2021年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

あざみ野フォト・アニュアル とどまってみえるもの

会期:2021/01/23~2021/02/14

横浜市民ギャラリーあざみ野 展示室1[神奈川県]

毎年開催されている「あざみ野フォト・アニュアル」の一環として、今年は写真家7人による展示が実現した。出品作家は宇田川直寛、川島崇志、木原結花、チバガク、新居上実、平本成海、吉田志穂である。「コ・キュレーター」として1990年代から写真「ひとつぼ展」とその後身の「1_WALL展」をコーディネートしていた菅沼比呂志が加わっていることもあり、両公募企画のグランプリ受賞者、ファイナリストが多い。だが、企画意図としてはデジタルテクノロジーの進展によって、「写真表現の独自性を集約することすら不可能な時代」における、1980年代〜90年代生まれの写真を使うアーティストたちの動向に焦点を絞った企画といえるだろう。同時に、彼らが「コロナ禍という例外的な状況」にどう対応しようとしているかも大きなテーマとなっていた。

ペイントしたダンボールを「風景」に見立てて撮影する宇田川、震災や火山などの「カタストロフィの断片的な物語」を再構築する川島、「行旅死亡人」の架空の肖像をフォトモンタージュで作成する木原、デジタルツールで日常空間の再編成をもくろむチバ、コロナ禍の状況において「ミニチュアハウス」のイメージを増殖させる新居、地方新聞に掲載された写真で「固有名詞を持たない像をつくる」平本、インターネット上の情報や画像と実際に訪れた「山」のイメージとを重ね合わせる吉田――どの作品もさまざまな手法を用いて、よく練り上げられたインスタレーション展示を構築していた。だが、正直あまり面白くない。彼らそれぞれに、作品制作の意欲と動機があるはずなのだが、それがうまく伝わってこないのだ。 出品作家7人に共通しているのは、これまで「写真表現の独自性」と捉えられてきた制作の原理、例えば現実世界の実在性、一回性、個別性などをとりあえず括弧に入れ、操作可能なイメージの束と見なして再構築するという姿勢だろう。いうまでもなく、デジタル化を所与のものとして受け入れることから写真家としての活動を開始した彼らにとって、それはごく自然な選択だったはずだ。だが、デジタル画像がむしろ一般化してしまった現在では、手法のみが一人歩きして、何かを生み出したいという肝心要な動機づけが希薄になっているように感じる。今や「若手」から「中堅」に成りつつある彼らには、殻をもうひとつ破っていくような仕事を期待したいものだ。

2021/01/23(土)(飯沢耕太郎)

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公文健太郎『光の地形』

発行所:平凡社

発行日:2020/12/16

1981年生まれの公文健太郎は、このところ「農業がつくる日本の風景、土地がつくる人の営み、川がもたらすもの、季節が与えてくれるもの」を通して日本をもう一度見直そうとする、充実した仕事を続けている。平凡社から刊行された新刊の『光の地形』も意欲的な内容の写真集だった。

公文が今回撮影したのは、佐多岬半島、能登半島、島原半島、紀伊半島、薩摩半島、下北半島、男鹿半島、亀田半島という、日本各地の8つの半島の風景、地勢、そこに住む人たちの暮らしである。かつては、海と山をつなぐ海上交通の要として、文字通りの「先端」の地であった半島は、都市化の進行によって「行き止まりの場所」になってしまった。だが逆に半島を見直すことで、現在の日本の経済、文化、社会のあり方をあらためて問いかけることもできるわけで、公文の問題意識は極めて真っ当であり、多くの示唆をふくんでいると思う。

撮影の姿勢も、被写体ときちんと向き合った揺るぎのないものなのだが、写真集の、アンバー系の色味を強調した黒っぽい印刷はどうなのだろうか。公文は2016年のキヤノンギャラリーSでの個展「耕す人」(平凡社から同名の写真集も刊行)の頃から、意図的に暗めの調子のプリントで発表するようになった。観客や読者を写真の世界により集中させるためともいえるし、被写体によってはうまくマッチしている場合もある。だが、すべての写真を同一のトーンに塗り込めてしまうと、今回のように、それぞれの半島の個別性が薄れて均質な見え方になってしまう。視覚的情報を制限してしまうようなプリントの仕方が、うまくいっているとは思えない。個々の写真のあり方に即した、より細やかなトーン・コントロールが必要なのではないだろうか。

2021/01/17(日)(飯沢耕太郎)

本山周平「日本2010-2020」

会期:2021/01/09~2021/01/24

ギャラリー蒼穹舎[東京都]

本展のDMに使われ、同時に刊行された写真集『日本・NIPPON 2010-2020 』(蒼穹舎)にもおさめられた写真を見たとき、かなり強い驚きがあった。湖面に影を落とす富士山、突堤の根元のあたりにたたずむ人物を、やや引き気味に撮影した写真の構図、明暗、空気感が、日本に写真が渡来した幕末・明治初期に撮影された湿板写真のそれと、まったくそっくりなことに気づいたからだ。あらためて確認してみると、写真展に展示され、写真集に収録された写真の多くから同じ印象を受ける。これは明らかに意図的というべきだろう。

