artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
アメリカ国立公文書館の新館(Archives Ⅱ)と写真アーカイブ
アメリカ国立公文書館の新館(Archives Ⅱ)[アメリカ合衆国 メリーランド州 カレッジパーク]
写真資料の調査のため、ワシントンD.C.郊外にあるアメリカ国立公文書館(または国立公文書記録管理局/National Archives and Records Administration、略称NARA)の新館(Archives Ⅱ)を訪れた。国立公文書館は、「独立宣言書」「合衆国憲法」「権利章典」という「自由の憲章」をはじめ、奴隷売買契約書、移民記録、従軍記録、外交文書など、国家の歴史文書を保存・公開するとともに、連邦各省庁の記録管理を監督している。1934年設立の本館が手狭になったため、資料の住み分けを行ない、研究者向けの施設として新館が1994年にオープンした。新館では、第一次世界大戦以降の紙資料と、写真や映像フィルムなど特別な保管庫が必要な資料を保管する。太平洋戦争や戦後の日米関係を調査する日本の研究者の利用も多い。
新館は、2階は文書、3階は図面、4階は映像、音声、マイクロフィルム、5階は写真、6階は電子文書というように、資料媒体ごとに閲覧室が分かれている。また、アーカイブ一般の構造について補足すると、「開架式」が原則の図書館とは違って「閉架式」であり、見たい資料の入っている箱(ボックス)を特定して閲覧申請する必要がある。ボックスにはフォルダが収められ、それぞれのフォルダに何十枚、何百枚という文書や写真が収められている。また、データベースで簡単に検索できる図書館と違い、資料の量や種類の多様さのため、データベース化の整備が追い付かず、「紙の目録」に頼らざるをえない場合も多い。さらに、主題別に分類された図書館と異なり、アーカイブの分類方法(ファイリング・システム)は「出所の原則」と「原秩序尊重」に従うため、その資料を作成した組織ごとに管理され、作成者が構築した配列がそのまま維持される。従って、ファイリングの仕方が異なれば、資料の検索方法も異なり、まずはその仕組みを理解する必要がある。国立公文書館では、資料の作成・保管省庁ごとに「レコード・グループ(RG)」として1~500番余りまでの番号を割り当てている。
今回の調査の主な対象は、新館の写真閲覧室で見られる写真(950万枚以上)のうち、「RG 111-SC(米陸軍通信隊記録)」の「1941~54年」の写真アーカイブである。陸軍および陸上での活動が記録され、一部は米軍紙にも掲載されたため、報道色の強い写真も多く、撮影対象や地域は多岐にわたる。また、「RG 111-SC」は、テーマや地域別の目録が用意されておらず、カード・インデックスから見たいキーワードを探し、記載された番号の写真が収納されたボックスを閲覧申請する、という煩雑な手続きが必要になる。出納はボックス単位で行なうため、見たい写真を一本釣りすることができず、ボックスやフォルダごとにテーマや地域別に整理されているわけでもない。そのため、「写真のジャングル」とも形容される、脈絡のない膨大な写真群のなかを進みながら探すことになる。それは、海図のない航海、手探りで鉱脈を掘っていくような感覚だ。
「RG 111-SC」の写真群の対象地域は、日本やアメリカだけでなく、かつての日本の占領地域も多く、同じく敗戦国のドイツやイタリアも含む。例えば、軍のパレードや公式行事、日本軍から押収した武器や設備類、戦犯の連行といった軍の活動記録。東京裁判や普通選挙、引き揚げの様子、水害や火事の災害現場など報道写真的なものもあれば、現地での軍の救援活動、市民や子どもとの交流など宣伝色の強い写真もある。人々が談笑するパーティーや、リゾートホテルでの休暇、スキーを楽しむ様子、観光写真的な風景写真、記念写真のスナップもある。それらに混じって突如、原爆のケロイド患者や焼け野原の市街地を写した写真が出現する。その遭遇がショックを与えるのは、イメージ自体の衝撃よりも、「写されたものの軽さ/重さ」にかかわらず、全てを等価なフォーマットの下、均質化してしまう写真の暴力的な力が露出するからだ。
