artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

有島武郎『生れ出づる悩み』出版100年記念 青春の苦悩と孤独を歓喜にかえた画家たち:木田金次郎展

会期:2018/07/21~2018/09/02

府中市美術館[東京都]

「青春の苦悩と孤独を……」という長ったらしいサブタイトルは書いてて恥ずかしくなるし、「画家たち」といっても大半は木田作品に占められ、それ以外はオマケ程度なので省いたほうがいい(だいたいなぜ木田以外の作家が入っているのか理解できない)。その代わり、もうひとつの小さなサブタイトル「有島武郎『生れ出づる悩み』出版100年記念」のほうを前面に出すべきだろう。というのも、木田金次郎の本名より『生れ出づる悩み』に登場する画家としてよく知られているからだ。

展覧会の第1章もこの小説に関連する資料やスケッチなどに割かれている。そもそもこの小説、有島が札幌にいたとき、木田少年が絵を携えて訪問、7年後に再会した事実を元に執筆されたもの。その7年間に岩内で漁師として家族を支えながら、絵を描きたいという欲望を捨てきれなかった木田の、生活と芸術のあいだで葛藤する姿が書かれている。これを読むと、よっぽどスゴイ絵を描いていたのだろうと期待が膨らむ。

ところが、第2章から登場する木田の作品を見ると、肩すかしを食らう。木田は有島の亡くなった1923年から本格的に画業に専念、今回の出品作品はそれ以後のもの。厚塗りで荒々しいタッチの作風は悪くはないが、とくに優れているとか、個性が輝いているようには見えない。凡庸といえば凡庸。なぜ有島はこの画家に過剰な関心を寄せ、小説にまで仕立て上げたのか疑問に思えてくる。ひょっとしてこの小説家の目は節穴だったのか、あるいは木田の作品そのものより、芸術と生活のあいだで葛藤する彼の真摯な生きざまに共感しただけなのか……。などと考えながら見ていくと、1954年から画風が大きく変わっていくのがわかる。

その年、市街地の8割を壊滅させた岩内大火により自宅が全焼、実に1600点もの作品が失われたのだ。これはキツイ。還暦を過ぎてから作品の大半を失ったらもう再起不能だろう。ところが木田は再起しただけでなく、数段グレードアップしてみせた。厚塗りの激しいタッチは変わらないが、画面のサイズが大きくなり、対象にいっそう肉薄するようになった。色彩や線が自由に踊り出し、まるで同時代のアメリカの抽象表現主義を彷彿させもする。この晩年の8年間の作品は確かにスゴイと思う。でも有島はそこまで予想していなかったはず。そうではなく、木田が有島の期待に生涯をかけて応えようとしたのではないか。だとしたら、プレッシャーは相当なものだったに違いない。果たして木田にとって有島は、自分の人生を翻弄した張本人か、それとも芸術家としての素質を見出してくれた恩人か。

2018/08/18(村田真)

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フェルメール光の王国展 2018

会期:2018/07/28~2018/09/02

そごう美術館[神奈川県]

フェルメール好きの生物学者、福岡伸一博士が監修するフェルメールの複製画展。「複製画」というとミもフタもないけど、サイズはもちろんテクスチュアや艶も復元、色も描かれた当時の色彩をなるべく忠実に再現したもので、「リ・クリエイト」と呼ぶ(額縁も現在の所蔵先となるべく同じものを使用)。点数は計37点。これは本当にフェルメール作か疑問のあるものまで含めた最大限の点数だ。展覧会については数年前に銀座で開催されたとき書いたので、ここでは展覧会以外のことに触れたい。

フェルメールは作品点数が少ないうえ小品が多いため、さほど広くないそごう美術館の半分も埋まらない。残りのスペースではフェルメールも描いたヴァージナルやギターなど17世紀の楽器を展示したり、福岡博士のインタビュー映像を流したりしているが、そのなかでおもしろかったのが、フェルメールのコレクションで知られるハーグのマウリッツハイス美術館が博士を起用してつくったCM。ニューヨークにある博士の自室にはマウリッツハイス所蔵の《真珠の耳飾りの少女》の複製画が掛けられているが、同館はこれまでフェルメールの宣伝係を務めてくれた恩返しに、自室にホンモノの《真珠の耳飾りの少女》を掛けようと計画。ただし、さすがにホンモノを貸すわけにはいかないので、逆に博士の部屋をマウリッツハイスに持ってこようというのだ。こうして美術館内に再現された博士の「自室」で、ホンモノの《真珠の耳飾りの少女》が鑑賞できるようになったという映像。なかなかシャレたことをするなあと感心したが、でもこれって西野達のパクリではないか。以前、西野はある美術館のピカソの絵の前に日本の部屋を再現し、「ピカソのある家庭」を実現してみせたからだ。向こうのクリエイターは現代美術をしっかり(ちゃっかり)勉強しているわい。

