artscapeレビュー

2021年09月15日号のレビュー/プレビュー

ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声(前編)

会期:2021/04/03~2021/07/04

山口情報芸術センター[YCAM][山口県]

本稿の前編では、「ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声」の作品体験の前半部分をなす映像パートについて、言及される歴史的資料の基本情報とともに概説する。後編では、映像鑑賞後に用意されたVR体験について、本作の持つメディア論的な批評性の拡がりとともに分析する。

東南アジアの複雑な近現代史について、多様なテクストや映画を引用・接合する手法により、「歴史とは、複製されたイメージの断片が集合的に形づくるフィクションにすぎない」ことを暴きつつ、オルタナティブな語り直しの手法を提示してきた、シンガポール出身のホー・ツーニェン。その作品群は、歴史を語る主体や「国家」のオリジンといった「唯一の正統な起源」への疑義を常に呈しつつ、「声」の多層性の回復に向けて賭けられている。

あいちトリエンナーレ2019で反響を呼んだ《旅館アポリア》は、「展示会場の元料理旅館に出撃前の特攻隊員が泊まった」という史実を起点に、シンガポールも含む日本の軍事侵略に関わる力学を分析し、空間に再インストールした映像インスタレーションである。軍報道部映画班に徴集されてシンガポールに滞在した小津安二郎の映画や海軍プロパガンダのアニメーション映画を引用しながら、特攻隊の遺書や軍歌、京都学派の思想、文化人の戦争協力体制について、ホー自身の所感やリサーチャーとの往復書簡も交え、語りの主体の多重性、スクリーン=視点の複数性を担保しながら語られる。

《旅館アポリア》の続編とも言える本作「ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声」は、日本の軍事侵略期と重なる1930-40年代に思想的影響力を持った学際的ネットワーク「京都学派」に焦点を当てるものだ。本作は、それぞれ2面のスクリーンで構成される3つの映像作品「左阿彌の茶室」「監獄」「空」と、VR体験空間「座禅室」からなる。2面×3=計6面の映像作品はすべて同尺の3Dアニメーションで、冒頭で京都学派の説明が同期して流れた後、西田幾多郎を祖とするそれぞれの思想形成を空間のなかに再配置するように、分岐していく。囁き声のナレーションにより、計5つの座談会・講演の概要や時代背景を聞いた後、ヘッドセットを装着して「茶室」「監獄」「空」「座禅室」のVR空間に入り込み、実際の読み上げ音声を聞くという流れだ。



会場の様子「左阿彌の茶室」「監獄」[撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


まず、「左阿彌の茶室」では、「京都学派四天王」と呼ばれた西谷啓治・高坂正顕・高山岩男・鈴木成高による座談会「世界史的立場と日本」(1941)が紹介される。真珠湾攻撃の約2週間前、雑誌『中央公論』の企画によって京都の料亭の茶室で行なわれたこの座談会では、ヘーゲルの歴史哲学の批判的乗り越えと歴史の推進力について論じられ、戦争の道義的目的が作り出された。この「左阿彌の茶室」は重なり合う2枚のスクリーンで構成され、視点を斜めにとると、座卓を囲む4人の思想家を映す半透明スクリーンの背後に、無人の茶室を映すもうひとつのスクリーンが現われる。この「背景」では、彼らの思想的バックボーンである西田幾多郎に焦点が当てられ、「日本文化の発威」を目的に文部省の要請で行なわれた公開講座「日本文化の問題」(1938)が紹介される。また、前面のスクリーンでの「戦争協力」を相対化するように、背面では近年発見された新資料「大島メモ」が言及され、東条英機内閣の打倒と対米関係の是正を目的として京都学派が海軍との秘密会合を開いていたことが語られる。



会場の様子「左阿彌の茶室」[撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


続く「監獄」では、背中合わせの2枚のスクリーンでそれぞれ、豊多摩刑務所を舞台に、京都学派左派とされる三木清と戸坂潤が紹介される。三木清の談話「支那事変の世界史的意義」(1938)は、日中戦争勃発の翌年、近衛文麿内閣のシンクタンクとして発足した「昭和研究会」で発表され、後に「大東亜共栄圏」に発展する「東亜協同体」の概念の母体となった。また、戸坂潤の論考「平和論の考察」(1937)は、「国内の秩序安定と東洋の平和のために、日本国外での一時的な戦争の必要性」を訴えるパラドキシカルなものだ。逮捕された三木のポストを戸坂が引き継いだこと、ともに閉鎖的なアカデミズムの外部で反ファシズム活動を行なったこと、獄死という共通性が、ナレーションの同期や表裏一体の空間配置で強調される。


