artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー『DUB LOVE』

会期:2018/10/18~2018/10/20

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

KYOTO EXPERIMENT 2014で上演された『TWERK』では、クラブカルチャーとクラシックバレエ、猥雑さと技術的洗練のめくるめく混淆を強烈な音響とともに刻み付けたセシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー。強靭な身体性と鍛え上げられたテクニックをベースに、サーカス的なアクロバティックな運動やショー・ダンス的な要素、クラブでの踊りを振付言語として取り入れ、またドラァグクイーンのメイクを参照することで、「バレエ」及び「ジェンダー」という制度やその境界を撹乱し、ダンスが超人的な身体能力や「性」を商品として見せる側面を軽やかに批評した。

今回、KYOTO EXPERIMENT 2018で上演された『DUB LOVE』で戦略的に用いられたのは、「トウシューズ」という装置である。冒頭、暗がりから現われた姿を見て、初め「女性ダンサー」であると思ったのは、「彼」がトウシューズを着用し、爪先立ち(ポワント)で近づいてきたからだ。本作では、女性のセシリア・ベンゴレアのみならず、フランソワ・シェニョーともう一人の肌の黒い男性ダンサーの全員がトウシューズを履き、それがもたらす身体運動の拡張性/拘束性と徹底して戯れる。とりわけ開幕早々、膝を曲げて両足を開いた「M字開脚」の姿勢を保ったまま、ポワントで立ち続けるシェニョーの芸(?)は圧巻だ。数分間、いやもっと続いただろうか。バランスを取るように水平に伸ばした両腕を動かしたりするが、下半身は微動だにせず、強靭な筋力に支えられていることが分かる。このポワントの「M字開脚」に加え、同じくポワントでの高速回転や、曲げた膝に手を置き前屈みで歩行する、といった動作が各ダンサーによって何度も繰り返される。それは、床から数十センチ浮き上がり、地上の肉体を縛る重力の軛から束の間解放された喜びの旋回のようでもあり、じっと何かの重みに耐えながら困難な歩行を続けようとする不屈の意志のようでもある。クラシックバレエの優美さとその畸形性、そして「トウシューズ」の逸脱的な使用法による身体運動の拡張性が同時に見せつけられる。



セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー『DUB LOVE』2018 ロームシアター京都
[撮影:松見拓也 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

さらに、ここでの「トウシューズ」は、ドラァグクイーンがパフォーマンスで着用する「ハイヒール」の代替物でもあると言えるだろう。通常のクラシックバレエでは主に女性ダンサーが着用するトウシューズは、ジェンダーと強固に結びついた装置である(男性役/女性役を明確に分け、儚い妖精や悲劇のヒロインとして「女性」を描く一方、彼女の軽やかな飛翔を力強く支える「男性」を必要とするバレエの構造自体、ジェンダーの再生産装置でもある)。ベンゴレアとシェニョーはそれを逆手に取り、拘束具であると同時にジェンダーの境界を侵犯する装置としてトウシューズの着用を戦略的に選択する。もちろん、これは舞台公演である以上、彼らは観客の(好奇の)眼差しに晒されている(『TWERK』と同様、派手なアイメイクを施し、腕に付けたスパンコールを妖しく煌めかせるシェニョーの姿は、シンプルなレオタード姿ながらもドラァグクイーンを想起させる)。従って、舞台の片側の壁全面に貼られた鏡は、「バレエのレッスン場」を模すると同時に、ここが「眼差しの支配する場」であることを示唆してもいる。だが、ポワントの姿勢で手を取り合って支え合い、バランスを崩しそうになりながらも覚束ない歩みを進める3人は、ぎこちなくも三美神のダンスを思わせ、固い連帯の内に祝福し合っているように見える。それは、クィア、女性、有色人種という、「白人男性」の支配的カテゴリーから疎外され周縁化された者たちによる、困難な歩みと連帯の意志として映った。



セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー『DUB LOVE』2018 ロームシアター京都
[撮影:松見拓也 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

