artscapeレビュー
オル太『生者のくに』
2021年09月15日号
会期:2021/08/08~2021/08/09
神戸アートビレッジセンター[兵庫県]
アーティスト・コレクティブ、オル太が茨城県日立市での(リモートによる)リサーチを基に発表した作品。第一部のオンラインゲームと第二部の舞台公演で構成される。オンラインゲームでは、プレイヤーは「坑夫」「農婦」「政治家」「芸者歌手」「牛」などのキャラクターを選択し、日立市の地形を3DCGで再現したフィールドを探索しながら、日立鉱山の歴史、過酷な労働、鉱山内の風習、公害、版画など文化を通した社会運動について学んでいく構成だ。クライマックスの祭りでは、無形民俗文化財「日立風流物」の山車や人形が登場し、プレイヤーの掛け声に合わせて動き、壮観だ。
一方、第二部では、坑道を模した木組みのインスタレーションを舞台に、断片的な語りの蓄積によって、日本の近代を支えた炭鉱労働と、オリンピック/コロナ自粛の現状が、過去と現在を行き来しながら重ね合わせられていく。「過去の声」を今に響かせる記憶継承装置として重要な役割を果たすのが、民話の語りや炭坑節だ。労働の搾取、「祭り」と自粛、社会構造の閉塞感を「現代の民話」としてどう語り直せるか。そしてその先に、炭鉱が象徴する近代化の宿痾の根源とどう接続できるかが賭けられている。
狭い坑道には、四つん這いの窮屈な体勢のまま、身じろぎしない坑夫や河童が身を潜めている。カン、カンというタガネを打つ音が響き、「七つ八つからカンテラ下げて~」という節回しが聴こえてくる。山の神は縮れ毛がコンプレックスのため、鉱山内で髪をとかすと逆鱗に触れるという民話が語られる。「異界」への案内役として河童や天狗の妖怪についても語られるが、わかりやすいキャラ化の浸透の反面、「海も山もない」というラストの台詞のように、山を切り開き、汚染水を垂れ流した結果、彼らはもはやどこにも存在しない。
地下深くに眠る鉱物資源を、現代の都市空間へと反転させたのが、私たちの身の回りにあふれる「都市鉱山」だ。車、家電、スマホ、PC、ゲーム機……。大量廃棄されたそれらの山は、分解して希少資源の採掘を待つ鉱山であり、私たちの日常は労働の搾取の構造で成り立っている。鉱毒に侵された畑のため、農夫から鉱山労働者という別世界に転職したことを語る男。一方、現代では、エネルギー会社へのオンライン面接にのぞむ若い女性が、祖父がかつて炭鉱労働者だったことを自己アピールとして語り、男女の給与格差についてさりげなく質問する。SDGsに含まれるジェンダー平等の目標と、遠い道のりが、月経中の女性の入山禁止の慣習、就職の面接、家庭内DVのシーンを点々と連ねて示される。
オンラインゲームのクライマックスを盛り上げる「祭り」とは対照的に、「現代の祭り」の矛盾を見せつけて鋭い亀裂を入れるのが、オリンピック開会式の花火が華やかに打ち上げられる新国立競技場と、その周辺の反対デモを(中継風に)映し出す映像の挿入だ。そして、山本作兵衛の炭鉱画とともに、「生者のくに」が地下の世界を指すことが終盤で語られる。「坑内で死体が上がっても、魂は地下を彷徨う」。死者ではなく、まだ生きている者たちの声が、炭坑節となって響く。それは、かつては労働歌としてコミュニティ形成の手段であったが、現代では、クラブ風にアレンジされた炭坑節にノって踊りまくる出演者たちが示すように、過酷な現実をいっとき忘却するための一過的な熱狂にすぎない。
終わりのない労働と搾取、祭りの(醒めた)熱狂と歴史の反復構造は、オル太の過去作『超衆芸術 スタンドプレー』(2020)においても通奏するテーマだった。そこでは、新国立競技場を模した楕円形の陸上トラックが設置され、出演者たちはそのレールの上でトレーニングマシンを押してグルグルと周回させる肉体労働に従事し続ける。終わりのない単純労働によって「レール」からの逸脱の不可能性と国家イベントの反復性をひたすら可視化した『超衆芸術 スタンドプレー』。奇しくもオリンピック閉会式の日に初日を迎えた本作では、対照的に「狭い坑道で四つん這いの姿勢を強いられ、何かの圧力に耐えている身体」の異常性が際立っていた。
公式サイト:https://seijanokuni.net/
2021/08/08(日)(高嶋慈)