artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

長島有里枝「知らない言葉の花の名前 記憶にない風景 わたしの指には読めない本」

会期:2019/01/26~2019/02/24

横浜市民ギャラリーあざみ野[神奈川県]

天野太郎の企画で横浜市民ギャラリーあざみ野で開催される「あざみ野フォト・アニュアル」を、毎年楽しみにしている。今年の長島有里枝の写真展も、よく練り上げられたいい展示だった。

長島が2008~2009年に『群像』に連載し、2009年に単行本として刊行されたエッセイ集『背中の記憶』を起点として制作された3つの作品が出品されている。「知らない言葉の花の名前」は、植物の名札にフォーカスして撮影したシリーズで、花の名前は読めるが、その意味はわからないし、花そのものも写っていない。「記憶にない風景」は、なぜ撮ったのか忘れてしまったような断片的な画像を、木製のボードに感光性のエマルジョンを塗ってプリントし、家具のように組み立てて配置している。「私の指には読めない本」は全盲の女性に点字の『背中の記憶』を通読してもらい、彼女がマークした箇所と読み進めている指をクローズアップで撮影したシリーズである。3シリーズとも、「見ること」は本当に「理解すること」につながるのかという問いかけに対する真摯な回答になっており、長島自身の写真家と文筆家というあり方をも問い直す作品として、しっかりと組み上げられていた。

作品の内容に直接かかわるわけではないのだが、会場に掲げられた以下の注意書きが気になった。

「作品にはお手をふれないでください」、「作品に寄りかかったり、くぐったりしないでください」、「結界のなかに立ち入らないでください」。

主に子どもに向けて注意を促す表示として、まったく妥当な内容である。だが、今回の長島の作品のあり方と照らし合わせて、やや違和感を覚えてしまった。というのは、木製ボードにプリントした「記憶にない風景」や、ロールサイズの印画紙を断裁して引き伸ばした「私の指には読めない本」は、どうしても「触ってみたくなる」作品だからだ。子どもや目の不自由な人が手で触れて、汚れたり、壊れたりしてもいいような展示の仕方も、選択肢としてあるのではないだろうか。

なお、これも例年通りに、同館の2階スペースでは横浜市所蔵の「ネイラー・コレクション」による企画展が開催されていた。ユニークなコンセプチュアル・フォトをつくり続けている野村浩が構成した、今回の「暗くて明るいカメラーの部屋」は、見応えのある面白い展示である。19世紀以来の写真を巡る、小さな旅を楽しむことができた。

2019/02/08(金)(飯沢耕太郎)

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公文健太郎「地が紡ぐ」

会期:2019/01/15~2019/02/13

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

前作の「耕す人」(2016)で日本の農業をテーマに力作を発表した公文健太郎の新作展である。今回はさらに視点を広げ、それぞれの土地に根ざした人々の生活の営みや文化に目を向けている。

3部構成の第1章の「神事を受け継ぐ地」では、青森県下北郡東通村の鹿橋(ししばし)という集落に伝わる「能舞」を取り上げた。先祖代々受け継がれてきた神楽がどのように住人たちの生活に溶け込んでいるかを、舞いに使う面のクローズアップも含めて丁寧に追っている。第2章の「自然の恵みを享受する地」では、栃木県那須郡那須町湯本の湯治場を撮影した。ここでも、大地の恵みといえる温泉が住人たちの暮らしのなかに取り込まれている。第3章「ものづくりで生きている地」のテーマは、生活雑器の国内シェアの4分の1以上を生産しているという長崎県東彼杵郡波佐見町の中尾郷である。「おれらは土を喰って生きてきたんじゃ」と語る94歳の老陶工を中心に、日本の窯業の現状に迫っている。

3つの章はそれぞれ違った方向を向いているが、それらが噛み合うことで、2010年代後半の日本の社会・文化の基層を浮かび上がらせる構成がとてもうまくいっていた。写真を天井から吊るすなど、会場のインスタレーションもよく考えられており、公文の表現力の高まりを感じることができた。彼はいま次の作品として「川」と「半島」の写真を撮り始めているという。文字通り「地に足がついた」写真家として、さらなる展開が期待できそうだ。

2019/02/07(木)(飯沢耕太郎)

明治の写真展『華影』華族たちの絵画主義 ピクトリアリズムを追って

会期:2019/02/05~2019/03/03

JCII フォトサロン[東京都]

『華影(はなのかげ)』は1902年~08(明治35~41)年頃に刊行されていた写真雑誌である。一種の同人誌で、会員はすべて写真を愛好する華族たちだった。当時は、ようやく素人写真家たちを中心に「芸術写真」の気運が盛り上がってきた頃で、『華影』もその流れに沿って創刊されたようだ。なかなか見る機会がなかったのだが、今回、日本カメラ博物館(JCII)が保存している13冊に掲載された写真図版を複写・プリントした作品が初公開された。日本写真史の再構築という意味で、とても有意義な展示といえる。