そして、彼らの力強いダンス、「バレエ」や「ジェンダー」の制度を越境しようとする歩みを音響的に支えるのが、レゲエの音響加工技術である「Dub」とダブプレートDJによるライブパフォーマンスである。舞台奥には高さ約3mのスピーカーが壁のように組まれ、陽気でまったりとしたメロディと重低音のビートが鼓動のように流れ出す。終盤、ダンサー達が去った無人の空間を、ひと際大きく増幅された重低音のビートが包み込む。身体中の骨や関節にまで響いて感じられるそれは、ダンサーが発したバイブレーションの名残りのように私の身体に共鳴し、包み込んだ。


公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2018

2018/10/18(木)(高嶋慈)

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山城知佳子『あなたをくぐり抜けて』

会期:2018/10/12~2018/10/13

京都芸術センター[京都府]

あいちトリエンナーレ2016で発表され、反響を呼んだ映像作品《土の人》の展示とともに、同作から展開されたパフォーマンス作品をKYOTO EXPERIMENT 2018にて発表した山城知佳子。映像で構築した世界をどうパフォーマンスとして表現し、「いま・ここ」の観客の生身の身体に反響させることができるか。それは、「沖縄戦の記憶の継承」という山城の過去作品に通底するテーマとも繋がっている。起点として、サイパン戦の生存者の証言を山城が自身の声と身体でなぞった《あなたの声は私の喉を通った》(2009)があるが、本作では、ヒューマンビートボックス・アーティスト、ラッパー、DJ、そしてエキストラのパフォーマーたちとの協同作業を通して、「記憶の継承と他者への分有」の営みが、山城自身からさらに若い世代へと受け渡され、提示された。

天幕のように頭上を覆うスクリーンの下、観客は床に座って鑑賞する。正面右側にはリビングルームのようにテレビとソファが置かれている。出演者の男性3人が登場し、テレビをつけると、安倍首相とトランプ米大統領の会見が流れる。日米同盟、安全保障の重要性を述べる安倍首相。スクリーンには東京と思しき夜の市街地を俯瞰で捉えた映像が流れ、不穏なサイレンが鳴り響く。平凡な日常の光景と、場違いなサイレンの不協和音。それは、かつて鳴り響いた「空襲警報」の残響なのか、起こり得る未来の予兆なのか。時空の混淆は既に始まっている。観客はそのただなかに、身体ごと投げ込まれる。



山城知佳子『あなたをくぐり抜けて―海底でなびく 土底でひびく あなたのカラダを くぐり抜けて―』2018 京都芸術センター
[撮影:前谷開 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

スクリーンは沖縄戦の記録映像に切り替わり、頭上を閃光が飛び交い、砲弾が炸裂する。初めはサイレントだった映像に、記憶が蘇るように「音」が付いて流れ出すとき、見ている私たちもまた、誰かの網膜に映った記憶を追体験しているような錯覚に陥る。「ヒューン」という砲弾の飛来音、激しい炸裂音、「ドドドドドッ」という機銃掃射の音。だがそれらの「音」は、ヒューマンビートボックス・アーティストのSh0hにより、眼前で奏でられているのだ。フィルムから失われた「音」(それは、沖縄戦体験者の耳奥にこびりついていたであろう音だ)が、「いま・ここ」でヒューマンビートボックス・アーティストの身体を通して再び鳴り響く。やがて砲撃音は止み、彼が奏でる小鳥のさえずりが「戦争の終結」を暗示する。だが、それが建設機械の作業音のような音に変わるとき、基地の建設という「復興」、さらには(日本政府が押し進める)辺野古の埋め立てという「未来」も予感させる。また、(《土の人》の展開と同様に)ヒューマンビートボックスによる爆撃音が、爆音のクラブミュージックへと変わるとき、戦争とポップカルチャー、軍事的支配と娯楽という「アメリカ」の二面性が音響的に示される。

