artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

一つ柳恋路展「あたいを愛してたも〜れ」展

会期:2018/09/24~2018/09/29

藍画廊[東京都]

日本橋川、神田川、隅田川を通る「お江戸日本橋舟めぐり」の神田川コースを堪能した後、陸に上がって日本橋から銀座まで画廊回り。そのなかで気に入ったのではなく、気に障った個展がこれ。作者は68歳の現役東京造形大生だそうだ。大学は教授もたいてい65歳で定年だから、だれよりも高齢だ。でもこれから会社を定年になって「自分は本当はこれをやりたかったんだ!」と美大に入学してくる高齢者学生が増えてくるはず。その意味では先駆的お手本になるかもしれない。でもやってることは、ダダカンみたいに裸になったり、エノチューみたいに髪を半分だけ刈ったり、根本敬にそっくりのドローイング描いたり、細い彫刻に小魚をまぶした「チリメンジャコメッティ」出したり。もし大学に入ってこれらのネタを発想したとすれば百害あって一利なし、大学なんか行かないほうがいい。そういうシャレや小細工ではなく、本気の破壊衝動が見たい。貸し画廊も悪くないが(とくに藍画廊は良心的だが)、本気で目立ちたいならもっとキケンな場所を選ぶべきだ。

2018/09/29(村田真)

クリスチャン・ヤンコフスキー Floating World

会期:2018/09/15~2018/10/28

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA(アクア)[京都府]

岡山からの帰り、クリスチャン・ヤンコフスキーを見るため京都で降りる。ヤンコフスキーは昨年のヨコトリで、ポーランドの重量挙げ選手が時代がかったモニュメントを持ち上げようとする写真を出品したベルリン在住のアーティスト。レーニンの肖像画をディカプリオに変身させたザ・プロペラ・グループとともに笑える作品だったので、もっと見たいと思っていたら、京都市立芸大がヤンコフスキーを招き、地域社会をリサーチしながら学生たちとともにつくりあげた作品も展示しているというので、立ち寄った次第。

彼が京都でなにをやったかといえば、緊縛師・龍崎飛鳥とのコラボレーションによりみずから縛られ、尻も露わに宙づりにされたという。わざわざベルリンから京都の大学に招かれて緊縛されるとは、なんてステキなアーティストでしょうね。その緊縛の残骸がロビーの吹き抜けにぶら下がり、緊縛写真がメインビジュアルとしてポスターやチラシに使われている。

ほかに、シュプレー川の流れの音を録音してモルダウ川で流し、逆にモルダウ川の音をシュプレー川に流す映像作品もあったが、今回は両者をミックスして鴨川に流す映像も付け加えた。顔や身体に落書きしたり珍妙な扮装して寝る姿を撮った《We are innocent when we sleep》、水面からいきなり顔を出して「アートは〈今〉である」とか一言いってまた潜る、という動作を10人くらいの男女が繰り返す映像もある。出品作品の大半は2018年の新作だが、1点だけ1992年の旧作があって、これがおもひどい(おもしろい+ひどい)。スーパーで買い物をするのに、弓矢で目当ての商品を射抜き、矢のついたままレジで会計を済ますという映像。都市における狩猟のつもりだろうが、日本でやったら捕まるぞ笑。

2018/09/28(村田真)

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ARKO2018 久松知子

会期:2018/09/11~2018/11/11

大原美術館[岡山県]

若手作家の支援を目指して2005年に始まったARKO(Artist in Residence Kurashiki, Ohara)。今年は久松知子が選ばれ、3カ月の滞在制作を経て作品を発表しているので、久しぶりに大原美術館見学も兼ねて見に行った。ここに来るのは10年ぶりくらいか。これまで4、5回来ているので平均10年に一度だが、徐々に感動が薄まっていくのは年のせいだろうか。でも、来るたびに関心の対象が少しずつ変わってきてることにも気づく。例えば、これまでただでかいだけで時代遅れの二流品と思っていたレオン・フレデリックの《万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん》が、今回とても新鮮に見えた。タイトルも長いが幅も長く、全長11メートルもある超大作だ。

久松のほうはレオン・フレデリックにはおよばないものの、パネル3枚をつなぎ合わせた縦2,6メートル、幅5メートルほどの超大作を中心に展示している。タイトルは《物語との距離(2018、夏、倉敷)》というもので、大原美術館の外観、エル・グレコやゴーガンらの飾られた展示室、大原孫三郎ら美術館創立者や歴代理事などを三連画に描いているアトリエ内を描いたもの。わかりにくいと思うが、要するに巨大画面に三連画を「画中画」として描いてるわけ。だから三連画のなかに描かれたエル・グレコやゴーガンの絵は「画中画中画」になる。さらにこの巨大画面の制作中を描いた絵もあって、三重にも四重にも入れ子状になった迷宮のような絵画なのだ。それだけではない。この超大作、透視図法を用いた構図といい、画家のアトリエを舞台にしていることといい、正面にパトロンを据え、作者自身や画中画も描いていることといい、迷宮の絵画ともいうべきベラスケスの《ラス・メニナス》を彷彿させるのだ。

ところでARKOの滞在作家の制作場所は、大原美術館の基礎となるコレクションを収集した画家の児島虎次郎が使っていた自宅の一部で、とくに、1927年に児島が明治神宮聖徳記念絵画館に献納する《対露宣戦布告御前会議》を制作するために建てられた大型アトリエが使用できるそうだ。この御前会議の絵は広い意味で戦争画といっていい。ところが、この絵を仕上げたのは児島ではなく、吉田苞という画家。児島は1929年に亡くなったので、絵は未完成か、まだ手をつけてなかったかもしれない。そのため吉田が後任に指定されたのだろう。久松の絵に戻ると、タイトルの「物語との距離」とは、大原や児島ら美術館を築いてきた歴史=物語と、そこで滞在制作している久松との時間的な距離、時代のギャップを指すのだろうか。美術史もまたひとつの大きな迷宮に違いない。