2018/08/17(村田真)

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大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2018

会期:2018/07/29~2018/09/17

大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ[新潟県]

〈8月7日〉

BankART妻有「桐山の家」で4泊5日の合宿(ぼくは1日早く帰京)。朝8時に東京駅前で待ち合わせ、横浜からの車に同乗し、十日町に着いたのが12時前。小嶋屋でへぎそばをたぐって、さっそく見学。今回は新作が約170点で、旧作を合わせると約380点という。新作を中心に見ていこう。まず川西エリアに入ると、道端に自動車が片側の2輪だけで斜めに立っている。トルコのアーメット・オーグットによる《カードリフターズ》。アラブではこのようにドリフト走行しながら車体から身を乗り出す危険な遊びが流行しているらしく、しかもその大半が日本車ということで制作したそうだ。でも道路に設置するわけにいかず、かといって更地ではリアリティがなかったのだろう、わざわざ更地にアスファルトの道をつくった上に展示するという手の込みよう。のどかな里山にアラブのドリフト車というミスマッチが哀しげだ。


写真左:目《Repetition objects》 写真右:レアンドロ・エルリッヒ《Palimpsest》[撮影:筆者、以下同じ]

十日町エリアの利雪親雪総合センターの2階では、タイのアリン・ルンジャーンによる映像《米》を上映。タイと日本の米農家を撮ったもので、産地により異なる米文化に思いを馳せるにはいいかもしれないが、こういうあわただしいツアーでのんびりした映像を見せられるとイライラする。妻有田中文男文庫の2階に上がると、巨大な水墨画が目に入る。中国のシュー・ビンによる《裏側の物語》で、背後に回るとその水墨画を構成している「舞台裏」が暴露される仕掛け。越後妻有とは縁もゆかりもない山水図だが、《米》と違って単純に楽しめるし、思わず笑ってしまう。JR魚沼中条駅前には大きな岩が2つ並んでいて、色もかたちも大きさもまるで同じ。目による《Repetitive objects》、直訳すると「繰り返す物体」だ。なるほどよくできていて、どちらがホンモノだろう? どっちもニセモノ? と議論が起きる。でも前回の「コインランドリー」に比べれば、ただ見るだけなので、驚きは小さい。

最後は芸術祭のインフォメーションセンターでもあるキナーレへ。回廊に囲まれた中央の池には、レアンドロ・エルリッヒによる《Palimpsest》がある。周囲の建物を撮影した写真を鏡像として池の底に貼ったもので、2階のある1点から見たときだけパースが実像と一致する仕掛け。そのとき池の底の鏡像と池に映った鏡像も一致するはず。タイトルの「パリンプセスト」とは羊皮紙に書かれた文字を消して別の内容を上書きした写本のことで、ここでは池に映った鏡像に写真の鏡像が上書きされるという見立てだ。でも天気や風向きにより見え方が左右されるし、しょせんトリックなのでなにか感動が残るというわけでもない。その池を囲む回廊には《2018年の〈方丈記私記〉》と称して、約30組の建築家やアーティストが4畳半の空間に飲食店、書斎、ギャラリー、人生相談室などを提案。それぞれ趣向を凝らしているし、これをシャッター街化する商店街に適用していく計画もあるようだが、こうして並べてみると芸術祭の作品というより、なんだか学園祭の模擬店みたいでちょっとアレですね。