このように前半は、映像と音響のライブパフォーマンスとの相乗効果により、沖縄の過去・現在・未来が交錯した多重的な時空間が差し出される。そして時空の混濁は、死者を召喚させるだろう。深く息を吐くような音とともにゆっくりと現れる、俯き加減で顔のよく見えない、白衣の者たち。彼らはくずおれるように傾斜を転がり落ち、座る観客どうしの間に身体を割り込ませて侵入してくる。スクリーンには深い森や揺れる草、銃を構える米兵、飛び交う閃光や砲撃が映る。大地と溶け合ったように身を横たえる彼らが、夢のなかで繰り返し見ている記憶なのだろうか。やがて彼らは一人、また一人と立ち上がり、低い呟きを口々に発しながら歩き始める。殺さないでという嘆願、母と姉の背中を追いかけてジャングルを必死に逃げたこと。ひと際大きな声が、力強いラップのリズムを刻んでいく。沖縄出身のラッパー、Tokiiiが、戦争を二度と起こしたくないという思いと平和で美しい島への希求をストレートに歌い上げる。戦争から「80年」、「90年」、「100年」が経った未来から彼は語りかける。時間はどんどん前へ進み、やがて彼の声は不気味に歪み、切り刻まれた断片のエコーとなって亡霊的に宙を漂う。スクリーンには、《コロスの唄》(2010)、《沈む声、紅い息》(2010)、《肉屋の女》(2012)、《土の人》など山城の過去作品の断片が流れ、ライブの手持ちカメラで捉えられた客席の映像も差し挟まれる。

終盤では一転して、スクリーンに映った百合の花に祈りを捧げるように、パフォーマーたちが両手を天に差し出し、クラッピングの力強いリズムを刻んでいく。《土の人》の圧巻のラストシーンが、ライブパフォーマンスで再現された。それは死者との交歓のようにも、生命の力強さを寿いでいるようにも見える。最後は山城自身も観客もクラッピングに参加し、力強いリズムが会場を満たした。



山城知佳子『あなたをくぐり抜けて―海底でなびく 土底でひびく あなたのカラダを くぐり抜けて―』2018 京都芸術センター
[撮影:前谷開 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]



山城知佳子『あなたをくぐり抜けて―海底でなびく 土底でひびく あなたのカラダを くぐり抜けて―』2018 京都芸術センター
[撮影:前谷開 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

本作の元となった《土の人》でも「声」と「言葉」は重要な要素だが、本作の制作過程において山城は、ラッパーのTokiiiや40名以上のエキストラのパフォーマーたちに、沖縄戦の体験者の言葉を読んでもらい、それぞれが一人称に置き換えて捉え直す作業をしてもらったという。多数の「あなた」の身体をくぐり抜けた声を聞く観客もまた、いささかの居心地悪さの感覚とともに身体的に巻き込まれざるをえない(這うように身体をねじ込ませてくるパフォーマーとの接触、映像を客観的に「見ている」自分たちがライブカメラで映し出され、「見られている」という反転)。映像と音響と生身のパフォーマンスが身体感覚を揺さぶり、ドキュメントや証言と想像力の交差により、「過去・現在・未来」が多重的に重なり合う時空間のなか、他者の記憶の共有・継承への可能性が、舞台の一回性の経験として迫る作品だった。


公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2018/

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2018/10/13(土)(高嶋慈)

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KYOTO EXPERIMENT 2018 ジョン・グムヒョン『リハビリ トレーニング』

会期:2018/10/06~2018/10/08

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

2011 年にフェスティバル/トーキョーとアイホール(兵庫)で上演された『油圧ヴァイブレーター』の衝撃が忘れられない韓国のパフォーマンス・アーティスト、ジョン・グムヒョン。『油圧ヴァイブレーター』では、異性(男性)との恋愛に代わり、重機(掘削機)との性愛のファンタジーを実現すべく、難関の免許試験を突破し、重機と交わるエクスタシーに至るまでの過程がレクチャーパフォーマンスの形式で提示された。フェティッシュの対象としては成立しにくい(と思われる)機械や道具をあえて性化された対象として選び、自らが「操作」することで性的快楽を得る回路の提示は、フェティシズムの罠も異性愛の前提へと再回収される危険性も巧妙に回避した、知的な批評性に満ちている。ただ、『油圧ヴァイブレーター』の致命的な欠点は、快楽を得るために自ら重機を「操作」することの重要性を説き、そのために免許を取る過程が映像で紹介されるも、クライマックスのシーンで大地に身を横たえたジョンにエクスタシーを与える重機には、(実際には彼女自身ではない)別の第三者が乗り込んで操縦している、という構造的な矛盾点である。



ジョン・グムヒョン『リハビリ・トレーニング』2018 ロームシアター京都
[撮影:前谷開] 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

