artscapeレビュー
山﨑健太のレビュー/プレビュー
The end of company ジエン社『ボードゲームと種の起源』
会期:2018/12/11~2018/12/16
アーツ千代田3331 B104[東京都]
The end of company ジエン社の第13回公演『ボードゲームと種の起源』は同タイトル・同モチーフ・同設定のもと、2018年12月の「基本公演」と2019年5月の「拡張公演」の二つのバージョンが上演された。こちらは「基本公演」のレビューとなる。
物語は新作ゲームの開発にいそしむボードゲーム作家の男・中大兄(寺内淳志)と、彼の(近親相姦的愛情を寄せ合っているらしい)妹・個子(名古屋愛)、同棲している(しかし恋人ではない?)女・ニホエヨ(沈ゆうこ)、そして新たにやってきたボードゲーム妖精を自称する女・チロル(高橋ルネ)の4人の関係の(ほとんど停滞と見紛うばかりの)変化を描くものだ。
本作では家族、あるいはそれ未満の男女の関係を舞台=フィールドとし、それを成立させているルールの再検討が行なわれる。新作ゲームのブラッシュアップとコミュニティ(男女の関係)のあり方の問い直しが劇中で並行して進んでいく趣向だ。舞台美術もボードゲームの盤面を模している。中央に置かれたテーブルの周囲の床には四つの長方形に区切られたスペースがあり、それぞれがひとつの部屋を意味しているらしい。劇中に登場する『魔女の森に座る』が正しい椅子に座ることを目指すゲームであったことを考えれば、登場人物たちは自分たちの「正しい場所」を探して試行錯誤しているのだと言うことができるだろう。ただし、『魔女の森に座る』には後から来た者に場所を明け渡さなければならないという理不尽な、しかし現実を映したものでもあるルールがある。全員が「正しい場所」に収まることは果たして可能なのか。
場所の占有というモチーフは前作『物の所有を学ぶ庭』から引き継がれたものであり、同時に、ジエン社が一貫して描いている震災後の世界において(いや、もちろんそれらの問題は震災以前からあり、多くの闘争がなされてきたことは言うまでもないが、改めて)避けては通れない問題系である。
ところで、私はこの作品を観ながら、また別のゲームを思い浮かべていた。複数の女性キャラクターの中から意中のひとりを落とすことを目指す、いわゆるギャルゲーだ。設定の異なる複数の女性が選択肢として用意されているところなどそっくりである。なるほど、たしかに本作には既存の家族のあり方への問いが含まれている。だがそれは、どこまでいっても中大兄に都合のいいものに過ぎない。椅子取りゲームに参加するのは女たちだけだ。男の居場所は保証されている。
劇中で「ホモ」という(基本的には蔑称として機能してきた)言葉が特に回収されることなく使われていたことも気になった。ルールの再検討が異性愛男性を中心とした価値観のもとに行なわれるならばそんなものに意義はない。基本公演は現代日本の宿痾をそのまま映し出していた。だからブラッシュアップされたゲームは『魔女の森を出る』と名づけられ、ニホエヨは出ていく。さて、本作はどのように「拡張」されるのだろうか。
公式サイト:https://elegirl.net/jiensha/
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The end of company ジエン社『ボードゲームと種の起源・拡張版』|山﨑健太(2019年07月01日号artscapeレビュー)
2018/12/14(山﨑健太)
ロロ『本がまくらじゃ冬眠できない』
会期:2018/11/17~2018/11/26
早稲田小劇場どらま館[東京都]
高校演劇のフォーマットにのっとった「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」シリーズ7作目。冬休みの図書室。ビーチ(端田新菜)は「好きな人ができたとき用のためのラブレター」を書くため、愛の言葉を収集している。それに付き合う親友の水星(大石将弘)は彼女に思いを寄せているようだ。ふらりと入ってきた太郎(篠崎大悟)はビーチの姉・海荷のかつての恋人で、まだ失恋を引きずっている。太郎は映画を撮るからと水星の兄・楽(本作には姿を見せないが過去作では同じく大石が演じていた)に呼び出されたのだが彼はなかなかやって来ない。楽の恋人・朝(島田桃子)は「イブなのに」と腹を立てつつ楽しそうだ。まだ来ぬ恋、過ぎ去りし恋。現在形の片思い両思い。
