artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
澤田華「見えないボールの跳ねる音」
会期:2018/04/13~2018/04/29
Gallery PARC[京都府]
澤田華が近年に制作している「Blow-up」(引き伸ばし)シリーズや「Gesture of Rally」(ラリーの身振り)シリーズは、印刷物や画像投稿サイトの写真のなかに写り込んだ「正体不明の物体」を検証するため、写真を引き伸ばし、形態を分析し、3次元の物体として「復元」を試みるなかで、イメージの「誤読」が連鎖的に生み出されていくプロセスの提示である。
本展では、「Mr.ビーン」役で有名な俳優、ローワン・アトキンソンのポートレイトが掲載された書籍を出発点に、彼が手にしている「よく分からない何か」(一口かじったクラッカー?)に着目した。「これは何か」と指さす手とともに元の写真図版を入れ子状に写した写真に始まり、ほぼ実物大に引き伸ばし、輪郭線を抽出し、カラー数値を分析し、画像検索にかける。だが、「干し大根」「せんべい」「ギョーザの皮」「聖体」など近似値の回答結果が得られるだけで、「正解」は分からない。検索結果を表示するウェブ画面をプリントした紙に加え、元の書籍のAmazonの商品ページやWikipediaの「ローワン・アトキンソン」の項目ページもプリントアウトして掲示され、謎が解明されないまま、情報だけが蓄積されていく。
さらに別室では、同じ写真のなかに見出された「もう一つの謎の何か」(もう片方の手と服の隙間にチラ見えする模様?)が分析と検証を加えられ、イメージの「誤読」を生み出していく。モニターには、トリミングや解像度などの差異を施した画像を、Google画像検索にかけた結果が次々と表示される。「これは、人の目です」「これは、タトゥーです」「これは、女性の隣に立っている人々のグループです」……。「これは、~です」の空白部分はいくらでも代替可能であり、写真の明白な意味(と思われていたもの)は解体されていく。
写真に偶然写り込んだ不可解な細部、一種の「プンクトゥム」に着目して検証を加えていく方法論はこれまでと同様だが、本展では、「情報」の連鎖的な生産がもう一つの焦点となっている。また、1枚の写真のなかに複数の不可解な細部を見出し、それぞれを情報の渦巻く海へと拡散させていくことで、「写真には単一の本質的な意味など内在しない」というメタメッセージが差し出される。それは、InstagramなどSNSや画像共有サイトにおける「タグ付け」に奉仕して流通する写真の現在的あり方への批評でもある。澤田作品は、写真が単一の意味へと収斂することに抗い、眼差しの統制を解除し、修正によってノイズが排除されたデジタル写真から「写真」の持つ不可解な力を取り戻すための試みであると言える。
「これは、~です」の指示対象はまた、埋まらない空白としての写真の細部を指し示すと同時に、「これは、印刷物です」「これは、インクのドットです」「これは、モニターの表面です」というように、次々と異なるメディウムの間を憑依していく。澤田作品は、イメージが複数のメディウムの間をサーキュレーションしながらゴーストのように漂い続ける状況そのものをも指し示しているのだ。
関連レビュー
2018/04/15(日)(高嶋慈)
KYOTOGRAPHIE 2018 森田具海「Sanrizuka ─Then and Now─」
会期:2018/04/14~2018/05/13
堀川御池ギャラリー[京都府]
タイトルの「Sanrizuka」は、1960年代後半に成田国際空港の建設予定地となり、地元農家や学生らが激しい抵抗運動を繰り広げた千葉県の農村地域「三里塚」を指す。森田具海は、かつて熾烈な「三里塚闘争」が行なわれたこの地の現在の姿を、4×5の大判カメラで淡々と写し取っていく。それは、長閑な野原や林のなかに異物として突如現われ、境界線を可視化し、視界を塞いでいく「壁の生態学」とも言えるものだ。植物が生い茂り、サビが浮き、歳月を物語る壁。何重もの金網フェンスが張り巡らされ、管理と排除の力学で覆われた一帯。至近距離で真正面から撮られた壁は、文字通り目の前に立ち塞がる威圧感を与えるが、荒涼とした野原に建つ壁をやや遠望に捉えたショットは、どこか空虚な印象を与える。辺りは無人だが、ある壁の上部にはよく見ると監視カメラが設置され、私たちは壁によって常に「見られている」。土地に引かれた境界線を物理的な障壁として顕現させ、国家や資本主義といった権力を可視化する装置として機能させる政治学が、ここではつぶさに観察されている。