本作『リハビリ トレーニング』では、この矛盾を解消すべく、医療の教育現場で男性患者のダミー身体として使われる人形が「相手」に選ばれている。長椅子に横たえられた「彼」の動かない身体を、ゆっくりと腕を持ち上げては下ろし、足首を回し、脚を上下させ、関節をほぐしながら全身に丹念なリハビリを施していくジョン。トレーニングは次に歩行訓練へと移り、さまざまなサポーターやベルトで手足の関節や腰を固定された「彼」は、歩行器から身体を吊られ、対面するジョンに手を引かれ、ぎこちなくも一歩、また一歩と踏み出す。観客はこうしたリハビリの光景を、キャスター付きの回転椅子に座り、自由に移動しながら「観察」することができる。歩行訓練は数十分も続いただろうか、次にジョンは「彼」の腕にサポート器具を取り付け、ボールなどを「掴む」機能回復訓練を施す。前半はこのように、「人形」である「彼」が「リハビリ」によって、人間の標準的な身体能力を獲得していく過程がじっくりと時間をかけて「実演」されていく。

「訓練」の中身が過激化するのは、後半からだ。腕や指の機能を「獲得」した「彼」は、より複雑な行為として、「ジッパーを下ろす」「ボタンを外す」「リボンの結び目を解く」訓練をさせられる。だがそれらが練習用のダミーから、実際にジョンが着用する衣服へと移行するとき、「彼」は人間の身体機能のダミーから「性的パートナー」へと変貌する。この(演劇的な)変貌を支えるのが、「彼」が一つの行為をし終えるたびに情熱的に見つめるジョンの眼差しだ。ジョンを「脱衣」させた「彼」は、口にはめ込まれた「舌」で愛撫し、さまざまに体位を変えてジョンと激しく愛を交わす。もちろん操っているのは彼女自身なのだが、受動/能動、主体/客体の境界は曖昧に撹乱されていく。ジョンに「する」「彼」は彼女自身(が演じるところ)の欲望の延長であり、その一挙手一投足は彼女によって完全にコントロールされているのだ。また、サポーターやベルトで全身を固定された「彼」の姿は、リハビリの実演であるとともに、ボンデージの拘束具をも想起させる。介護やケアに見えたものが、いつしか性的な調教へと転じる静かな狂気が、照明や音響の演出を一切欠いたまま、ただ淡々と見せつけられる。



ジョン・グムヒョン『リハビリ・トレーニング』2018 ロームシアター京都
[撮影:前谷開] 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局


一般的な「人形劇」の場合、「人形」は「人形遣い」の身体からは自律した存在として振る舞い、観客もそのように見なすことでフィクションの世界が成立する。一方、『リハビリ トレーニング』では、「彼」との「関係性の構築」が、動かないモノから人間性への接近へ、そして(擬似的な)性的パートナーへと段階的に提示される。160分という長尺の時間は、そのために必要だったのだ。自らの欲望を投影し、思いのままに動かすことのできる「人形」を性的なパートナーと見なし、「実演」に及ぶパフォーマンスは、もし男/女が逆であれば、ピグマリオン的な欲望の発露として批判を浴びるだろう。ジョンはそうしたピグマリオン的欲望を逆手に取って裏返し、「女性が自らの性的ファンタジーを語る」ために戦略的に利用する。それはまた、女性が(消費される客体としてではなく)「性」を主体的に表現するための、長い抑圧からの回復をめざす「リハビリ トレーニング」の道程の真摯な提示でもある。


公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2018/

2018/10/08(月)(高嶋慈)

KYOTO EXPERIMENT 2018 ジゼル・ヴィエンヌ『CROWD』

会期:2018/10/06~2018/10/07

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

舞台上に敷かれた土の上にゴミが散乱し、欲望の残り香のように銀色に煌めいている。野外フェスかパーティーが終わった後を思わせる、享楽の名残りと虚無的な荒廃感が漂う空間。幕開けとともにアンビエントなテクノサウンドが大音量で流れると、フードを目深に被った女性が下手奥の暗がりから登場し、荒廃した空間を極端に引き延ばされたスローモーションで横切っていく。電子音の反復が刻む浮遊感、時間が引き延ばされたような極度のスローモーション、宗教画のような崇高感さえ漂う光と陰のコントラスト。音響、身体表現、照明の相乗効果により、異次元的な時空間へと一気に引き込まれる幕開けだ。女性はゆっくりとリュックを下ろし、缶飲料を飲み干す。日常的な動作が、意味を脱色され、神話的な荘厳さすらまとって見える。



