artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
野村恵子『Otari - Pristine Peaks』
発行所:スーパーラボ
発行年:2018
野村恵子の写真家としてのキャリアにおいて、ひとつの区切りであり、新たな方向に一歩踏み出した、重要な意味を持つ写真集である。写真の舞台になっているのは、山深い長野県北安曇郡小谷村。「厳しくも豊穣な山の自然とめぐる季節の流れの中で」暮らす住人たちの姿が、新たな命を妊ったひとりの若い女性を中心に描かれる。特に注目すべきなのは、狩猟と祭礼のイメージである。農耕民とはまったく異なる原理に貫かれた、まさに日本人の暮らしの原型といえるようなあり方をしっかりと見つめ、写真に残しておこうという意欲が全編に貫かれている。
いわば、濱谷浩が『雪国』(1956)や『裏日本』(1957)で試みた、民俗学をバックグラウンドとするドキュメンタリー写真の現代版といえるのだが、野村の写真は、若い女性の身体性を強く押し出すことで、「女性原理」的な視点をより強く感じさせるものになっている。プライヴェートな関係性にこだわってきた、これまで野村の仕事と比較すると、風土性、社会性へもきちんと目配りしており、緊張感を孕みつつ、気持ちよく目に馴染んでいく写真集に仕上がっていた。
なお、野村は入江泰吉記念奈良市写真美術館で古賀絵里子との二人展「Life Live Love」(2018年10月26日~12月24日)を開催した。同展にも本書の作品の一部が展示されていた。
関連レビュー
野村恵子×古賀絵里子「Life Live Love」|高嶋慈:artscapeレビュー
2018/12/30(日)(飯沢耕太郎)
中井菜央『繡』
発行所:赤々舎
発行日:2018/12/03
中井菜央の写真はこれまで何度か目にしたことがあるが、公募展に応募されたポートフォリオや写真展に並んだ作品を見て、いつもどこか物足りなさを感じていた。よくまとまった、志の高い作品なのだが、着地点が定まっていない印象をずっと持ち続けてきたのだ。だが、今回赤々舎から上梓された写真集『繡』のページを繰ると、もやもやしたものが払拭され、中井にとっての写真のあり方が、一本のクリアーな筋道としてすっきりと見えてきたように感じた。「写真集を作る」ということが、ひとりの写真家を大きく成長させるという有力な証左ではないだろうか。
中井が「ポートレート」を撮り始めたきっかけは、祖母のアルツハイマーの症状が進行していったことだった。亡くなるまでの数年間に撮影された写真群には、「祖母自身が培ってきた自己イメージの祖母でも、私のうちに蓄積されて北イメージの祖母でも、また、新たなイメージの祖母でもなく、しかし『祖母』としかいいようのない個の存在」が写り込んでいた。中井はやがて、その「個の存在」は「意味よりも先行し、かつ強い」と確信するようになる。その認識を敷衍することで、被写体の幅は、身近な他者の「ポートレート」から、モノ、植物、小さな生きもの、都市や森の光景などにまで広がっていった。
写真集には、それらがまき散らされるように配置されている。だが、写真を見ているとそれぞれが勝手な方向を向いているのではなく、見えない糸でつなぎ合わされているように見えてくる。それもそのはずで、中井の関心は次第に「個の存在」そのものより、むしろそれらが絡み合い、重なり合うことで形成される、「人が意図せず、束の間で解ける関わり、結び目」に向けられていったからだ。その「結び目」を嗅ぎ当てる能力が、以前より格段に上がっていることに瞠目させられた。一冊にまとめるタイミングと方向性はこれでいいのだが、ここから先をもっと見てみたい写真集でもある。
2018/12/29(土)(飯沢耕太郎)
釣崎清隆「Days of the Dead」
会期:2018/12/14~2019/12/26
新宿眼科画廊[東京都]
「九相図」とは、死体が朽ち果てていく様子を九段階の場面に分けて描いた仏教絵画である。絶世の美女が腐敗し、骨になって焼かれるまでの変化を観ることで、現世の肉体が不浄であり、無常であることを認識するために、中世に絵巻物や屏風の形で盛んに描かれた。釣崎清隆の「Days of the Dead」のシリーズは、まさに写真による現代の「九相図」といえるだろう。
釣崎は、1994年からタイ、メキシコ、コロンビア、ロシア、パレスチナ、そして日本などで、死者たちの姿を撮り続けてきた。自殺、交通事故、殺人事件、死体安置所、法医学鑑定所など、死体をめぐる状況は多種多様だが、美的、主観的な解釈を最小限に留めてその佇まいを客観的な記録として撮影している。それらを集成した写真集『The Dead』(東京キララ社)の刊行を受けた、今回の新宿眼科画廊での個展では、180点をおさめた写真集から20点を抜粋して展示している。