「最後の将軍」徳川慶喜、その弟の徳川昭武、さらに徳川達道(さとみち)、松平乗長、松平直之、阿部正恒(まさたけ)、戸田忠男、井伊直安、正親町實正(おおぎまち・さねまさ)といった常連作家の作品は、ほとんどがピクトリアリズム(絵画主義)の美意識に則って制作されている。1904年以降に写真家・写真事業家の小川一真と、東京美術学校教授の西洋画家、黒田清輝が作品の審査にあたるようになり、その傾向がより強まった。だがそれだけでなく、身辺の雑事を題材にしたスナップ写真的な写真や、演出を加えて滑稽味を打ち出した作品など、作風の幅はかなり広い。上流階級の手遊びと言ってしまえばそれまでだが、彼らの遊び心溢れる写真群はなかなか魅力的であり、むしろ現代的とさえいえる。兄の徳川慶喜とともに若い頃から写真に親しみ、生涯に1500枚余りの写真原板を残した徳川昭武や、東京美術学校で日本画を学んだという松平乗長らの作画意識は、かなり高度なものがある。彼らの活動を、同時代の日本の写真表現の中にどう位置づけるかが、これからの課題といえるだろう。

2019/02/06(水)(飯沢耕太郎)

岡上淑子「フォトコラージュ 沈黙の奇蹟」

会期:2019/01/26~2019/04/07

東京都庭園美術館[東京都]

展覧会がどんな会場で開催されるかは、とても大きなファクターなのだが、普段はそれほど強く意識されることはない。だが、旧朝香宮邸を改装した東京都庭園美術館で岡上淑子の作品を見るという経験は、やはり特別なものだった。彼女の優美で繊細だが力強い作品の魅力が、アール・デコ様式の建物やインテリアによってより増幅されて伝わってきたからだ。

2018年1月~3月に高知県立美術館で開催された「岡上淑子コラージュ展──はるかな旅」は、彼女のほぼ全作品が出品された充実した内容だった。それゆえ、その展示からあまり間をおかずに開催された本展がどんなものになるのか、やや不安があった。だが、結果的には、展示作品の内容も展覧会の構成も、従来の岡上淑子像を更新する画期的なものになっていた。

まず、国内収蔵作品に加えて、アメリカ・テキサス州のヒューストン美術館の収蔵作品が「里帰り」している。それに加えて、周辺資料の充実が目につく。岡上のタケミヤ画廊での初個展(1953)をプロデュースした瀧口修造の関連資料、フォトコラージュの元にになった『LIFE』、『VOGUE』、『Harper’s Bazaar』などの原本、洋裁を勉強していた頃の型紙、さらに岡上の作品に登場してくる、バレンシアガやディオールの1950年代のドレスの実物も展示してあった。これらの周辺資料によって、岡上の作品世界がよりくっきりと、立体的に浮かび上がってきていた。

新館には《懺悔室の展望》《翻弄するミューズたち》《私たちは自由よ》の三部構成でフォトコラージュ作品が展示されていた。それぞれ、敗戦後の「荒野」を彷彿とさせる廃墟のイメージ、男性中心の社会を翻弄するコケティッシュなミューズたち、戦後の自由を謳歌する女性たちの出現、という具合に岡上のフォトコラージュを読み解いていく試みは、とてもスリリングで興味深いものだった。担当学芸員の神保京子の、長年にわたる研究の成果がよく発揮されたパートといえる。とはいえ、岡上の仕事をどのように戦後写真の表現の系譜に位置づけていくかは、むしろこれから先の大きな課題となる。1950年代の主観主義写真や実験工房のムーブメントとの関わりも含めて、さらなるパースペクティブの構築が必要になるだろう。

2019/02/05(火)(飯沢耕太郎)

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第18回写真「1_WALL」グランプリ受賞者個展 中野泰輔展「HYPER/PIP」

会期:2019/01/29~2019/02/15

ガーディアン・ガーデン[東京都]

第18回写真「1_WALL」展のグランプリ受賞者記念展として開催された中野泰輔の個展会場には、大小60点余りの写真が壁に散りばめられていた。被写体の幅はかなり広く、人、モノなどが見境なく入り混じる場面が写し取られている。その画像の表面が、虹色に輝く気泡を含んだゼリー状の膜に覆われているので、水の中を漂うような浮遊感が生じる。全体的に見ると、開放感よりは閉塞感、どこか歪んだ居心地の悪い画像の集積と言えるだろう。若い女性、子供、パソコンや携帯電話といった頻出するイメージをつなぎ合わせても、中野が何を伝えたいのかはクリアーには見えてこない。むしろ、彼はそのようなロジカルな理解に向かう回路を、かなり意図的に断ち切ろうとしているようだ。結果的に、観客はある種の不快感、欠落感を抱えて会場を後にすることになる。

中野がここで試みようとしているのは、無意識レベルで蠢く欲望や感情に形を与えることだと思う。それは半ば成功しているが、このままだと中途半端なものになりそうでもある。ゼリー状の膜越しに写し出されている世界を見るという、手法の操作性が目につきすぎて、中野の制作行為と共振するような状態にうまく入り込みにくいからだ。写真の選択や会場構成を見る限り、彼の創作意欲と表現能力の高さは疑い容れないので、手法があまり目立たないような方向にシフトしていってほしい。むしろ次作が大事になってくるのではないだろうか。

2019/02/02(土)(飯沢耕太郎)

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