artscapeレビュー

ヤネック・ツルコフスキ『マルガレーテ』

2019年06月01日号

会期:2019/05/17~2019/05/24

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

ポーランドの演出家、ヤネック・ツルコフスキの作品の日本初公開。見知らぬ他人が撮影した古い8mmフィルムを蚤の市で手に入れた彼が、複数のフィルムに登場する女性(「マルガレーテ」)に関心を持ち、フィルムに映ったものの分析やリサーチを経ながら、「彼女は何者だったのか」に迫っていくという筋立てだ。観客数は毎回25名と少人数に限定。じゅうたんの上に置かれた小ぶりのスクリーンを囲んで観客は座り、紅茶を飲んでくつろぎながら、ホームビデオの上映会に招かれたようなアットホームな雰囲気のなか、ツルコフスキが語りかける。観客には受信機とイヤホンが配られ、ツルコフスキの話す英語は、背後のブース内にいる「日本人俳優の吹き替え」によって、あたかも同時通訳を聞くかのように体験される。本作がフィクションであることを逆手に取りつつ、上演のライブ性を損なわない、優れた仕掛けだ。未編集の、あるいは自ら編集した8mmフィルムの粗い映像を見せながら、個人的な体験とともに「マルガレーテ」の謎に迫っていくソロ・パフォーマンスは、「物語る」行為そのものを前景化する演劇の実験的形式であり、「ファウンド・フッテージ」でもあり、真偽の曖昧な領域に観客を連れ出しながら、記録メディアと記憶に関する複数の問いを照射する、親密にして刺激的な試みだった。



[撮影:守屋友樹]


ツルコフスキの語りは、ある個人的な体験を遡ることから始まる。2008年6月、ポーランドの国境に近い旧東ドイツの街に行った際、蚤の市で、誰のものとも知れない8mmフィルム数十本を買ったこと。それらのフィルムを映写機にかけてスクリーンに映し出しながら、その夜、静かな興奮とともに、たくさんのフィルム=誰かの記憶を見た経験が語られる。犬を連れて、林のなかを散歩する男女。友人たちとのホームパーティ。観光旅行で訪れたと思われる、ポツダムのサンスーシ宮殿。バルト海のリューゲン島。ツルコフスキは、フィルムの多くに、同じ白髪の女性が映っていることに気づく。フィルムを収めた箱に書かれていた名前から、彼女を「マルガレーテ」と呼ぶことにしたツルコフスキは、「映像のなかの秘密」の解読に乗り出す。「マルガレーテ」とよく一緒に映っている似た格好の女性は、姉妹なのか。撮影者はどんな人物で、なぜ彼女を執拗に撮り続けたのか。地面に一瞬映った撮影者の男の影を、ツルコフスキは見逃さない。カメラに目線を向ける「マルガレーテ」の手の動きには、どんな意味があるのか。

「マルガレーテ」の映ったフィルム以外にも、ツルコフスキの興味を引くものがある。例えば、共産主義時代に行なわれていたパレード。1989年、共産主義体制の崩壊を14歳で経験したツルコフスキにとって、その映像は複雑な感情を呼び起こすものだ。オークションでポーランドのほぼ同時代のフィルムを入手した彼は、旧東ドイツとポーランド、それぞれで撮影されたパレードの映像を比較する。カメラアングル、人々の動き方、道路の曲がり具合……。

また、フィルムの「焼け」の質感が好きと言うツルコフスキは、「焼け」の部分だけをつなぎ合わせて1本のフィルムを編集し、元々はサイレントだったものに音楽を付けて上映してみせる。甘く郷愁を誘うような音楽は、フィルムの粗くざらついた質感や、斜陽が差し込んだようなオレンジ色に染まった「焼け」の効果と相まって、ノスタルジーへの誘いを加速させる。それは、「共産主義時代」がすでにノスタルジーの対象、すなわち「安全に眺められる過去」になったことを示唆する。



そして後半、「マルガレーテ」の謎が明らかにされていく。箱に書かれていた「ルーベ(Ruhbe)」という苗字が珍しい姓であることを手掛かりに、「親類.com」というサイトや電話帳で調べ、彼女がある特別養護老人ホームに「いる」ことを突き止め、会いに行く。だが、まもなく100歳になるという「マルガレーテ」は、会話も覚束ない状態で、もう目もよく見えないという。100歳の誕生日に、30年前に撮られた、彼女と双子の姉の誕生パーティの映像を見せるが、「思い出せない」と彼女は言う。そしてラスト、再び蚤の市を訪れた映像が流れ、フィルムを売った店主は言う。「誰がフィルムを売りにきたかは不明だが、唯一確かなことは、フィルムが手に入ったのは、彼女が死んでからだよ」と。「マルガレーテ」の実在性、ツルコフスキ自身の語りの真偽を宙吊りにしながら、「映像記憶の亡霊性」を突きつけるラストだ。



見知らぬ他人の記憶を盗み見するという好奇心とともに、サスペンス仕立てで観客を引きつけつつ、より深い審級の問いを開いていく本作。「物質的に窮乏」「抑圧されていた」という画一的なイメージを抱きがちな共産主義時代にも、家族や友人との談笑や旅行など、穏やかな日常生活があったこと。アナログフィルムの粗い質感とノスタルジー化の共犯関係。共産主義時代の無害なノスタルジー化。プライベートなフィルムが、蚤の市のみならずネットオークションでも日々売買されていることへの倫理的問い。アマチュアフィルムの凡庸さと、それらが潜在的に秘める物語の可能性。「対面して物語る」こと、すなわち「演劇」の発生への探究。「ファウンド・フッテージ」の形式を借りつつ、真実の究明が同時にフィクションの構築でもあるという両義性。そして、映像の記録性と被写体本人の忘却とのあいだで宙吊りになった、記憶の確かさと不確かさ。被写体自身の記憶が消滅しても、さらに被写体の肉体がこの世を去った後も、アナログフィルムからデジタル信号へと変換されてメディアを乗り換えながら、スクリーンの皮膜の上に留まり、こちらに眼差しを向け続ける、そうした亡霊的存在を「マルガレーテ」と名付けよう。


2019/05/19(日)(高嶋慈)