また、展示に際して森田は、2つのインスタレーション的な仕掛けを施した。1点目は、空港建設反対運動に参加した人々が発したスローガンを、当時用いられた字体のまま、壁面に掲げている。だが、白い壁に白い文字で記された抵抗の言葉は見えづらく、「かつて」の記憶への接近の困難そのものを指し示すかのようだ。また、2点目として、展示室内に実物の金網フェンスを用いて四角い囲いを出現させ、その壁面をぐるりと一周するように写真を展示している。だが、この展示方法は両側面があるのではないか。インパクトがあって分かりやすい反面、「壁」が物理的に出現することで、写真自体の喚起力を削いでしまうのではないか。目の前の、仮設的なフィクションとして存在する「この」壁は、三里塚に建つ「あの」壁の代理=表象とはならない。むしろ、写真自体が、個別的な対象を写しつつ、世界中に無数に存在する壁や境界線へと拡張可能な喚起力を持つべきだろう。
KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭 2018 公式サイト:https://www.kyotographie.jp
2018/04/15(日)(高嶋慈)
KYOTOGRAPHIE 2018 小野規「COASTAL MOTIFS」
会期:2018/04/14~2018/05/13
堀川御池ギャラリー[京都府]
白い巨大な壁が、海と陸地を隔て、自然と人間の住む世界のあいだに境界線を築いていく。その真新しい白さと屹立する巨大さが、風景のなかで異物感を際立たせる。小野規は、東日本大震災後、岩手・宮城・福島各県の沿岸部に建設されつつある、高さ10m以上、総延長400kmにおよぶコンクリートの防潮堤を2017年夏に撮影した。
広大なスケール感と幾何学的構成美を兼ね備えた小野の写真は、現在進行形で建設中の防潮堤=壁のさまざまな側面を鋭く切り取っていく。波立つ海から住宅地や畑を分離し、自然/人間、海/陸の連続性を断ち切り、境界線を可視化するものとしての防潮堤=壁。漁港を要塞のように取り囲む幾何学的な形態の威容。住宅地のすぐ向こうに垣間見え、隣家との塀のような平凡さで向こう側の風景を遮断していく壁。なだらかな斜面に広がる畑の先に続く漁港と、その穏やかな眺望を視界から消していく壁。「日常のすぐ隣に侵入してくる防潮堤=壁」が、風景を「遮断」していく様が冷徹な眼差しで切り取られる。
また、海沿いの崖の隆起した地層と対比的に撮影された防潮堤は、湾曲/人工的な直線という視覚的対比を強調し、地層の湾曲にかけられた地圧すなわち地震の巨大なエネルギーを示唆する。黒ずんだ以前の防潮堤と、その何倍もの高さでそびえ立つ真新しい壁の対比は、技術力の誇示か、繰り返される自然災害に対する人間の無力さの証明か。さらに、このモニュメンタルな壁の幾何学的な色面、その「白」という色の虚無的な広がりが風景を消去していく様は、震災の記憶の忘却に対する暗喩的事態でもある。
KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭 2018 公式サイト:https://www.kyotographie.jp
2018/04/15(日)(高嶋慈)
KAC Performing Arts Program 2017/ Contemporary Dance ワークショップ&ディスカッション『ダンスの占拠/都市を占めるダンス』
会期:2018/03/24
京都芸術センター[京都府]
「都市におけるダンス」をテーマに、ダンスやダンサーを取り巻く現在の状況を再認識し、課題や展望を話し合う、ワークショップとディスカッションのプログラム。ほぼ丸一日にわたって行なわれたディスカッションの6つのセッションのうち、筆者は、手塚夏子のお話とワークショップ「フォルクスビューネの占拠にいて考えたこと」、「ダンサーが手を組むこと~労働としてのダンスと、互助組織、ネットワーク」、「若手ダンサーが求める課題と環境、そして機会」、「ダンス/地域/都市/社会/世界」の4つを聴講した。
まず、1つめのセッションでは、ダンサーの手塚夏子が、昨年ベルリンの劇場フォルクスビューネが占拠された現場での体験談を話した。ワークショップのようなものや炊き出しも行なわれ、現場は殺気立つというより穏やかな雰囲気だったというが、そこには、「対立の歴史が長いからこそ、運動を静かに続けることで対話を持続させよう」という静かな熱があるのではと手塚は話す。占拠事件の直接的なきっかけは、劇場総監督を25年間務め、実験的・問題提起的なアプローチで知られる演出家のフランク・カストルフが退任し、後任に元テート・ギャラリーの館長クリス・デーコンが着任したことで、これまで同劇場が培ってきた演劇文化や批判精神が失われるのではという反発が起こったことにある。手塚はさらに、「無骨ながらも創造的な街だったベルリンが、ジェントリフィケーションにより変容していくことに対する怒りも背景にあったのではないか。自分のアートが商品としてどう価値づけられるかという方向にアーティストの意識が変わっていくし、そうした意識のアーティストが入ってくる。60年代のジャドソン教会派のように、『タダ(に近い)場所』があることが重要。商品価値ではなく、何が自分たちのリアリティかを模索できる場所からこそ、何かが生まれる可能性がある」と話した。