「まなざし」というシリーズのテーマは、しばしば恋愛というかたちで作中に表われる。だがそこに同性異性の区別はなく、それが自然なこととして描かれている。たとえば1作目では、将門という人物が太郎のことを好きかもしれないということがサラリと語られていた。本作で大石将弘が演じる水星は楽の「妹」だ。彼女はスカートこそ着用しているもののカツラを被っていたりはせず、見た目としてはほぼ「男性」である。彼女は「男性的な」見た目の女性なのかあるいはトランスジェンダーなのか。だが作中にそのあたりの言及は特にない。つまり、戯曲としては水星を「女性」が演じる選択肢もあるところに、三浦はあえて大石をキャスティングしたことになる。もちろん、男女どちらが演じてもいいし、見た目が「男性的」であっても「女性的」であってもいいのだ。説明もいらない。本当は、必要なのは理屈ではない。
何かしら望ましくない状況があったとき、その解決には二つの方法がある。ひとつは問題提起。もうひとつは、あるべき姿を当たり前の「空気」としてつくり上げてしまうこと。「いつ高」シリーズが高校生に捧げられている意味は大きい。
「いつ高」シリーズ:http://lolowebsite.sub.jp/ITUKOU/
2018/11/22(山﨑健太)
砂岡事務所プロデュース 音楽劇『Love's Labour's Lost』
会期:2018/11/17~2018/11/25
CBGKシブゲキ!![東京都]
『恋の骨折り損』として翻訳されているシェイクスピアの喜劇がFUKAI PRODUCE羽衣の糸井幸之介の演出・音楽で音楽劇として上演された。今作は糸井にとっての初の商業演劇演出作品となる。
学問に打ち込むため女人禁制の誓いを立てた王ファーディナンドとその友人の3人の貴族。しかしそこにフランス王女と3人の侍女が訪れ、4人の男はそれぞれに恋に落ちてしまう。抜けがけとその発覚、そして女性陣との恋の駆け引きがドタバタと展開する。
バカバカしい戯曲だ。率直に言って退屈(失礼!)ですらある。似たような場面の繰り返しも多く、そのまま上演するのでは間がもたないだろう。しかし今回の上演では、物語としては退屈な繰り返しは音楽によって構造的必然性を与えられ、俳優たちに順に見せ場をつくる装置としてうまく機能していた。セリフが音楽に乗せて発せられる場面も多いためテンポもいい。「音楽劇」という枠組があるところにこの戯曲が適当な作品として選ばれたのだろうと推測するが、「音楽劇」は『恋の骨折り損』を上演するのに最適な解のひとつであると思わされた。
俳優たちのコミカルな演技も(序盤こそ美男美女にこんなことさせて!と思ったものの)彼らの新たな魅力を引き出していたのではないだろうか。國立幸(WキャストのB)が演じた王女の嫌味ない意地悪さと、道化役のアーマードーをバカバカしい芝居のなかでも一際バカバカしく演じた谷山知宏の過剰さは特によかった。
しかし、ひとりの羽衣ファンとしては大いに物足りなかったのも確かだ。糸井と羽衣の妙〜ジカルは人生のバカバカしさと苦さを表裏一体に抉り出す。だからこそ笑えて泣ける。『恋の骨折り損』にあるのはバカバカしさだけだ。苦味が足りない。次に古典を上演する機会があれば(改作でもいい)ぜひそのポテンシャルを最大限に引き出す(あるいは糸井のまったく別の顔を引き出す)戯曲を選んでほしい。
公式ページ:http://sunaoka.com/stage/LLL/
2018/11/21(山﨑健太)
我妻直弥『最終回』
会期:2018/11/17~2018/11/18
立教大学新座キャンパス ロフト1[埼玉県]
我妻直弥『最終回』は立教大学現代心理学部映像身体学科松田正隆ゼミの卒業制作作品として上演された。作品の発表時点でまだ学生であった我妻はしかし、2017年にはフェスティバル/トーキョーの若手ピックアップ企画「実験と対話の劇場」に演劇計画・ふらっとの劇作担当として参加、2018年には『すごい機械』で第18回AAF戯曲賞最終審査にノミネートされるなど、すでに一部では注目を集めつつある。