ジゼル・ヴィエンヌ『CROWD』2018 ロームシアター京都
[撮影:松見拓也 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]


やがて同じく下手側の闇のなかから、2人、3人と、若者たちが集まり始める。すべては無言のまま、極度にスローな動きで行なわれる。嬉しそうにハグし合う者、相手の頭にビールをかけてはしゃぐ者。群れ集う彼らに背を向け、1人タバコを吸う者の頭上には、白い煙が軽やかな重圧でのしかかる。再会の喜びと出会いは、孤独を埋める相手を求める衝動へと集団的に展開していく。上着を脱いで下着姿を見せつける女性。髪をいとおしげに撫で合う恋人。恋人に肩を抱かれながら、別の男性に誘惑的な視線を送る女性。台詞は一言も発せられないものの、散りばめられた身振りと視線のベクトルが、レイヴ・パーティーで踊り狂う熱狂のなかに15名の群像的な物語を紡ぎ出す。それは、不穏さと昂ぶりが共存したビートに乗せて、次々と欲望の相手を入れ替えながら、いつ果てるともなく続く集団的な陶酔と疎外の物語だ。それぞれの欲望を、それぞれが孤独に刹那的に生きている。その提示は、さまざまな感情が身振りのパッチワークとして凝縮された中盤のシーンでひとつのクライマックスに達する。砂や水をぶっかけ合う対立に始まり、キスによる愛情表現、はねつける拒絶、煽るような怒号、牽制し合う威嚇、挑発、醒めた傍観、誘惑が渦を巻くように奔出する。やがて1人の女性を残して全員が力尽きたように倒れ込み、死のような沈黙が訪れる。取り残された女性は、相手の性別にかまわず追いすがるように愛撫するが、彼女の孤独が癒されることはない。



ジゼル・ヴィエンヌ『CROWD』2018 ロームシアター京都
[撮影:松見拓也 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

こうした『CROWD』を見ていて参照項として連想したのは、ビル・ヴィオラの映像作品と、太田省吾の「沈黙劇」だ。本作の「振付」における構造的な特徴は、ヴィオラを想起させるスローモーションに加え、一時停止、反復、早送りといった映像の技法を援用し、生身の身体表現にインストールすることで、時間感覚を自在に操作する点にある。舞台上の時間は自在に伸縮する。0.1秒以下が延々と引き伸ばされた時間。対照的に、全員が静止したまま、光と陰が移ろっていくシーンは、一日の経過、いや百年が過ぎ去ったようにも感じさせる。時間感覚の操作を駆使することにより、「熱狂を冷静に切り取り、分析し、観察する」というアンビヴァレントさがより強調される。


また、本作の基底には、暴力やドラッグをテーマとする作家デニス・クーパーによるサブテキストが用意されているものの、台詞としては一言も発声されない。それは群像的なムーブメントに置き換えられ、かつスローモーションによる動きの緻密な分析により、心理や感情の襞を繊細に構築する。この手法は太田省吾の「沈黙劇」を想起させるが、例えば、KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNでインドの演出家シャンカル・ヴェンカテーシュワランにより上演された代表作『水の駅』は、水飲み場に往来するさまざまな年齢、家族構成、社会層の人々を描くことで(ヴェンカテーシュワラン演出の場合、さらに「多民族」というレイヤーが付加される)、人生という「旅」の諸段階や社会の構成層の多様性、さらには戦争や災害、難民といった社会的出来事をも包摂するものであった。

一方、本作『CROWD』は、一見すると、均質な若者の集団(閉鎖的集団のなかの関係性)を描いているように見える(カルチャーの共有、似通った年齢層、すべて白人という人種的構成)。だが、個々をよく観察すれば、ヘテロセクシャルの男女のなかに、ゲイ、レズビアン、バイセクシャルの人物が配され、引きこもりのような風体で周囲と関わりを積極的に持とうとしない男性もまぎれている。均質性のなかに織り込まれた(性的嗜好としての)多様性、対立はあるが決定的な排除へは至らない微妙な緊張感。ここに、単に若者の集団的熱狂を高密度に再構築したダンスという一面的な見方を超えて、現代社会の縮図としての本作の意義がある。


