artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
Yukawa-Nakayasu「深呼吸の再構築」
会期:2018/05/25~2018/06/10
Gallery PARC[京都府]
蚤の市で購入した日用品、ファウンド・オブジェ、石や植物の種、貝殻や羽根といった自然の素材などをブリコラージュ的に組み合わせ、民間信仰の祭礼や呪具を思わせる繊細なオブジェをつくり出すYukawa-Nakayasu。「豊かさとは何か」を問う独自の概念「豊饒史の構築」を掲げ、民間信仰や各地の風習、個人史のリサーチに基づきながら、近代的な美術の制度から捨象されてきた想念の形を審美的なオブジェとして提示してきた。
本展でも基本的姿勢は同じだが、展示形態が有機的な宇宙から整然とした秩序へと大きく変質した。オブジェ群が「ナマ」の状態で、あるいは祭礼の場を擬似的に構築するように散りばめられていた展示形態から、絵画の額縁、ガラスケース、展示パネルといった民俗博物館/美術の制度的フレームへと移行し、オブジェに境界画定や文脈づけを与える基底面のレイヤーが追加されている。
本展での展示のストーリーは、以下のように描けるだろう。まず第1室では、「火、光、熱」をキーワードに連想的に繋がるファウンド・オブジェとイメージ(写真、映像)が接合される。例えば、「野焼き」の写真が、炎の焦げ痕のついた木材のフレームに入れられ、写真の中央から伸びたパイプには焦げた布が巻き付けられて松明を思わせるが、先端で輝くのは炎ではなく人工的な電球である。溶岩や太陽の写真が「自然界の火や光」を示す一方、焦げ跡のついた布には金継ぎのような装飾が施され、破壊が新たな価値を生み出すことを示唆する。ここに、重ねられた2つの意味を読み込むことができるだろう。1)動物/人間を弁別し、文化の発生としての「火」。例えば、木材の表面を「焼く」行為が強度の増加や焦げ目の模様づけになったり、(焦げ跡に施した)金継ぎが修復と装飾という二重の役割を果たすように、昔からの技法の転用が、(架空の)民俗資料のように並べられる。2)視覚の前提条件としての「光」。「見ること」、視覚の制度化としてのフレーム(額縁、ガラスケース、パネル)への言及につながる。
そして、1)と2)が重なり合ったものとして、もう1室の展示を考えることができるだろう。ここでは、サブロクという規格化されたサイズの4枚のベニヤ板の上に、拾遺物に手を加えたさまざまなオブジェや写真が貼り付けられ、それぞれのパネルが「恋愛成就の迷信」、「火」、「水」、「貨幣と地図」というグループ群を形成していることが分かる。「キャプションのない民俗博物館」の様相だ。
民間信仰(の擬態)により、目に見えない精神的価値や想念を美的に再構築してきた「豊饒史」は、文化史的フレーム/美術の制度的フレームを自己言及的に内在させ、より拡がりをもって展開しつつある。
関連レビュー
湯川洋康・中安恵一「豊饒史のための考察 2016」|高嶋慈:artscapeレビュー
2018/05/26(土)(高嶋慈)
Seung Woo Back「Volatile Judgement」
会期:2018/05/24~2018/07/15
アンダースロー[京都府]
ともに京都を拠点とする劇団「地点」と出版社「赤々舎」が共同企画する「About the photographs, About us, Asia」は、東アジア出身の写真家を紹介する連続個展のシリーズである。李岳凌(リー・ユエリン、台湾)、石川竜一(日本)に続き、第3弾としてSeung Woo Back(ベク・スンウ、韓国)の個展が開催された。普段は地点の稽古場兼劇場であるアンダースローが、約4ヶ月間、写真をめぐる思索的空間へと変貌した。
