artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
猪瀬光「COMPLETE WORKS」
会期:2015/03/06~2015/04/19
森山大道は、展覧会にあわせて出版された『猪瀬光全作品』(月曜社)に寄せた「猪瀬光という名のミステリー」というテキストで、写真家をウーヴェ・ヨーンゾンの小説「三冊目のアヒム伝」に登場するアヒムになぞらえている。伝記作者が依頼を受けてアヒムという男に紹介されるのだが、ついにその正体をつかむことができず、伝記も未刊に終わるという筋書きだという。
たしかに、極端な寡作で知られる猪瀬にもアヒムめいた所があって、その正体をなかなかあらわそうとしない。というより、前回の個展(Space Kobo & Tomo、2001年)から14年が過ぎ、写真集の刊行(『VISIONS of JAPAN INOSE Kou』光琳社出版、1998年)からはもう既に17年も過ぎているということを考えると、正体をつかみようがないというのが正しいだろう。だが、その間にも「伝説」が一人歩きしていって、虚像のみが膨らんできていた。その意味では、関係者の方たちには大変な苦労があったとは思うが、今回の「COMPLETE WORKS」の展覧会、及び2冊のポートフォリオ(『DOGURA MAGURA』、『PHANTASMAGORIA』各30部限定)と全作品集の刊行は、画期的な企画なのではないかと思う。
あらためて、「DOGURA MAGURA」の写真群を見て感じるのは、彼が大阪芸術大学在学中の1982年から開始されたこのシリーズが、初期の代表作というだけに留まらず、ライフワーク的な意味を持ちはじめているということだ。2000年代以降に撮影された作品3点も加わることで、総点数は75点に達するとともに、旧作にも追加や見直しがおこなわれている。サーカスや解剖学教室などの特異な被写体に目を奪われがちだが、「DOGURA MAGURA」は、彼自身の生の起伏とともに伸び縮みし、成長していくシリーズであり、「私写真」的な要素がより強まってきている印象を受けた。
もう一つは、その湿り気がじっとりと滲み出てくるような白黒のコントラストの強いプリントワーク、偶発的で、常に変容していく被写体のフォルムに鋭敏に反応していく撮影のスタイルとも、「日本写真」の典型に思えることだ。日本の写真家たちが写真を通じて練り上げてきた現実把握のあり方を、極端に肥大化させ、純化したのが、まさに「DOGURA MAGURA」だったのではないだろうか。猪瀬の写真を孤立した営為としてではなく、むしろ「日本写真」の流れの中で捉え直してみることが必要になりそうだ。
第1期「DOGURA MAGURA」2015年3月6日~29日
第2期「PHANTASMAGORIA」2015年4月1日~19日
2015/03/07(土)(飯沢耕太郎)
北島敬三「ヘンリー・ダーガーの部屋」
会期:2015/02/20~2015/03/12
ヘンリー・ダーガー(Henry Darger 1892-1973)は、いうまでもなくシカゴの伝説的なアウトサイダー・アーティスト。病院の掃除夫の仕事を続けながら、『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ─アンジェリニアン戦争の嵐の物語』と題する、史上最大級の長大な挿絵入りの物語を制作し続けた。そのダーガーが生前暮らしていた部屋が、2000年4月に取り壊されることになり、急遽北島敬三が撮影したのが今回発表された「ヘンリー・ダーガーの部屋」である。なお、このシリーズは、2007年4月~7月に原美術館で開催された「ヘンリー・ダーガー─少女たちの戦いの物語 夢の楽園」展に際して刊行された小冊子『ヘンリー・ダーガーの部屋』(インペリアルプレス)にその一部が発表されたことがある。
むろん、このシリーズの見所は、いまは失われてしまったダーガーの部屋の細部を観客に追体験させるところにある。積み上げられた水彩絵具や色鉛筆、筆、タイプライター、コラージュやドローイングの材料として使われた絵本、広告、古写真などを、北島はライカと4×5判のリンホフテヒニカで丁寧に押さえていく。窓や照明器具からの光線に気を配り、そこに漂っている光の粒子をそっと拾い集めていくような撮影のやり方によって、観客はまさに時を超えて「ヘンリー・ダーガーの部屋」に連れていかれるのだ。北島がもともと備えている、被写体をリスペクトしつつ、本質的な部分を引き出していく能力が、充分に発揮されたいい仕事だと思う。点数を10点に絞り、会場を暗くしてスポットライトで作品を照らし出す会場構成もうまく決まっていた。
2015/03/05(木)(飯沢耕太郎)
川島小鳥「明星」
会期:2015/02/27~2015/03/15
パルコミュージアム[東京都]
写真集ではよくわからなかったことが、写真展を見ることによってくっきりとあらわれてくる場合がある。渋谷パルコ・パート1のパルコミュージアムで開催された川島小鳥の「明星」についていえば、それは「台湾であること」の重要性だったのではないだろうか。
