artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
ソール・ライターの原点 ニューヨークの色
会期:2023/07/08~2023/08/23
ヒカリエホール[東京都]
日本では2017年、2020年に続いて三度目になるソール・ライター展。これまでのBunkamuraザ・ミュージアムからヒカリエホールに移って、展示スペースも大きくなり、より「見せる」要素が強まってきた。それに伴って、ソール・ライターというやや特異なキャリアの写真家の広がりのある作品世界が、さらに細やかに、かつ華麗に展開されていた。
展示は以下の全5部から構成される。初期のモノクローム作品から成る「ストリート」、マース・カニングハム、ジョン・ケージ、アンディ・ウォーホルら1950年代から60年代に交友があったアーティストたちのポートレイトによる「アーティスト」、『ハーパーズ・バザー』誌などに掲載されたファッション写真の仕事を集成した「ソール・ライターとファッション写真」、画家としての仕事とカラーのスナップ写真とを対比する「カラーの源泉──画家ソール・ライター」、さらにエピローグとして、2013年の死去まで暮らしていたイースト・ヴィレッジの部屋を再現した「終の棲家」である。そして最後のパートには、「カラースライド・プロジェクション」のスペースが設けられ、彼の代表作が10台のプロジェクターで壁に大きく投影されていた。
オリジナルの『ハーパーズ・バザー』誌のページをそのまま開いて展示した「ソール・ライターとファッション写真」のパートも見応えがあったが、特に冒頭の「ストリート」のパートに並ぶ黒白のスナップ写真に、心揺さぶられるものを感じた。2017年のソール・ライター展のキュレーションを担当した、ポーリーヌ・ヴェルマールの言葉を借りれば、ソール・ライターの初期モノクローム作品は「実存的」である。路上の人物や事物は、黒々とした塊となり、個々の意味を剥ぎ取られたただの「存在」として、光と影の狭間に浮かび上がる。カメラを手に街を彷徨うソール・ライターの、孤独な魂が宿っているような何枚かの写真が、忘れ難く目に残って離れない。
公式サイト:https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/23_saulleiter/
関連レビュー
ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2020年02月01日号)
ニューヨークが生んだ伝説 写真家ソール・ライター展|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2017年05月15日号)
2023/07/09(日)(飯沢耕太郎)
竹下光士「聳えると崩れるは表裏一体」
会期:2023/06/28~2023/07/10
ケンコー・トキナー・ギャラリー[東京都]
ぱっと見ただけではわかりにくいタイトルである。だが、本展の「聳えると崩れるは表裏一体」というタイトルには、作者の竹下光士の強い思いが込められている。
竹下は2016年頃から「地形写真家」を名乗って活動し始めた。風景をその地形的な成り立ち──造山、風化、侵食、氷河などの諸事象を踏まえて撮影していこうとする試みである。写真文集『槍・穂高・上高地 地学ノート──地形を知れば山の見え方が変わる』(山と渓谷社)が完成したことを期して開催された今回の写真展でも、その「地形という見方」は貫かれている。竹下は今回、約20年ぶりに北アルプスの槍ヶ岳、穂高連峰に登ったのだという。そこで浮かび上がってきたのが、「風化」というテーマだった。聳え立つ岩山と、風化によって剥落した岩の堆積を対比的に撮影・構成した今回の展示では、まさに「山の見方が変わる」ような問題提起が為されていた。
ユニークな視点だし、写真の選択、レイアウト、並べ方もうまくいっている。ただ彼の意図が、写真と短いキャプションだけで充分に伝わるかといえば、そうとはいえないだろう。「風化」の具体的なあり方を、個々の写真に沿って丁寧に読み解いていくようなテキストが必要になりそうだ。これは竹下に限らず、日本のドキュメンタリー写真全般に言えることだが、写真と言葉との関係をもう少ししっかりと考えて、展覧会を構成していくことが必要になるだろう。とはいえ、竹下の「地形写真家」としての営みには、大きな可能性を感じる。いい鉱脈を発見したのだから、今後さらに先に進んでいってほしい。
公式サイト:https://www.kenko-tokina.co.jp/gallery/schedule/post_10.html
2023/07/01(土)(飯沢耕太郎)
オサム・ジェームス・中川「Witness Trees」
会期:2023/05/17~2023/07/01
PGI[東京都]
日本とアメリカの両方に出自を持ち、滞米45年になるというオサム・ジェームス・中川は、つねに自らのアイデンティティを問い直す作品を発表し続けてきた。2014年にPGIで展示され、同名の写真集も刊行された「GAMA CAVES」は、彼の妻にとって故郷でもある沖縄の、太平洋戦争末期に住人たちが避難し、多くの死者を出した洞窟にカメラを向けた写真群だった。今回の「Witness Trees」は、第二次世界大戦中に日系人が強制収容されていたキャンプの跡地、19ヶ所を訪れて撮影した写真を集成したシリーズである。