そして「空」では、対面する2枚のスクリーンで、田辺元が京都帝国大学で行なった公開講座「死生」(1943)が紹介される。5カ月後には学徒動員が開始される戦局悪化の状況下で、田辺が若い学生たちに語ったのは、死のなかに生を投企する「決死」の覚悟と、「国家のために死ぬことで個人が絶対者つまり神とつながる」という論理である。そして、「青空を駆ける戦闘ロボットアニメ」がスクリーンに映し出される戦慄的な理由は、VR体験で明らかとなる。



会場の様子「空」[撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]

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2021/07/03(土)(高嶋慈)

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ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声(後編)

会期:2021/04/03~2021/07/04

山口情報芸術センター[YCAM][山口県]

映像鑑賞後のVR体験空間では、鑑賞者は「茶室」「監獄」「空」そして「座禅室」の空間に入り込み、実際の音読を聴くことになる。4つのVR空間の移動は、「座る=茶室/座禅室」「横たわる=監獄」「立つ=空」というように、鑑賞者の身体の位相に連動する。加えて特筆すべきは、「VR空間への没入=身体と現在時の忘却」ではなく、「鑑賞」に身体的な負荷がかけられ続ける点だ。茶室での座談会の発言を聞くためには、不在化された「5人目の同席者」である「速記者」の身体となり、VRの鉛筆を握る右手を紙の上で動かし続けねばならない。手を止めると座談会の声は消え、速記者の大家益造が自らの中国戦線体験を詠んだ歌集『アジアの砂』(1971)から、凄惨な戦場の光景や京都学派への辛辣な批判を詠んだ短歌が聴こえてくる。その凄惨さに身じろぎできずにいると、茶室の光景がすっと遠のき、無限に続くような「座禅室」が現われ、自らも座禅で思想鍛錬した西田幾多郎の講演を読む声が響いてくる。床に身を横たえると、汚れた床を蛆虫が這い回る狭い独房に閉じ込められた囚人となり、三木清と戸坂潤の言葉を読む声がそれぞれ左右から聴こえてくる。

「声」を聴く「私」は、次々と異なる身体に憑依し続ける。戦争を正当化する机上の論理を書き留める速記者の身体に、既に中国戦線を経験した彼の脳裏で響く悔恨のフラッシュバックに、超越的な時空間で沈思黙考する思想家に、自由を奪われた虜囚に。



会場の様子[撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


ここで、使用されたソースが、(戸坂をのぞき)「座談会や講演」すなわち元々は目の前の聴衆や対話相手に向けて肉声で語りかけた声であることと、映像内のナレーションで「出典情報」に言及していることに留意したい。(西田と田辺をのぞき)これらの講演やテクストは彼らの全集から除外され、座談会の収録本は復刻もなく、現在は一般に流通していない。ホーは、「かつて生身の身体から発せられた肉声」であり、「『戦争協力』として忘却された声」に、二重の意味で再び「声」を与える。



VR映像の一部[提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


この声の聴取と「憑依」体験が、メタVR論的な省察と交差する秀逸な極点が、「空」のVRである。ガンダムの「量産型ザク」を思わせる戦闘ロボットのモビルスーツを装着し、青い海上を駆ける「私」の周りでは、仲間の機体が次第にバラバラに分解し始める。視点を下に落とすと、「私」の機体も同様に分解し、ゆっくりと粉々の破片に粉砕され、死への怖れの克服と「国家のために死ぬとき、人は神となる」という田辺の講演が聴こえるなか、塵となって空に消えていく。もはや何もない虚空に浮かぶ、身体のない「私=特攻兵士」。「VR世界への没入=身体の一時的消滅」のリテラルな実践が、「英霊」になる擬似体験と戦慄的に重なり合う。「VRにおける身体の一時的消滅」について、「魂が浮遊する天上的空間での一種の臨死体験」と「拘束や重力の負荷」の落差を批評的に突きつける作品として、小泉明郎『縛られたプロメテウス』(2019)が想起されるが、本作にもVR自体に対するメタ的な批評性が胚胎する。