〈8月8日〉

午前中に講座を終えて、午後から松代・松之山エリアへ。松代駅前の雪国農耕文化村センター「農舞台」はすっかりリニューアルされ、アボリジニの音楽を紹介する「イダキ:ディジュリドゥ、オーストラリア大地の音」展を開催。それはそれで貴重なものかもしれないが、わざわざこの時期にここでやるものか? 商店街の倉庫でやっていた金氏徹平の《SF(Summer Fiction)》は、夏のあいだ使われない除雪車を利用し、ミラーボールや音を組み合わせて別世界のようなインスタレーションを現出させていた。これはなかなか迫力があり、見ごたえがある。芸術祭の期間中は見られない越後妻有の冬の一面をのぞき見てしまった奇妙な感じ。

空家を改装した中国ハウスのウー・ケンアンによる《五百筆》も力作。室内の壁のほとんどをカラフルな書で覆ってしまっている。日本と中国で行ったワークショップの参加者が書いた書を、筆跡に沿って切り抜いてコラージュしたもの。金がかかってないわりに(テマヒマはかかってそうだが)視覚的効果は抜群。廃校を再利用したクリスチャン・ボルタンスキーの《最後の教室》は、人気が高いせいかマイナーチェンジが施された上、入り口の2階に部屋を増設し、新作《影の劇場》を追加している。ボルタンスキーの代表作のひとつ「影絵」だが、《最後の教室》を見た後では弱々しく、屋上屋を架した印象は否めない。


写真左:金氏徹平《SF(Summer Fiction)》 写真右:マ・ヤンソン/MADアーキテクツ《ライトケーブ》


〈8月9日〉

今日は南のほうの中里・津南エリアへ。まずは日本三大峡谷のひとつ、清津峡を舞台にしたマ・ヤンソン/MADアーキテクツの《ライトケーブ》。清津峡には絶景を眺めるために全長750メートルのトンネルが掘られているが、その突き当たりのパノラマステーションにプールをつくり、水面に渓谷の反転像を映し出すと同時に、トンネルが円形に見えるようにしつらえている。渓谷の絶景に負うところ大のインスタレーションだが、観光協会もよくやらせてくれたもんだ。作品とは関係ないけど、トンネルの途中の見晴らし所では川は右から左に流れていたのに、パノラマステーションでは右手前から左にではなく、奥に流れていること。いったい川の流れはどこでどう曲がっているのか不思議に思ったが、川が曲がっているのではなくトンネルが最後に左に急カーブしていたのだ。

津南まで下って繊維工場の廃墟に入ると、サイズの異なる白い球が何千個も宙に浮いている。ダミアン・オルテガの《ワープクラウド》で、糸で吊るして3次元に球を配列したもの。よくがんばりました。山のほうの登り窯を美術館に見立てた蔡國強の《ドラゴン現代美術館》では、毎回ほかのアーティストを招いて個展を開催しているが、今回は中国のワン・スースゥンによる《幸福の花》。登り窯の上や周囲に黄色い花をつける植物を植えたもので、窯全体が黄色に包まれるはずだったが、残念ながらまばらにしか咲かず、ただ雑草に覆われているだけにしか見えない。しかもこの黄色い花、中国では「幸福の花」かもしれないが、日本では悪名高い外来種のセイタカアワダチソウを連想させるのだ。いっそ黄色いハンカチにしたらよかったのに。


〈8月10日〉

4日目は再び松代界隈と川西・十日町で見落としていた新作をつぶしていく。まず立ち寄ったのが、豊福亮による《黄金の遊戯場》。民家1軒の内部を丸ごと使ったインスタレーション。名画の模写、安っぽい掛軸、シャンデリア、金色に塗った彫像、マージャン牌などで壁がびっしり埋め尽くされ、「装飾過剰」という言葉をそのまま立体化したようなキッチュな空間を現出させている。越後妻有らしくないし、かといって都会的でもない、あえていえば香港世界(笑)。素朴な民家の扉1枚を隔てた向こうに、まさかこんな異世界が広がっているとは! 今年のベスト1だ。川西の山ぞいの高倉集落の小学校体育館では、力五山による《十日町高倉博物館―還るところ―》が展示されている。古い農具や民具を集めて積み上げたインスタレーションで、見ているとところどころに明かりが灯り始め、地元の人たちの語りが聞こえてくる。これぞ越後妻有スペシフィックな、大地の芸術祭ならではのインスタレーション+パフォーマンス。