こうした、写真イメージのカオティックな奔流とその暴力的な作用を浴びるような「写真アーカイブの体験」は、ゲルハルト・リヒターの《アトラス》を想起させた。リヒターが60年代初期から収集し始めた膨大な写真を700枚以上のパネルに貼付して展示する《アトラス》には、プライベートな家族写真、風景写真、静物、新聞や雑誌の切り抜き、商品広告、強制収容所の写真、ポルノ写真、ドイツ赤軍事件の報道写真など、極めて多様なイメージが整然と配列されている。「フォト・ペインティング」の元ネタの写真やドローイングも含まれ、資料的価値を有するだけでなく、戦後西ドイツの社会様相の記録(とその映像イメージにおける消費)という側面も持つ。リヒターの個人史、作品資料、社会様相の反映、イメージの氾濫/記憶の抑圧といったどのレベルで《アトラス》を受容・解釈するかは見る者に委ねられており、その開かれた構造は、見る者の欲望によってその都度異なる姿を現わす。
アーカイブに収められた写真群の間には、潜在的な読み取りへと開かれたネットワークが無数に張り巡らされ、内部で胎動している。厳密なグリッド構造、矩形で分割するフレーミング、通し番号によるリニアな秩序化は、安定した秩序を脅かそうとする写真の力を防波堤のように堰き止め、写真がある「量」的限界を超えた時に帯びる暴力性をなんとか制御しようとする抑制装置である。調査資料の収集過程に付随して、写真の「量」的作用が帯びる暴力性、内容の軽重とは無関係に全てを均質化してしまう暴力的な作用、内部で蠢く無数のネットワークの潜在性、そうした諸力と拮抗する制御装置としてのアーカイブ構造について、メタレベルで考える機会だった。
参考文献:
仲本和彦『研究者のためのアメリカ国立公文書館徹底ガイド』(凱風社、2008)
佐藤洋一「集め、読み取り、伝えること 米国立公文書館から発掘した貴重写真」(『東京人』2016-9月号pp.82-85)
2018/09/17(月)(高嶋慈)
国立女性美術館(National Museum of Women in the Arts)
国立女性美術館(National Museum of Women in the Arts)[アメリカ合衆国ワシントンD.C.]
ワシントン訪問の際に訪れた国立女性美術館(National Museum of Women in the Arts)は、全米で唯一、女性アーティストの作品を専門的に収蔵する美術館である。女性の絵画コレクターによって1987年に設立され、16世紀から現代まで、約1000人の女性アーティストによる5000点以上の作品を収蔵している。特別展はあいにく準備中だったが、2つの階にまたがるコレクション・ハイライトを見ることができた。
中2階のクラシックな展示室は、16世紀から20世紀までの肖像画に焦点を当てている。聖母子など聖書や神話の登場人物/実在の王侯貴族や著名人にかかわらず、いずれも「女性画家が女性を描いた」ポートレートである点が特徴だ。時代を超えた女性画家の層の厚みを示すとともに、一見すると華やかだが、「男性像が1点もないこと」が女性画家の置かれた時代的制約を物語る(ヨーロッパやアメリカの絵画アカデミーにおいて、女性の入学は排除あるいは制限されており、絵画のヒエラルキーの最上位とされた歴史画や宗教画に従事できず、より下位とされた肖像画や静物画が主な活動領域であった)。
