品があるけれど、大山は意味を変えるというより、オリジナルの画像への即興的なリスポンスを試みているのかもしれない。サイズも小さめでコレクションするには手ごろ。

2017/09/01(金)(村田真)

志賀理江子 ブラインドデート

会期:2017/06/10~2017/09/03

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館[香川県]

闇の中、数秒おきに写真のスライドプロジェクションが切り替わる。呪術的、内臓的で、禍々しくも聖なるイメージ。その残像。血管かへその緒のように垂れ下がり絡まるコード。光の明滅、一定のリズムでスライドの切り替わるカシャッという音がトランスさえ誘う。時折、投影される強烈な赤い光が壁を赤く染め上げ、私は「影」として亡霊たちの世界に取り込まれる。ここは亡霊が徘徊する異界であり、未だ生まれざる者たちが宿る胎内だ。そして、写真の中で生を止められた者たちの無数の眼差しが、死者たちの永遠に見開かれた眼が、こちらをじっと見つめ返している。私たちは、イメージを安全に眺める主体ではもはやいられない。「写真を見る」という視覚経験を超えて、身体感覚や本能的な恐怖すら感じさせる、そうした直感を展示から受けた。


「志賀理江子 ブラインドデート」丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での会場イメージ 2017
撮影:志賀理江子

個展会場は2つの空間に分かれており、片方では、約20台のスライドプロジェクターから、近作の膨大な写真群が壁に投影されている。その多くが《弔い》と冠されているように、死と儀礼、供物、自然の中での霊的な交感、何かの気配の出現、といった印象を与えるイメージが多い。もう片方の空間では、2009年にバンコクでバイクに乗る恋人たちを撮影したシリーズ《ブラインドデート》が、大判のモノクロプリントで展示されている。写真は、手前に据えられたスタンドライトに照らされ、光と闇のコントラストを強調する。この《ブラインドデート》は、志賀がバンコクでの滞在制作中、二人乗りのバイクの後部座席から自分に投げかけられる視線に関心を持ち、「その眼差しをカメラで集めてみたい」と思ったことが端緒になっている。バイクに同乗するカップルに声をかけて撮影を進めるうち、「バイクに乗った恋人たちが背後から目隠しをして走り続け、心中した」という事件を妄想し、「恋人の手で後ろから目隠しをされてバイクを走らせる男性」のポートレイトが撮影された。

志賀にとってカメラは異界と交感するための装置であり、イメージは異界への通路となる。では、収集された眼差しは誰の視線か?「バイクに同乗して心中する恋人」という設定は、「これから死者の仲間入りをする者」という想像をたやすく誘導する。いや、そうした「設定」を解除しても、写真の中の眼差しとは常に「いつかは死ぬ者、潜在的な死者の視線」であり、あるいは「既に肉体的にはこの世に存在しないのに、執拗に眼差しを向け続ける眼」である。会場から出口に至る細長い通路には、「もし宗教や葬式がなかったとしたら、大切な人をどのように弔いますか?」という志賀の問いに対して、寄せられたさまざまな回答が壁に提示されていた。「弔い」すなわち死者の埋葬時には、通常、死者の眼は閉じられる。しかし、「永遠に見開かれたままの死者の眼」という戦慄的な矛盾が写真の根底にはあり、「弔い」とは記憶の中に安定した座を与えることではなく、その眼差しとの(永遠に交わらない)交感の内に自身の身を置き続ける過酷な所作を言うのではないか。



「志賀理江子 ブラインドデート」丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での展示風景 2017
撮影:志賀理江子

2017/09/02(土)(高嶋慈)

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引込線2017

会期:2017/08/26~2017/09/24

旧所沢市立第2学校給食センター[埼玉県]

文字どおり「引込線」でやってたときには見に行ってたけど、会場が給食センターに移ってからは足が遠のいてしまい、訪れるのは今回が初めて。出品は遠藤利克や伊藤誠といったベテランから若手まで20組で、調理機器の置かれた大空間、事務室、休憩室、駐車場などに作品を展示している。おもしろいものもつまらないものもいろいろあるが、もっとも印象に残ったのは寺内曜子のインスタレーション《かまいたち》。とてつもなくスゴイというのでもないのだが、ちょっと傷口に触れるような、あるいは見てはいけないものを見たような妙な感触がある。角の部屋の窓を黒いシート(裏は赤)で覆い、2カ所をバツ印に裂いたもの。ひとつはそのままバツ印のかたちに光が入り、もうひとつは裏面をこちら側に裏返して、窓の上下左右に赤い三角形を広げている。ただそれだけなのだが、絶妙なのは裏を赤にしたことと、切り口を直線ではなくあえてギザギザにしたこと。そのことによってただのバツ印が赤らんだ傷口に見え、それを開いたところは舌か陰唇を連想させるのだ。いや、そんな連想をするのはぼくだけかもしれないが、たとえ作者にもそんな意図はなかったとしても(寺内は一貫して表と裏、内と外といった問題をテーマにしてきた)、こんな場所でエロスとタナトスを感じさせる痛々しくも艶やかな作品に出会えた喜びは大切にしたい。小雨のそぼ降るなか、屋外では吉川陽一郎がひとりシジフォスのように延々と円を描いていた。ごくろうさん。