本展では、「Blow Up」と「Utopia」の2つのシリーズの再構成に新作が加えられている。いずれも「北朝鮮」を主題としているが、その根底にあるのは、イメージの生産と受容、視線と欲望、表象の政治学をめぐる写真的考察だ。「Blow Up」(「引き伸ばし」の意)のシリーズは、2001年に平壌を訪れたベク・スンウが制約のなかで撮影し、検閲によってネガフィルムの一部が切り取られた写真を数年後に見返した際、撮影時には気づかなかった要素を事後的に見出し、拡大して作品化したものである。それは、検閲を潜り抜け、「問題なし」と判断された写真のなかに、検閲官も撮影した作家自身も見落としていた細部を見出し、「不穏な裂け目」として押し広げ、安住しない「写真の意味」ひいては写真を見る眼差しそのものを繰り返し再審に付す作業である(例えば、対外向けの演奏を行なう子供たちが弾くキーボードには「YAMAHA」の商標が記され、「資本主義国の製品」であることを暗に示している)。また、頻出するのが、1)政治的指導者のポートレイトや彫像、2)そうした体制や社会主義理念を体現する表象を眼差す人々の後ろ姿、3)フレーム外の何かへ視線を向けている人々、4)窓ガラス越しに写された人々である。とりわけ3)では、彼らが見つめていたはずの、視線の先にあるものがフレーム外へと放擲されることで、視線の宛先を欠いたまま、「何かを見る行為」だけが抽出して提示される。4)では、窓の矩形が眼差しのフレームを示唆するとともに、被写体との間を隔てる「透明なガラス」が社会的、心理的な距離感や分断を強調する。しばしば登場する曇りガラスが「監視」を暗示する一方、そこでは写真を撮る/見る私たち自身の窃視的な欲望こそが常に送り返されて突きつけられる。
一方、「Utopia」のシリーズは、雑誌などオフィシャルな印刷物に掲載された社会主義建築の写真を引用し、加工を施している。威圧的で官僚的な建築物は、その一部がコピーされて繋ぎ合わされ、形態的に反復されることで、現実にはあり得ない畸形化したイメージへと変貌する。国家権力が見せたい「ユートピア」像を肥大化させることで、その非現実性が浮かび上がる。
また、展示形態も興味深い。展示空間の中央には、サイズの異なる29個のボックスを組み合わせた構造体が置かれ、それぞれのボックスには壁に展示されていない写真が格納され、観客は自由に引き出して見ることができる。これらのボックスは自在に組み合わせることが可能であり、単に作品輸送のためという機能性を超えて、「移動」や「再構築」といった概念を提示する。イメージを固定化し、再生産に寄与する写真というメディアそれ自体を用いて、視線の解体と問い直しを行なうベク・スンウの作品のあり方を体現する装置だと言えるだろう。
特設サイト:https://www.chiten-akaaka.com
2018/05/26(土)(高嶋慈)
余越保子サウンド・インスタレーション「首くくり栲象と黒沢美香 ふたりの声とことば」
会期:2018/05/19~2018/05/20
ArtTheater dB KOBE[兵庫県]
自宅の「庭劇場」で首を吊るパフォーマンスを、日々の行為として約20年間にわたり継続した首くくり栲象。「日本のコンテンポラリーダンス界のゴッドマザー」とも称され、「ダンス」へのラディカルな問いで80年代から日本のダンスを牽引してきた黒沢美香。2016年12月に亡くなった黒沢と、今年3月に亡くなった首くくり栲象という二人の遺した声が、映像とともにサウンド・インスタレーションとして発表された。監督、撮影、編集を担当したのは、ダンサーで振付家の余越保子。映画「Hangman Takuzo」の撮影準備として行なった約1時間のインタビュー音声に、テストクリップとして撮影した「庭劇場」や自宅内の様子の映像が重ねられている。
乱雑に散らかった部屋。淡々とストレッチをする黒沢。栲象がまとった防寒着が、部屋の寒さを物語る。その空間を、全裸でゆっくりと歩行する川村浪子が横切っていく。異様な緊張感が部屋に走る。インタビューの質問を受け、首を吊るパフォーマンスを始めたきっかけや練習方法について栲象が語り始める。身体と意識、重力、傷みをめぐるその言葉は思索的だ。身体にハードな負荷をかけることで、意識が研ぎ澄まされ、「樹と一体になる」と栲象は語る。首にかけた縄を外して地上に脚を下ろした瞬間、それまで消えていた雨音が一気に聴こえ始め、紙一枚の重みさえ新鮮に感じられるという。それは、擬似的な「死」を潜り抜けることで逆に「生」をその都度生き直す儀式であり、「5時間前から庭劇場のパフォーマンスの体勢に入る」という栲象は、「毎日、首吊りをするために生きる」という逆説的な生を生きることになる。