一方、上階の展示室では、16~19世紀と近現代の作品を組み合わせた展示構成を取り、「Body Language」「Domestic Affairs」「Herstory」「Natural Women」のテーマで多岐に渡る作品を紹介している。上述のように、活動領域を肖像画や静物画に制限された女性画家の歴史的制約を示すとともに、現代の女性作家が男性主導の表象の歴史をどう批判的に検証し、表現の主体性を取り戻そうとしていったかが示される。「Body Language」では、第二次世界大戦下で母親を殺害された個人史から出発し、手と首を欠いた人物群を麻布で造形するマグダレーナ・アバカノヴィッチの作品がまずは出迎える。性別や人種を捨象された抽象的な人体像だが、黙したまま抵抗の座り込みを続けているようにも、拷問の匿名的な犠牲者を表わしているようにも見える。
また、日常的な光景として女性ヌードを描いたシュザンヌ・ヴァラドンの絵画の隣に、ジリアン・ウェアリングの《Sleeping Mask》が配される。寝顔を象ったマスクだが、就寝時さえも(他者の眼差しによって形成される)自己表象の仮面からは逃れられない状況を暗示する。自然な様態/究極の虚構性という両面から、女性身体が「見られること」を照射する一角だ。
一方、「Herstory」では、歴史的な肖像画に加え、ジェンダーやエスニック・アイデンティティの表現を主題化した現代の作品群が並ぶ。「Natural Women」では、南米スリナム(18世紀のオランダ領ギアナ)に赴き、植物や昆虫の精緻な博物画を描いたマリア・ジビーラ・メーリアンの隣に、アン・トゥルイットのミニマルな柱状彫刻が配される。ギリシア神話の木の精の名を冠したタイトルと鮮やかなグリーンが、厳格な幾何学性と有機的な自然、工業性と人体といった二項の奇妙な融合を示す。
これらの展示室の最奥には、「もし女性が世界を支配したら」という文言をネオンサインであしらったヤエル・バルタナの《What If Women Ruled the World》が燦然と輝く。その他、メアリー・カサット、フリーダ・カーロ、ジュディ・シカゴ、リンダ・ベングリス、ルイーズ・ブルジョワといった著名作家も多数並ぶ。
男性主導の美術(史)への批判的検証は、フェミニズム思想とともに70~80年代に開始され、この美術館の設立もそうした時代状況に呼応したものと見なせる。ただ、(今回の展示作品のラインナップを見る限り)大半が欧米圏の作家で占められており、「女性」を掲げてはいるが、内部には地域的な偏差を抱えていることは否めない。アフリカン・アメリカンの作家はいるものの、「女性」という枠組みのなかにさらに細分化されたマイノリティがいることが、展示構成のネガとして浮上していた。
2018/09/16(日)(高嶋慈)
Rachel Whiteread
会期:2018/09/16~2019/01/13
National Gallery of Art, Washington[アメリカ合衆国ワシントンD.C.]
ワシントン訪問の際に、National Gallery of Artを訪れた。ターナー賞受賞経験もある現代彫刻家、レイチェル・ホワイトリードの回顧展が開催中だった。初期作品から、家具や扉、窓を型取りした彫刻の代表作品、ドローイングや写真などの平面作品、近年のサイトスペシフィックなパブリック・プロジェクトの記録までを辿る。2017年秋に始まったTate Britainを皮切りに、欧米各地を巡回している。日本ではまとまって見る機会の少ない作品群をじっくりと鑑賞できた。
導入部に展示された「トルソ」シリーズの作品が、湯たんぽを石膏や樹脂で型取りし、「トルソ」と名付けることで人体に見立てられているように、ホワイトリードの関心の出発点は、家具やインテリアなど、日常的に人の身体と接触する物体を型取りして彫刻化することで、目に見えない記憶や身体的な痕跡を示唆することにある。湯たんぽに始まり、椅子、マットレス、浴槽など、「人体との接触面」を型取りによって取り出し、内部の空洞を石膏や樹脂で物質的に充填することで、日常的にその表面に触れ、あるいはそこを埋めていた人体の存在が逆説的に浮かび上がる。「型取り」の技法を用いるため、サイズは原寸大が保たれるが、石膏や樹脂といった素材で置換されるため、再現的なディティールは削ぎ落される。内部を見通せない石膏の不透明さや鈍重さ。対照的に、薄く色づいた色彩の透明感が、非物質的な軽さへと上昇する樹脂の儚げな佇まい。澱のように凝固した不可解な量塊と、亡霊的なまでの物質感の希薄さ。それらは記憶の原型のようなものに近く、「記憶に質量はあるのか」「記憶の形象化は可能か」といった問いを触発する。