本山周平は、2010年にも同タイトルの写真集を刊行している。その後、2016年には『NIPPON2003-2013』と題するカラー写真の写真集を刊行した。これらと今回の『日本・NIPPON 2010-2020』を比較すると、引き気味で画面のどこかに人物を配した写真が確実に増えてきているのがわかる。本山はどこかで、彼自身が風景を見る眼差しのあり方が、日本の写真家たちが幕末・明治初期以来育てあげてきた美意識と共振することに気づいたのではないだろうか。そのことが、今回の展示の出品作品の選択にもしっかりと反映されていた。別な見方をすれば、19世紀から20世紀を経て21世紀へと至ったにもかかわらず、日本の風景、あるいは日本人が風景を見る視線の基本的な構造は変わっていないということになる。本山の写真によって、あらためてそのことを確認することができた。

本山の写真家デビューは1990年代だが、その頃の現実世界に荒々しく挑みかかるようなスナップショットのスタイルは、もはや遠いものになってしまった。今回の展示作品のクオリティの高さは特筆すべきだが、逆にかつてのダイナミックな写真のあり方を取り戻すことはできないのだろうかとも思ってしまう。

2021/01/15(金)(飯沢耕太郎)

佐藤岳彦「裸足の蛇」

会期:2021/01/07~2021/01/18

オリンパスギャラリー東京[東京都]

1983年、宮城県生まれの佐藤岳彦は、2018年に日本写真協会賞新人賞を受賞するなど、このところ注目を集めている若手写真家である。2018年に刊行した写真集『密怪生命』(講談社)では、生と死の境界領域に潜む生きものたちの姿を鮮烈な画像で捉え、自然写真の新たな方向性を開示した。今回、オリンパスギャラリー東京で開催された個展「裸足の蛇」でも、壁面全体を使って250点余りのプリントを貼り巡らすという、意欲的な展示を試みている。

展示内容は、日本、アジア、南米などで「蛇となって森羅を這いまわり、裸足の邂逅をかさねた15年」の成果をアトランダムに展開するものだ。写真撮影を通じて、「わたしの内に生命をみつめる」という旅の記録といってもよいだろう。生命現象の不可思議さが伝わってくる密度の濃い展示だったが、それほど広くない会場のスペースの問題もあって、インスタレーションが成功していたかどうかは疑問が残る。「目」のイメージを中心に、「見ることと見られること」を問い直すパート、粘菌の格子状のパターンのイメージを中心に組んだパート、乱舞する蝶たちを連続的に撮影した写真をモザイク的に展示したパートなど、部分的には興味深いのだが、全体としてはややまとまりを欠いていた。1点1点の写真が互いに相殺してしまって、むしろ均質な展示に見えてしまう。また、写真だけでは方向性がつかみにくいので、もう少し言葉によるメッセージを加えてもよかったのではないかと思う。

大きな可能性を持つ作家なので、もっと大きな会場で、違ったパッケージの展示を見てみたい。文章能力の高さを活かして、言葉の比率を高めた展覧会や写真集も考えられそうだ。

2021/01/09(土)(飯沢耕太郎)

今井壽恵の世界:第二期「生命(いのち)の輝き–名馬を追って」

会期:2021/01/07~2021/01/31

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

連続写真展「今井壽惠の世界」の第二期として、コミュニケーションギャラリーふげん社で開催された「生命(いのち)の輝き–名馬を追って」展は、第一期の「初期前衛作品『魂の詩1956–1974』」とはまた違った面白さがある好企画だった。第一期では、今井が写真家として認められるきっかけになった、「心象風景」をさまざまな手法で展開した作品が並んでいたが、第二期では1962年に交通事故で重傷を負った以後に撮影し始めた写真群が「名馬の肖像」、「ガラス絵の牧場」の2部構成で展示されている。

馬たちを撮影した写真では、「フォトポエム」と称された初期作品の実験的、前衛的な表現は抑制され、被写体をストレートに撮影したドキュメンタリーとしての要素が強まってきている。とはいえ、ジェネシス、トウカイテイオー、オグリキャップなどを撮影した「名馬の肖像」のパートと比較すると、展示の後半部の「ガラス絵の牧場」のパートの作品には、彼女の写真の表現のあり方がより明確にあらわれているように感じた。そこに登場してくる草原を疾走し、雪の中で戯れ、夕陽にシルエットで浮かび上がる馬たちは、固有名詞化された競走馬ではなく、むしろ生命力そのものの象徴として捉えられている。「たそがれて」(1978)のように、空に馬たちの姿をモンタージュで合成した初期作品に通じる作品もあり、今井自身の「魂」に直接響き合うイメージが見事に形をとっていた。

これまでは今井の「初期前衛作品」と後期の馬たちの写真は、対比的に見られることが多かった。だが、それらを「生命の輝き」、「魂の詩」を体現した作品群として、一体化して捉える視点も必要になるのではないだろうか。

2021/01/08(金)(飯沢耕太郎)

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