artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
ラッセル・スコット・ピーグラー「FROM INDIA」
会期:2015/01/28~2015/02/10
銀座ニコンサロン[東京都]
ラッセル・スコット・ピーグラーは1980年、アメリカ・サウスカロライナ州の生まれ。2003年に来日して、上智大学で日本語を学びつつ、写真作品を発表しはじめた。今回の展示はインド(デリー、ムンバイ、コルカタ、バナラシ、ダージリン)への旅の間に撮影したスナップショット群で、会場の壁を大小の写真で埋め尽くしていた。
人と犬と牛と山羊とが共存するインド各地の路上をさまよいつつ、 広角気味のレンズで被写体に肉薄していく写真のスタイルは、それほど目新しいものではない。いわゆる「インド写真」の典型にぴったりとおさまってしまう。だが、写真の周辺に絵の具で枠を描き、さらにその外側を手書きの文字でびっしりと埋め尽くす見せ方には可能性を感じた。「熱気にむせ返りながら、ガンジス川沿いを歩く。そのにおいはすさまじい。そして命のにおいがしている(原文は英語)」といったテキストは、インドの旅の途中で書かれた手記のようだ。その呪術的な雰囲気を醸し出すカリグラフィと、カオス的な状況のディテールを的確に描写していく写真とが、とてもうまく絡み合っていて、「忘れかけていた人間の根源を感じようとする欲望や、真の意味、本当の目的を見つけることへの渇望」を表現したいという作者の意図がいきいきと伝わってきた。
この手法は、インドだけでなく、他の国々の旅の写真にも適用できるのではないだろうか。日本の写真と日本語のテキストという組み合わせも、ぜひ見てみたいと思った。
2015/02/10(火)(飯沢耕太郎)
渡辺兼人写真展「半島/孤島/水無月の雫」
会期:2015/01/16~2015/02/14
ツァイト・フォト・サロン[東京都]
ツァイト・フォト・サロンは2014年9月に東京・日本橋から京橋に移転してリニューアル・オープンしたのだが、その第1回目と2回目の展示は、それぞれ写真作家と美術作家のグループ展だった。個展のスタートが誰なのかということに興味があったのだが、展示を見て、それが渡辺兼人だったことに納得した。渡辺は1982年以来、ツァイト・フォト・サロンで8回にわたって個展を開催しているという。ただし、最後の個展である2004年2月~3月の「陰は溶解する蜜蝋の」から11年ほど間を置いているので、ひさびさの展示ということになる。その間に写真を巡る状況は大きく変化したが、そんな中で彼の作品の見え方も違ってきているように思えた。
渡辺は基本的に、純粋に「写真そのもの」を志向する作家といえるだろう。その「写真至上主義」というべき作風が、デジタル全盛の現時点で逆に燻し銀の輝きを発しているように見えるのだ。今回の出品作は「半島」(16点、1997年)、「孤島」(6点、1999年)、「水無月の雫」(9点、1995年)の3シリーズ。それぞれ、樹木や草(「半島」)、建物(「孤島」)、海と空(「水無月の雫」)を写しているのだが、渡辺が被写体に強い関心を持っているわけではなさそうだ。むしろ、6
x 6、6 x 7、6 x 9のフォーマットの画面(印画紙は四切あるいは大全紙)に、モノクロームのフォルム、明暗、質感を、どのようにコントロールしておさめていくのかに全精力が傾けられている。そして、それは視覚的な画像情報としてほぼ完璧なレベルにまで達しており、多少なりとも写真作品を見続けてきた者なら、誰もが感嘆の声を上げてしまうだろう。
渡辺は長く東京綜合写真学校で講師を勤めているのだが、同校の学生には彼の影響を強く受けて「写真至上主義」の作品作りに向かう者もかなりいる。だがそれは諸刃の剣で、生半可な技術力ではその高みに追いつくのがむずかしいだけでなく、マンネリズムの袋小路に陥ってしまいがちだ。実は渡辺自身は、そのような隘路に入り込むのを、巧みに回避する術を心得ているのではないかと思う。たとえば、とても的確な、だが時には過度に文学的に思えるタイトルの付け方も、その一つだろう。彼が今後、作風を変えていくとはとても思えないが、新作をぜひ見てみたい。極上の眼の歓びを味わわせてくれるはずだ。
2015/01/24(土)(飯沢耕太郎)
蜷川実花:Self-image
会期:2015/01/24~2015/05/10
原美術館[東京都]
期待を裏切らない出来栄えといえるだろう。東京・品川の原美術館での蜷川実花展は、会期の長さを見てもわかるように力の入った展覧会だった。