VR映像の一部[提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


ここで本作を別の角度から見ると、「アニメーションと戦争」という批評軸が浮上する。本作で「アニメーション」という形式が選択された理由として、戦争協力、ロボットアニメ、セル画の構造という複数の点が絡み合う。《旅館アポリア》でも、漫画家・横山隆一による海軍プロパガンダアニメーション映画『フクチャンの潜水艦』(1944)が引用されていたが、小資本の家内制手工業だった戦前の日本のアニメーション業界は、日中戦争勃発後に戦時色を強めるとともに、軍部の資本提供により産業化の土台が形成された。また、アジア太平洋戦争と「ロボットアニメ」(が描く虚構としての戦争の娯楽的消費)の批評的な重ね合わせとして、藤田嗣治《アッツ島玉砕》(1943)の死闘図の兵士たちを量産型ザクに置き換えた会田誠の《ザク(戦争画RETURNS 番外編)》(2005)が連想される。VR「空」と同様、「特攻」「玉砕」の美学が「量産型ザク=匿名の消費財」に置換されることで、「戦闘ロボットアニメが繰り広げる虚構の戦争」を娯楽として「消費」する私たち自身の眼差しこそがそこでは問われている。

一方、「セル画アニメ」の形式性への言及は、映像「左阿彌の茶室」の重なり合う2枚のスクリーンに顕著だ。セル画アニメは、背景やキャラクターが描かれた透明のセルを重ねる層構造で表現する。視点を斜めにズラすことで出現する「背景=茶室」のスクリーンと「別の視点の語り」は、歴史に対してつねに複層性と視差を持って眼差すことの重要性を指し示す。

このように本作は、単に一枚岩の「戦争協力」として糾弾するのではなく、戦争遂行の背後で駆動していた構造の力学をあぶり出し、アニメとVRという使用メディア自体に対する批評性とともに、複雑に交錯するその力学を立体的・身体的に展示空間に再インストールすることに成功していた。



会場の様子「左阿彌の茶室」[撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


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2021/07/03(土)(高嶋慈)

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中野成樹+フランケンズ『Part of it all』

会期:2021/07/18

えこてん 廃墟スタジオ、屋上スタジオ[東京都]

中野成樹+フランケンズ、略してナカフラ2年半ぶりの(東京ではなんと5年ぶりの!)公演が行なわれた。演出ノートによれば、しばらく公演がなかったのは中野が「鬱をわずらったり、複数のメンバーが育児に追われはじめたり、新型コロナがやってきたり、なかなかその機会が整」わなかったから、とのことで、そのような状況でも演劇をやるために今回の公演は「現状のメンバー全員が、 ①日常生活を維持しながら無理なく参加できる ②あるいは、積極的に不参加できる」という二つの指針に基づいて準備が進められてきたそうだ。日曜日1日のみ、午前午後1回ずつの2回公演。すべての役に複数の俳優が割り当てられているのも公演を「無理なく」行なうための構えだろう。

今回上演されたのはエドワード・オールビー『動物園物語』を原作に中野が誤意訳・演出を手がけた『Part of it all』。ナカフラはもともと「時代・文化風習等が現代日本と大きく異なる、いわゆる『翻訳劇』をとりあげ、『いまの自分たちの価値観と身体』で理解し体現する」ことを掲げ、「逐語訳にとらわれない翻訳、あらすじのみを死守する自由な構成、従来のイメージやマナーにとらわれぬ私たちの物語としての作品解釈、その方法・表現を『誤意訳』と名付け」て実践してきた。今回の『Part of it all』は会場となった廃墟スタジオでまずは第一部として「原作の紹介上演」が行なわれた後、同じ会場で第二部として「その誤意訳上演」、そして屋上へ移動しての第三部「+メンバーの日常」という三部構成での上演となった。手練ぞろいのナカフラ俳優陣による上演は期待に違わず抜群の面白さだった。



原作の『動物園物語』は男二人の会話劇。ピーター(洪雄大/福田毅)が公園のベンチで本を読んでいると見知らぬ男が「動物園へ行ってきたんです」と話しかけてくる。適当にあしらって会話を早く切り上げようとするピーターだったが男はしつこく話しかけてくる。ジェリー(田中佑弥/竹田英司)と名乗るその男はどうやら動物園で何かニュースになるようなことをしてきたらしい。出版社に勤め妻子もいるピーターと酷いアパートの一室に独り住むジェリー。不均衡な二人のあいだで交わされる会話は不穏さを増していき、やがて悲劇的な結末を迎える……のだが、今回の上演はおおよそ前半部のみ。不穏さが急激に高まっていく直前で上演は途絶し、第二部の誤意訳がはじまる。