川島は前作『未来ちゃん』(ナナロク社、2011年)の発表後、台湾を主な制作の場とするようになり、7万枚以上の写真を撮り下したのだという。主にユース世代を撮影したスナップ写真を中心とする、今回の「明星」展を見ていると、彼がその地に固有の空気感に深く魅せられ、被写体とシンクロするように、いきいきとシャッターを切っていることがよくわかる。台湾も急速に近代化が進み、消費文化が浸透することで、ここに登場する若者たちは、見た目は日本人とほとんど変わらないように見える。だが一方で、南国の気候・風土、植物、果実、食べ物などは、われわれから見るとかなりエキゾチックな雰囲気でもある。また現代のアニメキャラと、やや時代遅れの家具や電気製品とが共存する部屋の様子も、独特の雰囲気を醸し出す。つまり現在と過去、共通性と異質性が適度に、まったりとブレンドされているのが、まさに「台湾であること」であり、川島のカメラは実に的確にそのあたりの機微を捉えきっているのだ。
仮設のベニヤで会場を仕切り、カラフルな遊園地のように仕上げた写真のインスタレーション(会場構成=遠藤治郎)もとてもよかった。なお、この展覧会は5月~8月に台湾各地に巡回するという。現地での反応が楽しみだ。
(本稿執筆中に、川島が本作で第40回木村伊兵衛写真賞を受賞したというニュースが飛び込んできた。もう一人の受賞者は『絶景のポリフォニー』『okinawan portraits 2010-2012』の石川竜一だった)
2015/03/05(木)(飯沢耕太郎)
山崎弘義『DIARY 母と庭の肖像』
発行所:大隅書店
発行日:2015年2月25日
山崎弘義は森山大道に私淑し、ストリート・スナップを中心に発表してきた写真家だが、2001年9月4日から母親のポートレートを撮影し始めた。少し後には自宅の庭の片隅も同時に撮影し始める。母が86歳で亡くなる2004年10月26日まで、ほぼ毎日撮影し続けたそれらの写真の総数は3600枚以上に達したという。本書にはその一部が抜粋され、日記の文章とともにおさめられている。
山崎がなぜそんな撮影をしはじめたのか、その本当の理由は当人にもよくわかっていないのではないだろうか。認知症の母親の介護と仕事に追われる日々のなかで、「止むに止まれず」シャッターを切りはじめたということだろう。だが、時を経るに従って、その行為が「続けなければならない」という確信に変わっていった様子が、写真を見ているとしっかり伝わってくる。単純な慰めや安らぎということだけでもない。むしろ、カメラを通じて、日々微妙に変貌していく母親、人間の営みからは超然としている庭の植物たちを見つめつづけることに、写真家としての歓びを感じていたのではないかと想像できるのだ。あくまでも個人的な状況を記録したシリーズであるにもかかわらず、普遍性を感じさせるいい仕事だと思う。
なお、発行元の大隅書店からは、昨年『Akira Yoshimura Works/ 吉村朗写真集』が刊行されており、本書は第二弾の写真集となる。あまり評価されてこなかった、どちらかといえば地味な労作を、丁寧に写真集として形にしていこうという姿勢には頭が下がる。
2015/03/01(日)(飯沢耕太郎)
今井祝雄「Time Collection」
会期:2015/02/14~2015/03/11
Yumiko Chiba Associates/ viewing room shinjuku[東京都]
今井祝雄といえば、あの凄みのある「デイリーポートレイト」をまず思い浮かべる。1979年5月30日から、前日に撮影したポラロイド写真を手に持った自分の姿を撮影し続けているこのシリーズは、世紀をまたいで現在も継続中である。写真とは時間をスライスするメディアであるというのは、よくいわれることだが、まさにその物質的な厚みを可視化するという不可能な試みを成し遂げつつあるこのシリーズには、誰もが畏敬の念を抱かないわけにはいかないだろう。
今回のYumiko Chiba Associates/ viewing room shinjukuの展示では、やはり写真やヴィデオ映像を使って、時間の画像化を試みた作品が並んでいた。全裸の男性を連続的に撮影したポラロイド写真をモデルの体に貼り付けていく「時間の衣装」(1978年)や、時間をデジタル表示しているテレビの画面を、その数字が変化する1分以内に多重露光で撮影する「タイムコレクション」(1981年)などは、コンセプトが先行した頭でっかちの作品に思われがちだ。だが実際にそれらを見ると、その物質化の手続きが意外なほど生々しく、画像そのものの劣化もあって、見る者の記憶や感情を揺さぶる奇妙な魅力を放ちはじめているように感じる。1970年代に制作された高松次郎、榎倉康二、若江漢字などのコンセプチュアル・アートの写真作品もそうなのだが、まさに時の経過にともなう生成変化が、そこに具体的に生じてきていることが興味深い。デジタル化以降のメディアでも、同じような作品を制作することは可能だが、ポラロイド写真のような、魅力的な物質感は期待できないのではないだろうか。
2015/02/25(水)(飯沢耕太郎)