そこにはまた、「ミニマル・アートへの美術史的参照」も含まれる。例えば、古い建物の床を型取りした正方形のプレートを敷き詰めた作品はカール・アンドレを、母親の遺品を詰めた段ボール箱を型取りした立方体の作品は、ロバート・モリスを連想させる。だが、ミニマル・アートを形態的には示唆しつつ、そこに人の痕跡や気配の残存が加わることで、類型的に並べられる形態は、その類似性や反復性の向こうに、それをかつて使用していた人々の身体的、習慣的差異へと連想を誘う。そこには、男性主導のミニマル・アートへの批判的眼差しも読み取れるだろう。
近年のホワイトリードは、個人的な記憶(父親が死んだ際のマットレス、母親の遺品が詰まったボックスなど)から、よりパブリックな記憶(ホロコーストのメモリアルなど)へと展開している。それらの大掛かりでサイトスペシフィックな作品のドキュメントとともに、作家が拾ったり集めたさまざまな日用品やオブジェが小さなスケッチブックとともにガラスケースに収められ、思考の魅力的な小宇宙を形成していた。
2018/09/16(日)(高嶋慈)
前田英一『Every day is a new beginning』
会期:2018/09/05~2018/09/07
ロームシアター京都 ノースホール[京都府]
ダンサーと現代音楽家のセッションに加え、本物の物理学者が「出演」し、素粒子物理学の研究が舞台上で同時進行するという、異色の舞台公演。ダムタイプの舞台作品に出演し、パフォーマーとして活動する前田英一が初めて演出を務めた。
舞台奥には、人の背丈を超える高さの巨大な黒板が壁のように設置されている。ふらりと登場した男性(理論物理学者の橋本幸士)が、ブツブツと呟きながら、黒板にチョークで物理の数式やグラフを一心に書きつけていく。「ニュートリノ、重力波、電磁波」といった単語が辛うじて聞き取れ、「宇宙空間で起こった物理現象が地球に到達してどう影響を与えるか」についての壮大な思考実験が繰り広げられているようだ。黒板の両脇には2人の音楽家が配され、ピアノとパーカッション(ヤニック・パジェ)、アコーディオン・シンセ(ryotaro)のライブ演奏とともに、前田を含む4名のダンサーがシンクロした反復的な動作に従事し始める。思考に没頭する物理学者、厳密に振付けられた反復運動を同調させるダンサーたち、電子的に増幅された音を紡ぎ出す音楽家。舞台上には3つのレイヤーが同時進行的に共存する。
とりわけ、同じ舞台空間上に、手前のパフォーミングエリア/奥の思考空間というレイヤーの共存ないし対比をもたらすのは、ダンサーと物理学者、それぞれが従事する行為の質的差異である。直線的な手足の動き、機械的な反復性、そのユニゾンは、これらが「厳密に振付けられた動き」であること、その再現可能性を強調する。一方、巨大な黒板=普段の研究環境に向かう物理学者は、台本として決められた数式をただ反復的に再現するのではなく、今まさにライブで思考中なのであり、再現不可能な、一種の即興的なパフォーマンスに従事しているとも言える。その、目に見えない物理法則や作用についての抽象的思考の痕跡は、情報量が圧縮された数式として可視化され、上書きされては消えていく。一方、ダンサーの身体は、目に見える運動の軌跡を刻一刻と空間のなかに刻んでいく。