松田正隆/マレビトの会の周辺で活動する(していた)他の若い作り手と同様、我妻もまた、演出の基本的な技法をマレビトの会『上演する』シリーズ(『長崎を上演する』『福島を上演する』)のそれと共有している。ほとんど何もない空間と大雑把なマイム、そして感情の起伏に乏しい発話。それらは現実の空間の中に不意に虚構が立ち上がる、あるいは物語世界からふと劇場へと引き戻される、その瞬間を生み出すための手法であり、松田はそのような演劇を「出来事の演劇」と名指す。
『最終回』は「出来事の演劇」の時間への適用の試みとしてある。作中ではある連ドラ(昼ドラ?)の最終回放映日の朝から昼、最終回が放映されるまさにそのときまでの約4時間が描かれるのだが、これはそのままこの作品の上演時間とも重なっている。つまり、『最終回』の上演において4時間という時間の枠組みは物語の内外で一致しているのだ。だが、物語の内と外の4時間は決して同質ではない。我妻はいくつかの仕掛けによって劇場空間に流れる複数の時間を観客に知覚させ、それらの間を行き来させる。
ひとつめの仕掛けは物語の内と外における時間帯の不一致だ。昼にかけての4時間を描く本作の開演時間は15時に設定されている。しかも、公演会場の客席正面の壁は取り払われ、大きな開口部となったそこは外の空間にそのまま通じている。19時の終演に向けて日は暮れていき、やがて夜が訪れる。現実の夜と、虚構の昼。
二つめの仕掛けは上演の形式にある。『最終回』は6編の短編からなり、おおよそ1編ごとに休憩が挟まれる。観客はその度に現実の時間に引き戻される。『最終回』の観劇体験は虚構の時間と現実の時間の混合物としてしかあり得ない。
現実の時間が入り込んでくるのは休憩時間だけではない。開口部から見える外部の空間は、演劇を見る観客に背景としての現実の時間をつねに意識させることになる。それは夜に向かう天体の運行であり、立教大学新座キャンパスという具体的な空間に流れる時間でもある。「背景」をときおり通り過ぎていく学生らしき人々の姿は、観客に虚構への没頭を許さない。しかも、 3編目の「とある地獄」では、作品とは無関係な通行人と思われた人々の行為がそのまま「上演」へと移行していく。「現実」が「虚構」へと陥入する。それとも逆だろうか。いずれにせよ、そこには極めて豊か、かつ、奇妙な現実と虚構との関わりの可能性が提示されていた。
2018/11/17(土)(山﨑健太)
地点『だれか、来る』
会期:2018/10/11~2018/10/14
アンダースロー[京都府]
半ば世を捨てるようにして海辺の古い家へと越してくる「彼」と「彼女」。そこに現われる家の売主だという「男」。描かれるのは家に着いてからその晩までの短い間。「男」の訪問と「彼女」の態度が「彼」の心をかき乱す。波のように寄せては返す言葉の繰り返しがミニマムな三角関係のドラマに劇的な効果を与え、緊張は徐々に高まっていく。
ノルウェーの作家ヨン・フォッセの戯曲はもともと詩的なリズムを持っているが、今回の地点の上演ではそこに新たなリズムが加えられている。二人一役を基本として、同じセリフがエコーのように二度(あるいはそれ以上)繰り返されるのだ。「だれか来る?」「だれか来る」。自問自答のように繰り返されそのたびに異なるニュアンスを響かせる言葉。彼らは引き裂かれている。「彼」は「彼女」を愛しているが信じきれない。「彼女」は「彼」を試すようでも裏切っているようでもある。親切めかした「男」の態度には欲望が透けて見え、しかし決定的な行為は描かれない。
空間もまた複数の領域の間で引き裂かれ宙吊りになる(美術:杉山至、照明:藤原康弘)。氷柱のようにいくつも連なるLEDライトの光は家の明かりのようにも瞬く星のようにも見え、ときに青く輝くそれは海面のようでもある。うちと外、空と海。二つの領域は容易に溶け合いあるいは反転する。生と死さえも例外ではない。
「彼」(安部聡子/小河原康二)と「彼女」(窪田史恵/田中祐気)が「二人きり」だと言うその瞬間、「男」(石田 大/小林洋平)はしばしばすでにそこにいる。だが「男」はその存在に気づかれない。観客と同じように。亡霊のような彼ら/私たち。白い布で覆われた椅子はそこが過去の場所であることを暗示していた。
執拗に繰り返される「だれか来る」という言葉には不安と期待が共存する。ドラマを起動するのは来訪者だ。戯曲に書き込まれた悲劇の予感は、「そこ」に来訪者があるたび、亡霊として繰り返されることになるだろう。
2018/10/13(山﨑健太)