第二部ではピーターが三人になっており(A:佐々木愛/北川麗、B:福田毅/洪雄大、C:新藤みなみ/[中野成樹])、どうやら彼女たちは会社の同僚らしい。休憩中だろうか、コーヒーや財布を手に心霊写真の話で盛り上がる三人。そこに缶酎ハイとコンビニのチキンを手にした男(=ジェリー、配役は第三部まで同じ)がやってくると、「一人、百円ずつもらっていいですか?」と言い出し──。ジェリーの不条理さは原作と同様だが、第二部では構図が三対一になったことでピーターの側にある数の優位とその感じの悪さが際立つ。Cのパートナーが電通に勤めているという設定は、数の優位が資本の力とも結びつき得ることを示唆するものだろう。金を払えばいいのだろうと言わんばかりの態度も鼻につく。

第三部は基本的には第二部と同じ内容なのだが(ただしピーターはA:石橋志保[佐々木愛、北川麗]、B:小泉まき[福田毅、洪雄大]、C:野島真理/斎藤淳子[新藤みなみ])、上演のシチュエーションが変わることでその見え方は再び大きく変わることになる。舞台は屋上。アウトドア用のテーブルや椅子、パラソルやビニールプールなどが置かれた空間で、ナカフラのメンバーとその子供たちが遊んでいる。そこにやってくるジェリーは子供たちに危害を加えかねない不穏さを孕んでいるように見え、ピーターたちはジェリーを子供たちに近づけないように立ち回る。ジェリーはいわゆる「無敵の人」のようでもあり、数では勝るピーターたちは、必ずしも優位な立場にあるわけではない。



ところで、今回の上演では一貫してピーターたちは白、ジェリーは赤の衣装を身にまとっていて、そのことが対立の構図をより鮮明に見せている。だが、上演の核は分断よりはむしろ「見えないもの」に想像を広げていくことにあるだろう。誤意訳で書き込まれた心霊写真(過去、死者)やお腹の子(未来)といったモチーフがそのことを示している。第二部では女性が、第三部では子供が登場し、舞台の上の人数とその多様性は増していく。それはつまり、それ以前には舞台上に彼女たちはいなかったということだ。だがそれでも、それ以前の上演の背後にも彼女たちは存在していたことは言うまでもない。演劇は、芸術は、社会と生活から切り離された営みではない。

動物園で何が起きたかをはじめ、ピーターと観客はジェリーの背景を十全に知ることができない。今回の上演は途中までなので、戯曲を読まなければ戯曲に書かれているはずのことすらすべてを知ることはできない。そこにあるのは全体の一部に過ぎず、しかしたしかに全体の一部ではある。そのことを改めてきちんと想像してみること。

屋上で上演される第三部には無言のまま舞台をゆっくりと通り過ぎる人物がいて、その衣装は鮮やかな青だ。赤と白の衣装は日本国旗を連想させるが、世界は紅白のなかで完結するわけではない。国旗は空にはためくものであり、日本の外側には海も広がっている。海の向こうにはまた別の国々もある。青空と街並みを背景に屋上で上演され、俳優たちの日常までもが垣間見える第三部は、私の見えないところにも世界は広がっているのだというごく当たり前のことを、しかし鮮やかに体感させてくれた。


公式サイト:http://frankens.net/
『Part of it all』中野成樹・野島真理インタビュー:http://frankens.net/part-of-it-all-interview/

2021/07/18(日)(山﨑健太)

愛媛(宇和島ほか)の建築

[愛媛県]

宇和島市の建築めぐりを行なった。《宇和島城》(1601)は復元ではなく、現存する17世紀の天守であり、三層の屋根や玄関に懸魚付きの唐破風や千鳥破風を散りばめ、優美な姿をもつ。ただし、あまり大きくないことと、樹木が成長しており、下方からはあまり見えない。また登る途中の石垣も、夏は植物で覆われてしまう。《城山郷土館》(1966)は、宇和島藩の19世紀の武器庫を移築保存したものを再利用している。《宇和島市立歴史資料館》(1992)も、古い建築のリノベーションだ。擬洋風の《宇和島警察署》(1884)が1950年代に移築され、1990年までは町役場として使われた後、再移築されたものである。また石垣のモチーフを組み込み、1974年にオープンした《宇和島市立伊達博物館》(1974)は、伊達家の史料などを収蔵し、天赦園に隣接して建つ。しかし、老朽化に伴い、建て替えを計画しており、プロポーザル・コンペによって隈研吾が設計者に選ばれた。一番新しい昭和の建築が解体の対象となるのは皮肉だが、これを契機に各館のコレクションを効果的に再編できるのではないかと感じた。