「重力」や「引力/斥力」といった力の作用を印象づける小道具も登場する。例えば、暗闇を照らすランプを挟んで相対する2人のダンサーのシンクロした動きは、輝く恒星の周囲を旋回する2つの惑星を思わせる。脚立の上から落とされるボールは、無数の放物線を描いて飛び回る。終盤、湧き上がる雲や波のようにゆっくりと動かされる黒い風船の束は、空気の抵抗や微風のそよぎを伝えるとともに、破局的な終末が訪れた後の静寂のなか、新しい胎動の始まりを告げるようでもある。ライブ演奏の熱気とともに、詩的な連想を誘うイメージが次々と繰り出される舞台だった。
ダンスと物理学という一見異色に思える取り合わせは、小道具を効かせた演出もあり、ダンスが地上の物理法則に抗えないこと、制約のなかにあるからこその自由を浮かび上がらせる。また、単に演出上の目新しさを狙うだけにとどまらず、「振付と即興」をめぐるより根源的な問いへと向かう可能性を秘めているのではないか。本作品は、ダンスにおけるこの問いの追求という点では物足りなさを感じたが、「研究が創造的行為であること」をまさに俎上に上げたという点では成功していた。
2018/09/07(金)(高嶋慈)
プレビュー:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018
会期:2018/10/06~2018/10/28
ロームシアター京都、京都芸術センター、京都芸術劇場 春秋座、京都府立府民ホール “アルティ”、元離宮二条城ほか[京都府]
9回目を迎えるKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭(以下「KEX」)。公式プログラムでは、12組のアーティストによる計15の公演や展示が行なわれる。
今年のKEXの大きな特徴は、「女性アーティストあるいは女性性をアイデンティティの核とするアーティスト/グループ」で構成されることだ。プログラムディレクターの橋本裕介によれば、「性およびジェンダーが文化的であるだけでなく、いかに政治的なものであるかへの問い」、さらに集団芸術としての舞台芸術と父権主義的な統率システムとの関係をめぐる問いが根底にあるという。加えて、「#MeToo」のムーブメントや性的マイノリティの権利擁護といった世界的動向、女性差別の事例が後をたたない国内状況への批判的視線も想起させ、極めてタイムリーかつ意義深いテーマ設定だ。
ただし、「女性アーティスト」という括りや「女性性」の強調は、一方で、男性/女性というジェンダーの本質論的な二分法の強化や再生産に結び付いてしまう可能性がある。そうではなく、「女性(性)」をめぐる考察を経由した先に、(ジェンダーに限らず)あらゆる本質論的なカテゴリーの無効化を見通せるかどうかが賭けられている。以下では、上演作品どうしの横の繋がりとして、筆者なりの視点から、いくつかポイントを抽出してみたい。
1)女性が(消費される客体としてではなく)「性」について主体的に語り、表現すること。ヘテロセクシャルな男性主体による社会通念や支配的規範からの脱却。
2011 年にフェスティバル/トーキョーとアイホール(兵庫)で『油圧ヴァイブレーター』を上演し、重機との妄想的な性愛をパフォーマンスに昇華させた作品で衝撃を与えた韓国のジョン・グムヒョンは、医療の教育現場で男性患者のダミー身体として使われる人形と「共演」する『リハビリ トレーニング』を上演する。無機的な人工物と生命、主体と客体の境界が曖昧に流動化していくなか、「モノ」としての身体に投影される欲望や反転した自己愛が剥き出しとなり、震撼させる作品になるだろう。
また、3度目の登場となるドイツの女性パフォーマンス集団She She Popは、老若男女の出演者と共演。自らの身体を「教材」とし、教師と生徒役を入れ替えながら「性教育の教室」を演じる『フィフティ・グレード・オブ・シェイム』を上演する。
1975年の設立以来NYのアートシーンを牽引する劇団、ウースターグループは、1971年の女性の解放に関する激しいディベートを記録した映画に基づき、『タウンホール事件』を上演する。