若者たちは全員、同じ方向(下手奥)から現われ、再び同じ方向に向かって去っていく。彼らの均質性を暗示するラストシーンだが、2人の男性のみ舞台上に留まり、1人は脱ぎ散らかされた服を拾い集め、もう1人はまだ陶酔の余韻に浸っている。その様子を振り返って奥の暗がりから見つめる者がいる。上空を通り過ぎる「飛行機のジェット音」は、現実への帰還、覚醒を告げる音なのか。集団とは別の方角に歩み出す一歩は提示されないまま、すべては闇に包まれる。


ジゼル・ヴィエンヌ『CROWD』2018 ロームシアター京都
[撮影:松見拓也 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2018/


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KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN シャンカル・ヴェンカテーシュワラン/シアター ルーツ&ウィングス『水の駅』|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/10/06(土)(高嶋慈)

KOSUGI+ANDO「I WANT YOU──あなたが、欲しい」

会期:2018/10/05~2018/10/20

galerie 16[京都府]

KOSUGI+ANDOは、小杉美穂子と安藤泰彦によるコラボレーション・ユニット。1983年に活動開始し、90年代以降は、コンピュータ制御された映像や機器によるインスタレーションを通して、テクノロジーと現代社会の関わりを詩的に批評してきた。

本展では、「I WANT YOU」という、第一次世界大戦でのアメリカ陸軍の兵士募集ポスターでよく知られるこの言葉が、パロディ化されたポスターを始めとして、企業や芸能プロダクションなどの人材募集、ラブソングの歌詞など、社会の多様な局面に溢れていることに着目し、さまざまな欲望装置としてパラフレーズされていく。

展示は2つのパートから構成され、第1室では、壁に掛けられたパネルに「I want your……」に続くさまざまな単語(アナタノ ユメ、コエ、キオク、ジカン、ミライ、ナマエ、セイベツ、リレキ、アドレス、パスワード、イイネ!、シンゾウ、ランシ、ケツエキ、タマシイ、イコツ)が列挙され、あるいは「マモル」対象として、「アナタヲ、カゾクヲ、フルサトヲ、ウツクシイクニヲ」といった単語が並べられる。相手の共感や愛情の希求のみならず、時間の切り売りとしての労働、個人情報、SNS内での承認欲求、臓器提供、祭祀される戦死者を求める無数の声。パネルに取り付けられた「指差し棒」がせわしなく動き回り、物理的肉体、非物質的な情報、さらには「魂」へと還元された「アナタ」を求めて宙を指差し続ける。



会場風景

一方、第2室では、回転台の上に機器が設置され、2本のアームが「アナタ」を求めて回転運動を繰り返す。センサーが観客を感知すると、狙撃手が照準を合わせるようにまばゆいライトが照射され、観客は捕獲されてしまう(無人のロボット兵器による攻撃にも使われる、熱感知センサーが搭載されている)。手前には三体の人型の標的が吊り下げられ、奥の壁には、無数の黒い額縁が整然と掛けられている。額縁のなかは空白だが、よく見ると1つだけ、極小のキャプションが掲げられている(小杉の叔父が第二次世界大戦末期にインパールで戦死した日付と場所であるという)。

黒い額縁の列は、「靖国神社という霊魂の吸収装置」、具体的には「遊就館に展示されている慰霊写真の群れ」がモチーフになっているが、ここでは個別的な肖像は消去され、充填を待つ空白の座が待ち構える。ライトの照準に捕獲された観客は、自身の肉体、個人情報、感情、死後の「霊魂」さえもが国家や企業、あるいはSNS内に蠢く集団的な欲望によって絶えず追い求められ、捕獲されていることを想像せざるをえない。無人の照準器は、巨大な欲望機構である現代社会の端的な形象化であり、私たちの欲望が供給され続ける限り、その運動は止まることがない。

メディア・アートであるが霊魂的なものを感じさせること、テクノロジーを用いてはいるがアニマのようなものが宿ること。観客の身体を取り込みつつ、無人の機器が一種の演劇的なプレーヤーとして振る舞い、空間を支配する。KOSUGI+ANDOの過去作品にも通底するその不穏さは、テクノロジーが切り開く「輝かしい未来」を(メディア)アートのそれと無批判に重ね合わせる態度ではなく、テクノロジーと私たちの関係を静かに照らし出す。



会場風景

2018/10/05(金)(高嶋慈)