《宇和島城》



《城山郷土館》



《宇和島市立歴史資料館》



《宇和島市立伊達博物館》


宇和島といえば、大竹伸朗のはずだが、どこに行っても彼の作品に遭遇しない。ようやく出会ったのは、駅前の《宇和島市学習交流センター パフィオうわじま》(2019)の図書館だった。ここでは大竹に関連する展示、彼の蔵書コーナーを設けているほか、1階ではグッズの販売が行なわれている。また同施設のホールの緞帳は、大竹が制作したものだ。



《宇和島市学習交流センター パフィオうわじま》図書館内での大竹伸朗に関連する展示


また愛媛の建築家、武智和臣が、アーティスト、ケース・オーウェンスのアトリエを改修し、昨年オープンした宇和町の宿泊施設《atelier O-HUIS》(2020)を見学した。斜めに配された石積みの壁や大きな鉄の扉が重厚である。200㎡の客室、天窓のあるベッド、露天風呂などがつく。越後妻有トリエンナーレにも参加したオランダ人の作家であり、もともとは1990年代に建てたものらしい。外は田園風景が広がり、庭園は石の彫刻、屋内は絵画や陶芸などのアートに囲まれ、1日1組限定の一棟貸しで、最低でも24万円台からである(食事はシェフを呼ぶ)。ホテルというよりも、別荘を借りる感覚だ。かなりの高価格だが、大衆を相手にしているわけでなく、こうした豊かな空間を求めている層がちゃんといるという。新しいアート・ツーリズムが生まれている。



武智和臣《atelier O-HUIS》



《atelier O-HUIS》

2021/07/22(木)(五十嵐太郎)

秋田(角館、大曲、横手、湯沢)の建築群

[秋田県]

およそ20年以上ぶりに秋田の角館を訪れた。武家屋敷の雰囲気が残る町並みに、大江宏によるポストモダン、いや正確に言うならば、異なる時代と地域の様式を混在させたような《仙北市立角館町平福記念美術館》(1988)や《仙北市立角館樺細工伝承館》(1978)はあらためて不思議な組み合わせである。力作(特にイスラム風にも見える前者)であることは間違いない。だが、現代の発火しやすいSNS社会なら、これらは炎上する公共建築になったかもしれないと思う。ともあれ、かたちのデザインが輝いていた時代の建築である。



武家屋敷の蔵



《仙北市立角館町平福記念美術館》



《仙北市立角館樺細工伝承館》


また《角館歴史村・青柳家》展示施設では、『解体新書』の人体解剖図を描いた画家、小田野直武が、角館の武士だったことを紹介していた。なお、『解体新書』の扉絵に西洋建築が入っているが、日本に伝わった最初期の古典主義のイメージだろう。昭和初期の《旧石黒(恵)家》(1935)も、和洋折衷のデザインが見応えがある。こうした古風でありながら、新しいものを取り入れた態度は、大江の建築と重なるかもしれない。

鈴木エドワードによる《大曲駅》(1997)を見てから、《花火伝統文化継承資料館 はなび・アム》(2018)を訪問した。日本一を競う花火の展示施設であり、内容も悪くないのだが、建築のデザインが酷すぎる。これでは、花火に失礼だろう。気合いの入った花火職人の映像を見ると、東京2020オリンピックの開会式で日本製の花火を使わなかったことも同情する。



《大曲駅》


横手市の《秋田県立近代美術館》(1994)は、巨大ヴォリュームを持ち上げる、ど派手な外観に驚く。が、それ以上に連結するエンターテイメント施設群や飲食エリアを含む、秋田ふるさと村のプログラム構成がなんともシュールである。



《秋田県立近代美術館》


湯沢市では、まだ見ていなかった東京から移築した白井晟一の《試作小住宅》(1953)を探した。パソコンでサムネイル的に小さい画像で見ると、普通の切妻屋根の家屋とあまり変わらないようにも見えるが、ようやく実物を発見すると、絶妙のサイズとプロポーション感覚で舌をまく。また今回は雪に埋もれていない状態の《四同舎(旧湯沢酒造会館)》(1959)も確認することができた。なんとか保存されており、古びてはいるが、クラシックなデザインの感覚をもち、背筋が伸びるような建築である。



白井晟一《試作小住宅》




白井晟一《四同舎》

2021/08/07(土)(五十嵐太郎)

2021年09月15日号の
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