「ダンサーが手を組むこと~労働としてのダンスと、互助組織、ネットワーク」のセッションでは、ダンサー・振付家の伊藤キムが、「ダンサーや振付家の労働組合をつくる」提言を行ない、議論の中心となった。プロデューサーや有名振付家など力のある相手に対し、ダンサーが個人でギャラなどの交渉に臨むことは難しいが、組合をつくって団体で交渉すればどうかという提言だ。そのためには、ダンサーは「踊りたいから踊る人」ではなく、職業人としての自覚を持つ必要があると訴えた。会場からも活発な意見が出され、演劇批評の藤原ちからは、俳優や制作者の労働環境問題についても触れつつ、「労働の対価として認められたものだけがアートなのか。今の日本社会や行政が求めるものという枠でアートをはかれるのか。アートの自律性についても丁寧に議論していくべきだ」と述べた。また、舞踊史研究者の古後奈緒子は、フランスの大学のカリキュラムを紹介し、労働基準法や契約の結び方についても教えること、ダンス史をきちんと学ぶことで自作の歴史的位置付けについて語れるように教育がなされていることについて話した。
最後のセッション「ダンス/地域/都市/社会/世界」では、神戸のNPO DANCE BOXのディレクター横堀ふみが、多文化が混淆する町の中にある劇場としての取り組みを紹介した。また、JCDN(NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク)の佐東範一が、「踊りに行くぜ!」などのネットワーク整備や制作支援活動、震災を契機に始まった東北地方の芸能との交流をはかる「習いに行くぜ!」や三陸国際芸術祭の取り組みを紹介した。会場からの発言を交えてのディスカッションでは、公共ホールとの連携のあり方、「観客」の想定や育成、助成金頼みの体質からどう脱却するか、「コミュニティダンス」など地域で生まれるダンスのニーズなど、多岐にわたる論点が提出された。
若手、中堅、ベテランと層の厚いダンサーに加え、制作者やプロデューサーが集まって話し合い、刺激を与え合う貴重な機会だった。また、DANCE BOX(神戸)やJCDN(京都)など中間支援を行なう団体は関西に多い。こうした機会が今後も継続され、シーンの活性化につながることを願う。
2018/03/24(土)(高嶋慈)
「Sujin Memory Bank Project #02 BANK──映画『東九条』でつなぐこと──」
会期:2018/03/01~2018/04/22
柳原銀行記念資料館[京都府]
柳原銀行は、かつて日本最大規模の同和地区であった京都の崇仁地域に、地元有志によって明治32年に設立された唯一の銀行である。現在は地域の歴史、文化、生活資料を収集・展示する資料館となっている。「Sujin Memory Bank Project」は、この柳原銀行記念資料館を「記憶が貯蓄される場」と捉え、地域の歴史とともにアーカイブ/ドキュメントのあり方についても実践的に考察するプロジェクトである。将来的にこの地域への移転が決まっている京都市立芸術大学の芸術資源研究センターと同資料館が連携し、展示企画を行なっている。
2回目となる「#02 BANK──映画『東九条』でつなぐこと──」では、資料館所蔵の映画『東九条』の上映展示が行なわれた。1969年に公開されたこの映画は、差別や貧困といった当時の東九条の厳しい現実の告発を目的として自主制作された(崇仁地域に近い東九条は、在日コリアンが多く住む地域だが、映画の主な撮影地はその一部、南北が八条通りと十条通りの間、東西が河原町通りと鴨川の間の地域である)。監督と脚本は、現在、同資料館事務局長である山内政夫が務めた。撮影に用いられた手持ちの8mmカメラやフィルムなど関係資料も合わせて展示された。
川沿いに密集した木造家屋や、川べりをぶらつく子供たちがモノクロの粗い画面に映し出される。だがそこに「音」はない。約50年の時の間に、当時あったはずの音声トラックが失われてしまったのだ。ナレーションやBGMによる意味づけや演出を欠いた映画は、「告発のドキュメンタリー」としての役割を失い、断片的なシーンが淡々と連なる映像の波のような運動へと変質していく。リヤカーを引いて廃品回収に従事する人々や、狭く曲がりくねったぬかるみの路地を奥へ奥へと進む男の背中をカメラは追う。バス停に並ぶ通勤途中の人々。内職をする女性。公園や校庭で遊ぶ子供たち。一家の食事風景。診療所の待合室に並ぶ人々。火事の焼け跡や映画館のポスター、学生デモ。当時の何気ない日常生活の記録を私たちはそこに見出すことになる。それは、映画のスチルと、同じ撮影場所の「現在の風景」を撮った写真を並置した展示が示すように、50年前の風景と現在との差異を比較する作業であると同時に、時の経過の中での「意味の変質」をあらゆる「資料」がこうむるものとして再確認することでもある。
2018/03/18(日)(高嶋慈)