artscapeレビュー
中根唯個展「目の奥でなでる」
2023年09月01日号
会期:2023/08/09~2023/08/29
「今はもう触れない犬を思い出し、イメージしながら頭の中でなでる。なでたときの手触りの記憶とともにイメージを頭に浮かび上がらせる。どうしても忘れそうになってしまうので、なんとか暖かさや体のかたちを思い出しながら。」
大きさが横幅50センチメートルほどある、卵のような楕円形の白地の立体《絵のかたまりの毛(#003)》(2023)には、10センチメートル程度の長さのモノクロの線がおびただしく描かれていた。よく見ていくと、線にはまとまった流れがいくつもある。そのまとまりにつき15本くらいの細い線が群となってなってうねる。時にそれは合流し、渦を巻く。
ギャラリーの中を一周し、会場にあるハンドアウトで作家のステイトメントを読むと「犬」について書かれている。そうするともう、この立体のつややかなキャンバスがわたしには犬にしか見えなくなった。その線のまとまりは毛並みであり、うねりの合流地点はつむじなのだ。眠るようにまるまった犬の背中のような、つるりとした立体。シリーズ名は「毛皮」。
犬のよすがとしての半立体にしんみりとしつつ、ステイトメントには制作で思考されているもうひとつの事象について記してあった。それを「視覚による触覚」と要約してもいいだろう
。ここで考えたいのは、壁から突出した棒の先端に、発砲ウレタンとジェスモナイトでつくられた手のひらサイズの石のような立体がくっつき、その「石」の表面に描画がなされている「長い絵」シリーズだ。棒の先端の立体に浮かび上がるように風景が描かれているからか、遠くの眺めを「覗き込んで見ている」という観賞体験が生じているように思う。その鑑賞体験を生み出した形状は、18世紀に発明されたステレオスコープ(望遠鏡)を思い起こさせるし、ステイトメントと作品の形状は、19世紀に登場した「ステレオスコープ」が、両目で異なる像を見ることによって、そのイメージの触覚性(立体視)を与えようとする装置と位置付けられたという、一連の視覚経験の系譜についての議論が想起させられた。
哲学史からしても視覚と触覚の対峙的な考察は多種多様だが、18世紀に照準を絞れば、世界の知がどのように与えられるか・得られるかという点で、真理に至るための絶対的な立ち位置を占める視覚と、それを相対化するものとしての触覚という関係性が両者には存在する。例えばディドロによる、幾何学にしても視覚的な認知に基づくものだけでなく、触覚によりその真理に到達可能なのではないかという提起がそれに該当する。そういった時代の問いと比べると、中根のステイトメントは視覚を契機とした触覚の思い出しの可能性であり、遠くを見るということ自体の再考である。すなわち、18世紀の視覚の相対化以上に、視覚に可能なことは何かという、視覚の非万能性に立脚した、不能への挑戦という姿勢を感じる。
この丸みはどこから見た犬の背中か。それは膝の上に乗って丸まった犬を見下ろし撫でながら目にした様子ではないか。それが壁に水平に掛けられる。絵画の正面性が、何らかの身体的状態と結びついているのだ。そこから考えてみると「長い絵」では、その棒の高さや、壁からのしなだれ具合が何を成しているのかということが気になってくる。犬の背中のように、それは「どこからいつ見ることができたか」ということを記録し、再演するための治具なのではないか。膝をどれほど折って初めて見ることができる風景なのかという、対象との距離だけではなく、例えば幼い日からの時間的な遠さが、棒の傾きと「石」の位置に反映されているのではないだろうか。
同じく18世紀の視覚と触覚をめぐる議論に「モリヌー問題」がある。それは盲人の目が見えるようになった瞬間、それまで触覚的に把握していた幾何学的形態のことを、視覚的に立ち現われた幾何学に即座に当てはめて理解できるかという問いである。答えは「できない」ということなのだが、「毛皮」にはその「できない」が「もしかしたらできるかもしれない」と思わせる力があるように思えるのだ。
展覧会は無料で観覧可能でした。
中根唯個展「目の奥でなでる」:https://takusometani.com/2023/08/05/中根唯個展%E3%80%80「目の奥でなでる」
2023/08/24(木)(きりとりめでる)