2019年12月01日号
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artscapeレビュー

四國五郎展─シベリアからヒロシマへ─

2019年07月15日号

会期:2019/04/26~2019/07/20

大阪大学総合学術博物館[大阪府]

ソーシャリー・エンゲージド・アートの世界的潮流、国内的には3.11以降の反核運動や、アートと社会運動の接近といった観点から、近年再評価の進む画家、四國五郎(1924-2014)。「シベリアからヒロシマへ」という副題が示すように、広島で生まれた四國は、シベリア抑留を経験し、帰郷後に弟の被爆死を知り、峠三吉らと反戦文化運動に詩画人として参加した。街頭でゲリラ的に展示した、詩と画からなる『辻詩』や、峠三吉の『原爆詩集』をはじめとする数々の書物やサークル誌、『絵本 おこりじぞう』などの表紙絵や挿絵を手がけるとともに、自身のシベリア抑留体験を元にした絵画や「ヒロシマ」を主題化した絵画を制作した。また、1974年にNHKが「市民が描いた原爆の絵」を募集した際には、自らの被爆体験を描くよう番組内で呼びかけを行なった。本展では、現存する『辻詩』8点すべてが展示されるとともに、油彩作品、表紙絵や挿絵の原画、それらを用いた書籍やサークル誌、シベリアから密かに持ち帰った極小の豆日記など各種資料が展示された。



会場風景

本展を通覧して、考察すべきポイントとして浮上したのは、1)「意図的な時空の混在」と主体性の回復の願望、2)「ヒロシマ」の表象とジェンダーの問題、3)戦争画(作戦記録画)との本質的な同質性、の3点である。

まず、1)異なる時空を意図的に混在させて描く絵画の「嘘」は、四國自身の「主体性」の位置付けや回復の願望と密接に関わっている。例えば、後年の1990年代になって描かれた、シベリア抑留体験を絵画化した作品群では、捕虜として連行される光景や埋葬者を運ぶ光景を「写生する私」が、同一画面内に描き込まれる。「写生する私」の周りには、同じくスケッチする者やカメラを構えた者、ただ眺める者も描かれており、約50年という時間的隔たりと歴史としての客観化を冷静に承認する。一方、そこには、西洋古典絵画において「絵筆とパレットを手にした自画像」を画中に描き込む操作が、画面全体の支配者として画家自身を特権的に位置付けるように、非人間的な状況から、「見る主体」としての(尊厳の)回復が企図されている。

一方、「ヒロシマ」の絵画群では、時空の撹乱の操作は別の意味を帯びてくる。例えば、《「ヒロシマ」写生する兄弟》では、川面に映る原爆ドームの反映像を背に、キャンバスに向かう四國と弟が並んで描かれる。弟は被爆時を示唆する国民服を着た若い青年像であり、彼の向かうキャンバス裏面には「1945.8.6」という日付が描かれている。対して四國は老年にさしかかっており、キャンバス裏には「1996」という制作年が描かれる。「1945.8.6」で静止したままの時間と、約50年後の「現在」とのありえない混在。それは、凍結した過去の時間をトラウマ的に抱えたまま生きる、サバイバーとしての事後の生の時間感覚を視覚化したものだと言える。

だが、弟を原爆で失ったとはいえ、四國自身は直接原爆を経験した訳ではない。そうした非当事者性の負い目を抱えつつ「ヒロシマ」を描くことのジレンマを表わしたのが、死者の「名札」に自らの名前を描き込むことで、「死者たちとともにある」ことを表明した絵画作品である。原爆資料館に展示された「被爆死した少年の制服」や、《ヒロシマの母子8月6日午前8時00分》において母と並ぶ幼い少年の胸に付けられた名札には、「四國五郎」と描かれており、彼は異なる年齢層の少年の姿を借りて、(絵画というフィクションのなかで)既に死者となり、あるいはわずか15分後には死者の世界に入るのだ。

だがここで、展示された「被爆死した少年の制服」の隣にはセーラー服の少女が立ち、幼い少年は弁当包みを抱えた母親と並ぶように、ジェンダーの対比構造が四國作品に通底することに注意しよう。「(固有名を与えられた実体的存在としての)犠牲者」として描かれる男性表象は、「(被爆死した)弟」と「(フィクションとしての)四國自身」に限定される一方、「匿名的な犠牲者」「平和への希求」として大多数を占めるのは、少女像(+鳩や折り鶴)と母子像である。匿名性や普遍化は、「無垢なる犠牲者」「ピエタの変奏としての犠牲のイメージ」と結びつき、2)「ヒロシマ」の絵画表象を駆動させるジェンダーの力学について再考を促す。



左:《広島原爆資料館》(1975)、右:《ヒロシマの母子8月6日午前8時00分》(1976)

最後に、3)戦争画(作戦記録画)との本質的な同質性について指摘したい。「実際には見ていない、実体験ではない」光景を、迫真のリアリズムでもって描き出し、見る者の心を揺さぶる―ここに、右/左、戦意高揚/反戦の方向性こそ正反対だが、戦争画(作戦記録画)との本質的な同質性をみてとった時、震撼せざるをえない。四國の「再評価」にあたり、「ヒロシマ」の表象史を社会運動との関わりから捉え直す視座とともに、情動を動かすイメージの力が政治と結託するポリティクスと、そこに内包されたジェンダーの問題について、改めて問われるべきだろう。

2019/06/15(土)(高嶋慈)

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