中川が目を留めたのは、マンザナー、アマチ、ハート・マウンテンなどの収容所跡地に生えている樹木である。それらはまさに、70年前に日系人にふりかかった出来事の目撃者(Witness)といえるだろう。樹を中心に、周囲の状況を丁寧に取り込んだ画面構成が、すべての写真に貫かれている。中川はさらに、写真のプリントにも徹底してこだわった。画像を複写し、それをさらにデジタル・データ化するというプロセスを踏んだだけでなく、ネガ画像とポジ画像を重ね合わせてソラリゼーション(画像反転)のような効果を生み出している。そうやって形成されたプリントは「過去と現在、ポジとネガ、アナログとデジタル」とが結びついた、「記憶の重み」を備えているように見えてくる。本作は、中川がこれまで写真家として積み上げてきた作品世界の到達点といえそうな、静謐だがパワフルな写真シリーズとして成立していた。
公式サイト:https://www.pgi.ac/exhibitions/8670
関連レビュー
オサム・ジェームス・中川、タイラジュン「UNDERFOOT」|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年05月15日号)
2023/06/29(木)(飯沢耕太郎)
新山清「松山にて」
会期:2023/06/16~2023/06/28
Alt_Medium[東京都]
新山清が1969年に亡くなってからすでに半世紀以上が過ぎた。普通なら、その仕事は忘れられてしまうか、あるいは逆に固定された価値づけの範囲におさまってしまうかのどちらかだろう。だが面白いことに、新山の場合にはそのどちらにも当てはまらず、若い世代の写真家やギャラリストによって、新たな「発見」や「発掘」が続き、写真展や写真集の形で写真作品が更新され続けている。今回のAlt_Mediumの個展でも、彼の「松山時代」にスポットを当てることで、新鮮な切り口のアプローチを見ることができた。
新山清は戦前に理化学研究所に勤めていたが、敗戦後の1946年に、身辺の整理を終えて故郷の松山に戻り、1952年まで当地で過ごした。今回の展示作品は、すべてその時期に撮影されたものである。新山といって思い浮かべるのは、被写体を端正かつ厳密なプリントで定着した、造形的な意識の強い写真群である。それらは「サブジェクティブ・フォトグラフィ」を提唱したオットー・シュタイネルトにも認められたのだった。だが、今回展示された「松山時代」の写真は、どちらかといえば身辺の人物や事物をのびやかに撮影したスナップ写真が多い。むろん、彼の被写体をしっかりと捉えきったカメラワーク、卓抜な画面構成の能力は、そこでも充分に発揮されているのだが、写真を撮ること、そしてそのことを通じて新たな視点を見出したことへの歓びが、ストレートに表明されているような作品が目についた。
子息の新山洋一氏による丹念で網羅的な作品保存の営みのおかげで、新山清の作品世界が、つねに開かれた状態にあるのは、とても素晴らしいことだと思う。彼の写真には、まだまだ未知の可能性が潜んでいるのではないだろうか。
公式サイト:https://altmedium.jp/post/715092972510773248/新山清-写真展松山にて
関連レビュー
新山清「VINTAGE」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2019年02月15日号)
2023/06/28(水)(飯沢耕太郎)
本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語
会期:2023/06/16~2023/09/24
東京都写真美術館 2階展示室[東京都]
本橋成一とロベール・ドアノーの二人展が開催されると聞いたときには、どちらかと言えば危惧感のほうが大きかった。1940年、東京・東中野生まれの本橋と、1912年、パリ郊外・ジャンティイ生まれのドアノーでは、世代も育ってきた環境も時代背景もまったく違っていて、二人の写真がどんな風に融合するのか想像がつかなかったのだ。
ところが、本展を見るなかで、その作品世界の「交差」が意外なほどにうまく成立していることに驚かされた。本展の出品作は「第1章 原点」「第2章 劇場と幕間」「第3章 街・劇場・広場」「第4章 人々の物語」「第5章 新たな物語へ」の5部構成になっている。それらを見ると、例えば炭坑夫(第1章)、サーカス(第2章)、市場(第3章)、家族(第4章)など、二人の写真家に共通するモチーフが、たびたび現われてくることに気がつく。第5章だけが、やや異なる世界を志向しているように見えるが、本橋とドアノーの被写体の選択の幅がかなり重なり合っていることがよくわかった。
だが、何よりも「交差」を強く感じるのは、ドアノーの孫にあたるクレモンティーヌ・ドルディルが本展のカタログに寄稿したエッセイ(「それでも人生は続く」)で指摘するように、「二人に共通しているのは、人々の仕事の現場と道具の中とにともに身を置いて撮影している」ということだろう。そのような、被写体に寄り添い、いわば彼らと「ともに」シャッターを切るような姿勢こそ、本橋とドアノーの写真が時代と場所を超えた共感を呼び寄せるゆえんなのではないだろうか。
このような、二人の写真家同士の思いがけない組み合わせを求めていくことは、東京都写真美術館の今後の展示活動の、ひとつの方向性を示唆しているようにも思える。本橋とドアノーのようなカップリングは、もっとほかにもありそうだ。
公式サイト:https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4534.html
2023/06/25(日)(飯沢耕太郎)