とりわけ本作のハイライトとして感じられたのは、「ダンスとは何か」という質問に答える黒沢の言葉に、まさに首吊り中の栲象の映像が重なるシークエンスだろう。「ダンスは変身するためのドア、道であり、変身が起こらないとダンスが立たない」「意識や自我が後ろに退き、身体が前面に出る、それがダンスの始まり」と語る黒沢の声が流れるなか、樹からぶら下がる栲象はゆっくりと回転しながら両手をたゆたうように動かし、穏やかな笑みすら浮かべているように見える。日常と表現が結びついた二人の遺した声が凝縮された、密度の濃い一時間だった。
2018/05/20(日)(高嶋慈)
ゴットを、信じる方法。
会期:2018/05/19~2018/06/03
ARTZONE[京都府]
メディア・アートと技術的更新、ネット感覚に対する世代間の差異、「オリジナル」の物理的復元/(再)解釈行為の振幅で揺れる「再制作」、キュレーションにおける作家性の代行など、多岐にわたる問題を含むプロブレマティックな企画。アーティスト・ユニット、エキソニモが制作したメディア・アート作品《ゴットは、存在する。》(2009-、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]「オープン・スペース2009」展)を、約10年後に、「ゴットを信じる会」という匿名的集団が再制作し、「ゴット」の存在の検証を試みるというのが本展の枠組みである。
展示構成は、3つのパートから成る。1)導入部として、展覧会開催までのプロセスの紹介。NY在住のエキソニモに代わり、京都造形芸術大学の学生によって結成された「ゴットを信じる会」が再制作を行ない、かつ旧作を当時のまま再現するのではなく、約10年間のメディア環境の変化を踏まえて再制作することに決まった経緯などが示される。2)《ゴットは、存在する。》の展示記録や関係者の証言を集めたアーカイブ空間。作品の発表当時、10代前半だった「ゴットを信じる会」メンバーは同作を実見しておらず、再制作にあたり、展示記録や関係者へのインタビューを収集した。同作の展示に関わった2人の学芸員(ICCの畠中実、「世界制作の方法」展[2011]を企画した国立国際美術館の中井康之)と、2人のメディア・アーティスト(渡邉朋也、谷口暁彦)の話からは、ニコニコ動画やTwitter、セカンド・ライフのアバターなど、当時の新しいインターネット感覚に対してエキソニモが敏感に反応して作品化したことが分かる。
ここで作品概要を確認すれば、《ゴットは、存在する。》は、作家によれば「標準的なインターフェイスやデバイス、インターネットのなかに潜む神秘性をあぶり出すことをテーマにした一連のシリーズ」とされており、例えば《祈》は、掌を合わせて祈る形のように光学マウスを重ねることで、ディスプレイのなかのカーソルが微振動を続ける状況を作り出す作品である。《gotexists.com》では、「神」というキーワードでウェブ検索し、検索結果のサイト上に表示された「神」の文字が全て「ゴット」に置換され、《噂》では、同様にTwitter上で「神」の検索結果が「ゴット」に置き換えられたタイムラインが続々と表示されていく(「神奈川県」は「ゴット奈川県」に、「神動画」は「ゴット動画」になるといった具合である)。いずれも、デバイスやシステムのバグやエラーのような状況を装いつつ、人間の操作が介在しないまま、ある種の超自然的な力が顕現したり、「ゴットの存在する世界」がネット空間のなかで自律的に立ち上がる感覚を可視化している。
では、今回の第三者による再制作は、どのようなものなのか。3)再制作の展示パートでは、縦位置の液晶ディスプレイが2枚、対面して置かれ、片側ではGoogleリキャプチャの画像認証の画面が表示されている(グリッド状に表示されたさまざまな画像から、「ゴットの画像」を全て選択するよう要請される)。この画像認証は、迷惑メールの自動送信を防ぐため、送信者がロボットでないかを確認するために用いられるものだ。そして、もう一方のディスプレイでは、「私は、ゴットではない。」という一文が入力/消去を繰り返している。