気鋭の劇作家・演出家・小説家の市原佐都子/Qは、『毛美子不毛話』『妖精の問題』の代表作二本立てを上演する。時に観客の生理的嫌悪をかきたてるほど、動物的な欲望や性のメタファーを女性の視点から生々しく描写する作風が特徴だ。
2)記憶の継承と他者への分有。フィクションとドキュメンタリーの交差によって可能となる語りを、舞台の一回性の経験として生起させること。山城知佳子、ロラ・アリアスに加えて、上述のウースターグループは1)と2)を繋ぐ存在と言える。
出身地の沖縄を主題に、パフォーマンス、写真、映像作品を制作する山城知佳子は、あいちトリエンナーレ2016で発表され、反響を呼んだ《土の人》を展示。また、同作から展開されるパフォーマンス作品を発表する。沖縄戦の記録フィルムにヒューマンビートボックスによる銃撃音がかぶさるシーンや、満開の百合畑で天に差し出された無数の手が拍手のリズムを奏でるラストシーンが、生身のパフォーマーにより演じられるという。映像から飛び出し、生の舞台空間へと展開する山城の新たな挑戦に注目したい。
また、2度目の登場となるロラ・アリアスは、現実とフィクションを交錯させ、ドキュメンタリー演劇の分野で活動している。上演予定の『MINEFIELD―記憶の地雷原』は、1982年、イギリスとアルゼンチンの間で勃発したフォークランド紛争/マルビナス戦争に従軍した元兵士たちが、映画セットを模した空間で、当時の記憶を再訪するという作品だ。
3)「ダンス」の領域の新たな開拓。
KEX 2014で『TWERK』を上演し、クラブカルチャーとクラシックバレエ、猥雑さと技術的洗練のめくるめく混淆を強烈な音響とともに刻み付けたセシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー。上演予定の『DUB LOVE』では、ダブ・プレートDJと共演し、強力な音響機構が刻むビートと拮抗する身体を提示する。
ダンサー、振付家の手塚夏子は、ダンス作品をアーカイブ化し、未来と他者へと手渡す「ダンスアーカイブボックス」に参加。手塚から「漂流する小瓶」としてのインストラクションを受け取って上演したスリランカのヴェヌーリ・ペレラ、韓国のソ・ヨンランとともにユニット「Floating Bottle」を結成し、KEXに参加する。ダンスのアーカイブ、再演と解釈といった問題に加え、西洋近代化がもたらしたさまざまな「線引き」への再考も視野に含むという。
また、ヴェネツィア・ビエンナーレ2018舞踊部門での銀獅子賞受賞など、世界的な注目を集めるマレーネ・モンテイロ・フレイタスは、ギリシア悲劇『バッコスの信女』をモチーフとしたダンス作品を上演する。
2度目の登場となるジゼル・ヴィエンヌは、暴力やドラッグをテーマとする作家デニス・クーパーによるサブテキストを、一言も言葉を発しないまま、15人のダンサーによるムーブメントに置き換えた『CROWD』を上演。激しい興奮と音楽にかき立てられた若者の群れの熱狂を通して、暴力とそれへの欲望が描き出される。
4)上演が行なわれる具体的で固有の「場所」への介入や読み替え。
昨年のKEXで、光と影による繊細な表現で魅了した田中奈緒子は、二条城の二の丸御殿台所にて、空間との対話を試みる。
また、自身の身体を素材としたパフォーマティブな作品を制作するブラジルのロベルタ・リマは、インスタレーション作品の展示空間でパフォーマンスを上演。計3回のパフォーマンスの度に、展示空間は姿を変えていくという。
最後に、もちろん、ここで紹介したポイントは一つの観点にすぎないし、実際に上演を見た印象は異なる場合もあり、より豊かなものとなるだろう。多彩で刺激的なラインナップを観客それぞれの視点から見比べ、あなたなりのポイントを見つけだしてほしい。
公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2018/
2018/09/03(月)(高嶋慈)