会場は大きく1階と2階に分かれている。1階エントランスのギャラリー1は、3面スクリーンによる映像・音響インスタレーション(音楽/渋谷慶一郎)で、金魚の群れ、群衆、眼、唇などのイメージが、壁一面に浮遊する。ギャラリー2には写真集『noir』(2010年)の収録作品とその発展形の写真が、壁紙のように大伸ばしされた画像の上に架けられていた。ここまでは、従来の「見慣れた」作品世界を、見世物小屋的に開陳した造りになっている。
だが、2階は雰囲気ががらりと変わって、「PLANT A TREE」(2011年、撮影は2010年)、「Self-image」(2013年)のシリーズから抜粋した作品が並んでいる。この2作品は、今のところ蜷川のベストというべきシリーズであり、新たな作品世界を、数を押さえて抑制した展示で見せていこうという強い意欲が感じられた。特に最後のギャラリー5に展示されたモノクロームのセルフポートレートは、まさに「生身に近い、何も武装していない」蜷川自身をさらけ出すという暴挙を、あえて試みた注目作と言える。2階の廊下の床を白黒の市松模様に貼り替えるなど、会場全体の構成を含めて、蜷川の持ち前の演出力が際立った展覧会といえるのではないだろうか。
だが、「期待を裏切らない」というのは予想の範囲内でもある。超満員のオープニングを見ればわかるように、日本の写真界を牽引する立場に立った彼女に対しては、注目度も格段に上がっている。「次」が常に求められていることを心に留めていてほしいものだ。
2015/01/22(木)(飯沢耕太郎)
山本昌男「浄」
会期:2015/01/14~2015/02/07
Mizuma Art Gallery[東京都]
2009年以来というから、山本昌男の個展もひさしぶりだ。山本は日本よりもむしろアメリカやヨーロッパで評価の高い写真作家で、モノクロームの小さなプリント(時には微妙な調色が施される)を、壁面にまき散らすようにインスタレーションする作品で知られている。写真に写っているのは、身辺のこれまた小さな出来事が多いが、それらの付けあわせ方に独特の繊細で軽やかな美意識が働いており、「俳句的な表現」と評されることも多い。
今回のMizuma Art Galleryでの展示では、その山本の作品世界がかなり大きく変わりつつあることに驚かされた。「浄」シリーズの被写体は「作家の目に留まった路傍の石や木の根」であり、それらが黒バックで、クローズアップ気味にしっかりと撮影されている。複数の写真が響きあうように配置されていたこれまでの作品と比べると、一点一点の自立性が高く、しかも裏打ちされたパネルやフレームに入れる形で、それぞれ独立して展示されている。山本の被写体を見つめる眼差しも、緊張感と強度を孕んだものになってきていた。奥の部屋は、写真に鉄の鎖、鏡などを配したインスタレーションの展示だが、それらもシンプルで重々しい印象を与える。
彼が今後どんな風にこのシリーズを展開していくのかは、まだわからないが、新たな領域に踏み出していこうとする強い意欲を感じた。むろん以前の作風との融合・合体も考えられると思うので、もう少し、どうなっていくのかを見守っていきたい。
2015/01/20(火)(飯沢耕太郎)
長町文聖「White Album」
会期:2015/01/16~2015/01/18
photographers’ gallery[東京都]
長町文聖は東京綜合写真専門学校写真芸術第二学科を卒業した1995年頃から、4×5インチ、さらに8×10インチサイズの大判カメラで、カラー写真の路上スナップを撮影しはじめた。それらを大きく引き伸ばして展示する個展を、東京都内のギャラリーや韓国・ソウルなどで開催し、注目を集めたのだが、2003年の個展「CUT-on white-」(東京・再春館ギャラリー)以来、活動を休止していた。今回のphotographers’ galleryでの展覧会は、実に11年ぶりということになる。
5点の展示作品は、以前とほとんど変わりないように見える。だが、仔細に見ると、以前は路上を行き交う人々のうちの誰かを、中心的な被写体として選択して画面に配置していたのだが、その所在がやや不明確になってきている。また、大判カメラ特有の被写界深度の浅さによるボケの効果を、積極的に取り込もうとしているのがわかる。作品によっては、手前ではなく後ろの人物にピントが合っていることがあるのだ。もう一つの大きな違いは、新宿や渋谷などで撮影していたのが、長町のホームタウンである東京都町田市が舞台になっていることだ。町田は都会とも地方都市ともつかない、中途半端な雰囲気の街であり、そのことが彼の路上スナップのあり方(人と環境との関係)に、微妙な、だが重要な変化をもたらしつつあることが予想できる。今回の展示はまだ中間報告というべきであり、数も少ないので、今後町田を撮りつづけることで、面白いシリーズに成長していくのではないだろうか。
2015/01/18(日)(飯沢耕太郎)