観客が身体的に触れられない仮想空間内に超越的に「存在」する、一種の霊性を帯びた「ゴット」の出現から、「ゴット」の存在を決定するのは「観客」側の認識の問題であるとする態度表明へ。エキソニモ作品と再制作の間に横たわるのは、こうした転回ないし断絶である。そしてここには、スマホやiPadなど端末の小型化、ネットの常時接続、タッチパネル操作など、マウスやキーボード、カーソルといったインターフェイスを無くして画像と直接接触しているような身体感覚の変化や、「リアル/バーチャル」の二項対立の解消がある。メディア・アートの最良の作品が、単なる技術的反映にとどまらず、技術それ自体への批評を含むとすれば、メディア環境の変化およびそれがもたらす身体感覚を加味して「オリジナル」を大幅に書き換えたこの再制作は、チャレンジングな試みとして、一定の評価に値するだろう。
だが同時に、ここには致命的な欠陥がある。カーソルからタッチパネルへという、画像と地続きに接続された身体感覚を扱うのならば、なぜ液晶ディスプレイではなく、観客が「実際に触れられる」スマホやiPadを使わなかったのか。機材的制約もあったかもしれないが、再制作のコンセプトを、展示形態が裏切ってしまう。さらに、縦位置で展示された液晶ディスプレイは、「窓」の比喩としての絵画を強く想起させる。私の身体はここにありながら、どこか別世界の光景を切り開いて見せてくれる窓=絵画、だがそれはフレームという装置によって境界画定され、私の身体は窓=絵画の開く「向こう側の世界」に触れることはできない―こうした「窓=絵画=液晶ディスプレイ」におけるジレンマは、一度否定された「ゴット」に再び不可侵性と礼拝性を付与してしまうのではないか。
2018/05/19(土)(高嶋慈)
Re/place
会期:2018/05/19~2018/05/20
京都市立芸術大学 芸大ギャラリー[京都府]
京都大学吉田キャンパスの石垣に立て掛けられた「立て看板」(通称タテカン)に対し、大学側が規制を強め、5月13日に撤去されたことが議論の波紋を呼んでいる。立て看板は学生運動が盛んだった1960年代から設置され始め、政治的な主張のアピールのほか、サークルや学生寮の勧誘、演奏会やイベントの告知など、学生がさまざまな声を発信する媒体として根付いていた。しかし、京都市は2017年、屋外広告物を規制する景観条例に反するとして、大学に文書で指導。これを受けて大学側は、承認を受けた団体しか学内の指定場所に立て看板を設置できないとする規定を作成し、今年5月から運用を始め、規定に従わない看板を撤去した。抗議する学生らと大学側の攻防はその後も続いている。
この京都大学による立て看板撤去に対し、京都市立芸術大学の学生有志が美術の側から反応し、学内ギャラリーで「Re/place」展を開催した。それぞれの部やサークル、看板の制作者から立て看板を借り受け、ギャラリー内に展示した。展示された立て看板は、新入部員の勧誘やイベント告知など従来の役割に加え、「立て看板撤去」に対する抗議も多数含まれている。
ここで、展覧会タイトルの「Replace」(置き換える)は示唆的だ。それは、京都大学から京都市立芸術大学へという物理的な場所の移動に加え、路上からギャラリー空間へというコンテクストの置き換えも二重に内包する。視覚的制度であるホワイトキューブへの移動、とりわけ路上空間では存在しなかった「キャプション」がそれぞれの立て看板に付されていたことの意味は大きい。タイトル、制作者、素材を明記する「キャプション」の付記により、元々発信するメッセージに加え、「これらは表現物である(表現物としてここにある)」というメタメッセージが差し出されるからだ。
表現物への規制に対し、「アーティスト」ならば、どう規制の網の目を潜り抜け、制度の虚をつき、表現として成立させるかが問われる。この点で興味深く、展示のなかで異彩を放っていたのが、撤去後の石垣の写真に「透明な立て看板」とキャプションを付けた1点である。これは、2方向へ向けた想像力の回復の試みとして読まれるべきだろう。ここに「透明な立て看板」を立てる抵抗の意思が確固として存在すること。そして、一見「何もない場所」には、目に見えない規制と排除の力が支配的に充満しており、その力が透明化し常態化していることへの警鐘である。 本展は、「立て看板撤去」という(現実にはたらいた)移動の暴力性を一方では想起させつつ、大学側の「管理体制の強化」や表現の規制に対する異議申し立てとして、芸大生が美術の側から声を上げたことの意義は大きい。
2018/05/19(土)(高嶋慈)