2019年12月01日号
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artscapeレビュー

四國五郎展

2019年12月01日号

会期:2019/10/01~2019/12/27

平和祈念展示資料館[東京都]

敗戦後、大陸にいた日本兵のうち、ソ連軍に連行されて極寒のシベリアで強制労働させられた者は57万人以上といわれ、うち約1割の5万5千人が飢えや寒さで死亡したとされる。無事帰還した人のなかには画家もたくさんいたはずで、とりわけ抑留体験を描いたことで知られるのが、香月泰男、宮崎進、そして四國五郎だ。

彼らに共通するのは、帰国してすぐにつらかった抑留体験を描くのではなく、それを絵にするまでに何年もの歳月を要したことだ。香月は帰郷後まもなく2、3点描いてみたものの納得がいかず、本格的に手がけるのは10年ほど経た50年代末から。宮崎も自らの体験を描いてはいたけれど、公表するのは90年代半ばからのこと。四國にいたっては、退職後の90年代にシベリアに慰霊の旅をしたのがきっかけで描き始めたというから、実に半世紀近くを要したことになる。ことほどさように時間がかかったのは、それほどシベリア体験が彼らに大きくのしかかっていたからで、それを自分のなかで咀嚼し、芸術に昇華するには何十年もの歳月を必要としたということだ。

特に四國は、香月や宮崎と違って美術学校を出ておらず、市役所に勤めながら絵を描いたアマチュア画家。したがって制作活動に専念できたのが退職後だったこともひとつの理由だろう。また、彼は1947年に帰国命令を受けたものの、日本を目前にしたナホトカに1年間自らの意志で残り、雑誌の表紙絵やカットを描くなど宣伝活動に従事したという。詳しいことはわからないが、抑留中に社会主義思想に染まってソ連に残留した元日本兵はけっこういたらしい。おそらく四國も、シベリアで栄養失調で死にかけたとはいえ、病院で絵を学ぶなどそれなりの恩恵も受けたようで、香月ほどの強い恨みを抱かなかったのかもしれない。

だが、それより四國の心を動かすもっと大きな出来事があった。それが原爆だ。彼は生まれが広島で(ちなみに香月も宮崎も隣の山口県出身)、帰国後実弟が原爆で亡くなったことを知る。そのため戦後はシベリア抑留という個人の体験を封印し、はるかに過酷で切実な被曝問題に向き合わざるをえなかったのだ。1955年には仲間とともに「広島平和美術展」を組織し、同展を舞台に代表作である「母子像」を発表することで、平和のメッセージを送り続けた。その彼が抑留体験を描き始めるのは、67歳のときシベリアに墓参りと鎮魂の旅に出てからのこと。そのときのスケッチとそれを元にした油絵などが今回の展示の中心となっている。したがって油絵は抑留体験から約半世紀を隔てて描かれたものばかり。

どれも空は鈍色で、捕虜の兵士たちは一様に暗く、風景はほとんどモノクローム。現地を再訪して記憶が蘇った部分もあるのだろう、陰鬱な空気が漂う。香月も宮崎も同じく抑留体験の絵はモノクロームに近かったが、この2人が具象に限界を感じ、マチエールを重視した半抽象で表現したのに対し、四國はあくまで愚直なまでの具象で表わそうとした。その点で四國の絵は「記録画」、いや「「記憶画」というべきだろう。

興味深いのは《シベリアに連行される捕虜を写生する私》と題された作品。画面の左4分の3にソ連兵の監視下で連行される日本兵を描き、4分の1に1991年に墓参りに訪れたときの自分たちを描き込んでいるのだ。抑留中の自分を45年後の自分がスケッチしている「異時同図法」。会期後半に出品される《1946年埋葬者を運ぶ私を写生する1993年の私》もタイトルどおり、半世紀近い時差をひとつの画面に収めている。記録画のなかに記録する現在の自分まで記録しているわけで、二重の記録画になっている。

関連レビュー

四國五郎展─シベリアからヒロシマへ─|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年07月15日号)

2019/10/25(金)(村田真)

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