死者を撮影し、その写真を発表するという行為には、絵画以上の困難がある。当然ながら、より直接的で生々しい画像となる写真の場合、死者、あるいは遺族に対する冒涜ではないかという倫理的な非難がつねにつきまとってくるからだ。そのようなタブーの意識は、このところ、さらに強まってきているようだ。実際に、今回の写真集の出版に際しても、印刷や製本を引き受けてくれる会社を探すこと自体が大変だったようだ。だが釣崎の写真を見れば、それらがけっして覗き見趣味の産物ではなく、現代社会における死者のあり方について真摯に考え抜き、答えを出すことを求め続けてきたものであることがすぐにわかるだろう。彼の仕事には、死者たちの姿を隠蔽してきた現代文明に対する根本的な批判が含まれている。
2018/12/21(金)(飯沢耕太郎)
小野祐次「Vice Versa - Les Tableaux 逆も真なり - 絵画頌」
会期:2018/12/12~2019/02/02
シュウゴアーツ[東京都]
教えられることの多い展示だった。1963年、福岡県生まれ、フランス在住の小野裕次のコンセプトは単純である。美術館等に展示された絵画作品を、わざわざ窓を開けてもらって自然光で照らし出し、大判カメラで正対して撮影する。そうすると、絵画の表面に当たった光によって、画家が描いた図像はほぼ消失し、キャンバスのマチエールやその上に塗られた絵具の層などが、額縁とともにくっきりと浮かび上がってくる。かつて画家たちがその絵を描いた時と同じ光の条件を追体験することで、まさにそれが絵画として生成していくプロセスが、リアルな物質感を伴って引き出されてくるといってもよい。
観客は小野の写真作品に、なんとも判然としないぼんやりとした像を見るわけだが、それがルーベンスやホルバインやフェルメールやモネの名画であることを知っていても知らなくても、その視覚的体験そのものが充分に面白く魅力的だ。「二次元の絵画を二次元の写真に還元する」というシンプルな行為によって、絵画がほんの数ミリほどの絵具の層が生み出すイリュージョンであることが暴かれるだけでなく、結果として、それがじつに豊かな想像力の広がりを生み出すことに驚きつつ感動した。光そのものを撮影の対象とする写真作品は、これまでもたくさん制作されてきたが、小野の試みは物質としての絵画を被写体とすることで、その可能性をさらに一段階、拡張・増幅したものといえるだろう。絵画に対するオマージュであると同時に、銀塩写真の表現力を褒め称える行為でもあるこの連作は、今後もさらなる厚みを持つシリーズに成長していくのではないだろうか。
2018/12/19(水)(飯沢耕太郎)
吉村芳生 超絶技巧を超えて
会期:2018/11/23~2019/01/20
東京ステーションギャラリー[東京都]
吉村芳生のまさに「超絶技巧」の極致というべき画業の数々を見ていて、思い起こしたのは高橋由一(1828~1894)のことである。
言うまでもなく、高橋由一は幕末から明治初期にかけての西洋画のパイオニアのひとりであり、日本の近代絵画の成立に決定的な役割を果たした。その由一にとって、写真と絵画との区別はほとんどなかったのではないだろうか。彼は、友人から借りた石版画があまりにもリアルであることに驚き、西洋画の習得を志すのだが、もしそれが写真であったとしても同じように反応したに違いない。由一は写真を下絵にした絵を何枚も描いているし、横山松三郎撮影の写真印画に油彩で着色を施している。つまり、由一の《鮭》や《なまり節》の油彩画は、まさに「写真よりも写真らしい絵画」をめざして描かれていたのではないだろうか。
吉村芳生の絵画作品にも同じことを感じる。「写真的なリアルさ」を極限まで肥大化させ、写真そのものをペンや色鉛筆で克明に写し取っていくことによって、写真と絵画の境界線は次第に溶け合い、写真でも絵画でもない奇妙な眺めが出現してくる。高橋由一の油彩画が、どれもリアルだが魔術的としか言いようのない物狂おしさを感じさせるように、吉村の巨大な花や新聞紙に描かれた自画像にもまた、写実を超えた“魂”が宿るようになる。高橋由一以来の写真と絵画の交流の歴史の成果が、吉村の画業に突然変異のように出現し、恐るべき厚みと密度で展開していくことに、何度も驚嘆の目を見張るしかなかった。
特に興味深く見たのは、1970年代後半~80年代に制作された「河原」「ROAD」「SCENE」などと題されたモノクロームの作品である。これらは白黒写真をグリッド状に区画し、その濃淡をそのまま引き写すことによって制作されたものだが、あたかも「アレ・ブレ・ボケ」のプリントのように見える。そのモチーフも佇まいも中平卓馬の『プロヴォーク』時代の作品とそっくりなこれらの作品を見ると、吉村がまさに同時代の空気感に鋭敏に反応していたことが伝わってくる。
2018/12/18(火)(飯沢耕太郎)