2017/09/07(木)(村田真)

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生誕150年記念 藤島武二展

会期:2017/07/23~2017/09/18

練馬区立美術館[東京都]

藤島武二の絵ってどこがいいのかよくわからない。いや別に悪いとは思わないけど、とりたてていいとも思わないし、ずば抜けた個性があるようにも見えない。代表作を挙げろといわれても《黒扇》か《東海旭光》くらいしか思いつかないし、これだってひとつ年上の黒田清輝とどこがどう違うのか説明できない。というか藤島という画家の存在自体、黒田の大きな影に隠れてしまって目立たないのだ。にもかかわらずそれなりに評価されているのが不思議だった。で、この展覧会を見てわかったのは、黒田の下で東京美術学校で後進の指導にあたり、生涯を美術教育に費やしたこと、思いのほか雑誌の挿絵や本の装丁などのグラフィックの仕事が多かったこと。要するに生活のため画業以外のバイトに精を出していたのであり、むしろそれが彼の地位と名声と大衆的な人気を確保したのではないか、ということだ。しかしいくら生活のためとはいえ、画家がバイトにのめり込むのは本末転倒、制作時間は削られるわ情熱や冒険心はそぎ落とされるわロクなことがない。藤島作品に通底するある種のハンパ感はそんなところに起因するのかもしれない。
もうひとつ興味があったのは戦争との関わりだ。藤島は日中戦争が始まった37年にはすでに70歳の重鎮で、その年に第1回文化勲章を受章。その6年後の太平洋戦争中に亡くなっているので、いわゆる戦争画は描かなかったが、戦争に関連した絵は同展にも何点か出ていた。例えば《ロジェストヴェンスキーを見舞う東郷元帥》は制作年は不明だが、日露戦争時の美談をテーマにした戦争画だし、《蘇州河激戦の跡》は日中戦争における戦跡を描いたもの。ほかに、直接戦争を描いたものではないけれど、晩年に宮中学問所のために制作した日の出のシリーズは、昭和前期という時代背景、中国やモンゴルという場所、皇室からの依頼、そしてなにより「日の出」というモチーフから広い意味での戦争画と呼べるかもしれない。《東海旭光》はその代表作といえるものだが、残念ながら《黒扇》ともども今回は出ていない。

2017/09/07(木)(村田真)

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田淵三菜「FOREST」

会期:2017/09/08~2017/09/26

Bギャラリー[東京都]

田淵三菜は、2016年に第2回入江泰吉記念写真賞を受賞し、写真集『into the forest』を刊行した。2012年、23歳の時から北軽井沢の森の中の山小屋に移り住み、1年間かけて、ひと月ごとに驚くべき勢いで変化していく森の姿を捉えきったそのシリーズは、新たな自然写真の可能性を指し示す鮮やかなデビュー作となった。今回の新宿・Bギャラリーでの展示では、森の落ち葉をそのままガラスケースに詰め込んだインスタレーションなどとともに、「それ以後」の彼女の写真の展開を見ることができた。
田淵はいまもなお北軽井沢で暮らしているが、その生活のかたちは少しずつ変わりつつある。2年前からは、難病のパーキンソン病を患っている父も同居するようになった。そのためもあって、森そのものよりはその周辺にカメラを向けることが多くなってきている。今回の「FOREST」のシリーズは、北軽井沢の住人たちや訪ねてきた友人たち、父が同居するために改装工事が進行中の山小屋、森で出会った犬たちなどが前面に出ることで、圧倒的な自然と向き合っていた前作とは異なる、「ひと」の気配が濃厚なシリーズとして成立していた。
その変化を、むしろポジティブに捉えるべきだろう。彼女にとっての「森の生活」がこれから先どんなふうになっていくのかはわからないが、山小屋という拠点を中心として、さまざまな生き物たちが織りなす小宇宙を、あくまでも等身大の視点で見つめ続けるという視点は揺るぎのないものがある。前作と今回の展示とを合体した、もう一回り大きな「FOREST」のシリーズも視野に入ってきそうな気もする。

2017/09/08(金)(飯沢耕太郎)

2017年10月15日号の
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