写真左:豊福亮《黄金の遊戯場》 写真右:力五山《十日町高倉博物館—還るところ—》

川西の千手神社の裏庭で、20年ほど前まで行われていた奉納相撲の土俵を独自に再現した国松希根太の《記憶の痕跡と明日の杜》や、十日町の溜め池に社を乗せた船を浮かべ、岸から桟橋を渡した深澤孝史の《月待ヶ池》は、どちらも地元の文化遺産を活用しているものの、視覚的インパクトに欠けた。この芸術祭の作品を大別すると、こうした屋外インスタレーションと、豊福や力五山のような廃屋などを利用した屋内インスタレーションに分けられるが、総じて屋内作品のほうに佳作が多いのは、やはり空間的に好条件がそろっているからだろうか。「大地の芸術祭」という名称からイメージするのは野外インスタレーションだが、いまや民家や廃屋(の作品)を訪ね歩く芸術祭として定着したようだ。

2018/08/10(村田真)

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熱く、元気なあの時代 1980年代展

会期:2018/08/01~2018/08/13

日本橋三越[東京]

今年は「80年代展」の当たり年。金沢21世紀美術館では「起点としての80年代」が始まったし、秋には国立国際美術館でも「現代美術の80年代」が開かれる。30年を経てようやくナウでバブリーな時代が客観的に歴史化できるようになった、というのは美術の話。こちらはサブカルの80年代展だ。展示構成は当時のファッションを振り返る「時代とファッション」、携帯やパソコンなど80年代に登場した生活用具を紹介する「暮らしと革命」、アニメ、コミック、キャラクターグッズを並べた「マニア誕生」、懐かしのアイドルが登場する「青春カルチャー」など、なんのひねりもない区分け。

展示を見ると、ファッションやコミックなどはそう変わってないが、携帯電話やパソコンといったライフスタイルを根本的に変えるアイテムが登場した時代だったことに気づく。無印良品やユニクロ、ドンキなどが登場したのも80年代。サブカル誌では『宝島』『スタジオボイス』『ビックリハウス』などが隆盛を誇ったけど、なぜか『ぴあ』が出てないぞ。また、イラストレーターの永井博は1コーナーを設けられているのに、シュナーベルやキース・ヘリング、日比野克彦らニューペインティングやヘタうまは小さな壁に写真パネルでしか紹介されてない。なにより「熱く、元気な」と謳いながら会場はスカスカで、ガラスの陳列ケースに収まったアイテムもペカペカで、80年代というよりもっと前の昭和レトロの香りが漂う60年代の空気。この「スカ」な感じが80年代らしいといわれればそうかもしれないが、それにしても中身なさすぎ。監修が泉麻人だから仕方ないけどね。

2018/08/05(村田真)

「建築」への眼差し —現代写真と建築の位相—

会期:2018/08/04~2018/10/08

建築倉庫ミュージアム[東京都]

寺田倉庫が運営する建築倉庫ミュージアムの企画展。記録としての建築写真ではなく、芸術としての建築写真を集めている。おもしろいのは写真だけでなく、その建築のマケットも展示していること。しかも表に展示するのではなく、その建築のかたちにくり抜いた穴からのぞき見るように壁の内部に置いているのだ。だから観客は「のぞく」というちょっと恥ずかしいアクションを起こさなければ見ることができない。肝腎の写真家は、杉本博司、鈴木理策、畠山直哉、宮本隆司、米田知子、トーマス・デマンド、カンディダ・ヘーファー、ジェームズ・ウェリングら13人で、被写体となった建築は、ル・コルビュジエの「サヴォア邸」から、ミース・ファン・デル・ローエの「トゥーゲントハット邸」、ヘルツォーク&ド・ムーロンの「エルプフィルハーモニー・ハンブルク」まで13件。

基本的には写真展だが、これは建築展でもある。建築展はふつう実際の建物を出品することができないので、写真や設計図、マケットなどに頼らざるをえない。ここにはない写真やマケットを見ながら建築を想像するのが建築展だとすれば、これはまぎれもない建築展なのだ。プラトン風にいえば、まずイデアとしての建築があり、それを模型化したマケットがあり、最後に2次元に置き換えた写真がある。だから写真家はサル真似にすぎず、地位が低いとプラトンならいうだろう。あれ? 写真家が主役であるはずなのに、いつのまにか立場が逆転してしまった。

2018/08/03(村田真)

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