2018/09/28(村田真)

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生きてゐる山水 廬山をのぞむ古今のまなざし

会期:2018/08/31~2018/09/30

岡山県立美術館[岡山県]

日帰りで岡山県立美術館と大原美術館に絵を見に行く。まずは県立美術館の山部泰司。タイトルに山部の名前はないが、同展は山部の絵画40点ほどが、館蔵品の玉澗《廬山図》(重文)や、近年山部が影響を受けたという伝薫源《寒林重汀図》、伝李成《喬松平遠図》などの山水画と交互に展示されている。「山水画展」じゃ辛気くさいから山部の絵をオマケにつけたのか、それとも山部の絵だけじゃ人が来ないから山水画で客を呼び寄せようって魂胆なのかわからないが、扱いとしては五分五分だ。山水画には興味も知識もないので省き、ここでは山部について見よう。

山部が現在のような風景表現を始めたのは10年ほど前のこと。80年代には画面いっぱいに花のような鮮やかな色彩と形態の絵を描いていたのに、2、3年前に久しぶりに見たらずいぶん変わっていたので驚いたものだ。そのときは花から樹木へ、森林へ、山へと視点が徐々にズームアウトしてきたのかと勝手に思っていたが、どうもそうではなく、画材をあれこれ試しているうちに水墨表現に行きついたということらしい。ただし水墨画に転向したのではなく、キャンバスにアクリル絵具による山水的風景に近づいたというわけだ。ここ5年くらいは赤または青の線描で水流が描かれていたため、レオナルド・ダ・ヴィンチの洪水の図を思わせ、またそこから津波を連想させもしたが、いずれにせよ西洋絵画の名残があった。ところが最近は前述の薫源と李成に感化されたこともあって、よりリアルな水墨表現に近づいているように見える。そのため今回のような山水画との競演が可能になったのだろう。

展示で気になったのは、キャンバスを壁から20センチほど浮かせていること。これはおそらく画面に余白が多い山水画に対して、山部の風景画はオールオーバーにびっしり線描で覆われ、また表装も額縁もないので、壁に直接掛けると壁紙のように平坦に感じられてしまうからではないだろうか。だから壁とのあいだに一定の距離を保つ必要を感じ、壁から浮かせたのだろう。その効果で、図版で見ると版画のような印象だが、実際には巨大なタブローが現前してくる。

2018/09/28(村田真)

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CSP5 志向と選択 - Creative Spiral Project vol.5 –

会期:2018/09/13~2018/10/09

東京造形大学付属美術館[東京都]

単に同じ学校を出たというだけのグループ展など見る気もしないが、気になる作家が入っていたし、どうせ毎週キャンパスに通っているので授業の後で見に行ったら、いやこれがおもしろかった。出品は鈴木のぞみ、樋口明宏、高田安規子・政子、五月女哲平の4組。グループ展では1人でもおもしろいヤツがいれば「よかった」と評価しなければならないが、これは珍しいことに全員がおもしろかった。しかもおもしろさがバラバラではなく、ひとつの方向性を示していた。

まず、鈴木のぞみ。彼女はいま4組のなかでいちばん露出度が高い作家だ。窓や鏡の表面に写真乳剤を塗り、それが置かれていた場所の情景を写し取る。その窓や鏡を使っていた人の記憶をそこに焼きつけたかたちだ。初めて見たとき、人類最初の写真(ヘリオグラフィ)を撮ったニエプスの風景写真を想起させたが、今回セコハンの鏡を使った作品には人の顔が映っているものもあって、心霊写真のような不気味さを増幅させている。高田姉妹は黒いハンカチの縁を飾るレースに細工して鉄の飾り門に見立てたり、チョークに縦筋を入れて円形に並べてプチ古代遺跡を現出させたり、ハンドバッグに施されたロココ調の刺繍を延長して立体化させるなど、素材やサイズや価値観をまったく転倒させている。五月女哲平は(見間違えたかもしれないが)写真を額縁に入れ、ガラス(か透明アクリル)面を覆うように黒いシルクスクリーンで刷って画像を隠し、さらに額縁を背中合わせにつないで床に立てている。写真とその上のシルクスクリーン、立体という三重構造による脱臼。

最後に樋口明宏。彼の名前は聞いたことあるようなないような、ほとんど未知の作家だが、作品はずば抜けていた。作品は4点で、ひとつはボロボロの毛皮コートの周囲にウサギのぬいぐるみを配したもの。よく見ると、コートの表面はウサギのかたちに切り抜かれ、その皮でぬいぐるみがつくられていることがわかる。明王像のような古い木彫の腕の位置をずらして部分的に銀箔を張り、ウルトラマンシリーズに変えてしまった《修復—ヒーロー》という作品もある。北海道土産の鮭をくわえた熊の彫り物の熊を白と黒に塗り分けてパンダにした作品は、中国批判と読めなくもない。毛皮のコートにしろ古い木彫にしろ、金の掛け方がハンパない。いったい材料費にいくら使ったのか。そんなことに感動してる場合ではないが。いずれにせよ、4組とも既製品に手を加えて価値を転倒させる手法が共通している。いや意味を転換するだけでなく、いずれも天に唾するがごとき不穏な諧謔精神をもって価値観をひっくり返している。その手際が見事だ。

2018/09/24(村田真)

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