artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
初芝涼子「Consciousness」
会期:2023/02/20~2023/02/25
巷房[東京都]
初めて見る作家の展示だが、とても面白かった。1978年、千葉県生まれの初芝涼子は、桑沢デザイン研究所在学中から写真作品を制作し始め、東京を拠点に活動を続けている。今回は、巷房の3階、地下1階、階段下の3会場を全部使って、意欲的な展示を展開していた。
作品は5つのパートに分かれている。3階の巷房・1には、鯨やイルカなどのフィギュアを空中に浮かせて、「原初的な意識体験」を再現しようとした「Swim」と、抽象画やミニマルアートの作品を黒白印画に置き換える「境界線」が、地下1階の巷房・2には、マッコウクジラの寝ている姿を、フィギュアを使って撮影した「Whale」と、蓮の花を焼いて炭化させたオブジェをモチーフとする「黒の曼荼羅」が出品されていた。また階段下では、「Material」と題して、「黒の曼荼羅」で使った蓮のオブジェによるインスタレーションを試みていた。
作品はゆるやかに重なり合いながらも、それぞれ異なる領域を志向しており、全体としての統一感はそれほどない。だが、初芝自身がこれまで育て上げてきたさまざまな想念が、的確な技術とよく練り上げられた制作のプロセスを経て具現化しており、完成度はとても高い。「Swim」や「Whale」の、夢みがちな子どもに語りかけるようなスタイルは、たとえば写真絵本のようなものに発展していく可能性があるのではないだろうか。カジミール・マレヴィッチ、ドナルド・ジャッド、バーネット・ニューマンらの作品を踏まえた「境界線」も、より広がりのあるシリーズとして展開できそうだ。それらの作品世界が融合することで、さらに思いもよらない「何か」が出現してきそうな予感もする。
公式サイト:https://gallerykobo.web.fc2.com/194512/
2023/02/22(水)(飯沢耕太郎)
楢橋朝子「春は曙」
会期:2023/02/01~2023/03/18
PGI[東京都]
1989年は昭和から平成へと元号が変わった年である。楢橋朝子は早稲田大学第二文学部を卒業したものの、写真家としての道筋を掴みきれず、「手に職があるようなないような不安定な」状況にあった。それでもこの年、「春は曙」と題する連続個展を3回にわたって開催している。今回のPGIでの展示は、その個展出品作を中心としたもので、当時のネガからあらためてプリントしている。
6×6判と35ミリ判が混在する写真群は、基本的には旅の産物といえるだろう。青森県竜飛岬から沖縄・石垣島に至るまで、その足跡は日本各地に及んでいる。三宅島、御蔵島など、離島の写真も多い。観光名所のような場所はあまり写っていない。風景、看板、モノなどに向けられた視線は、呼吸するように伸び縮みし、視覚よりもむしろ触覚にこだわっている様子が見える。のちに最初の写真集『NU・E』(蒼穹舎、1997)にまとまってくる、楢橋特有の、不定形な生きもののような世界像が、少しずつ形をとり始めている。一人の写真家が、もがきつつその「文体」を作りあげていくプロセスが、個々の写真に刻みつけられているように感じた。
こういう展示を見ていると、揺るぎない作品世界を確立していく前の、むしろどう動いていくかわからないカオス状態の時期の仕事をふり返ることが、重要な意味を持っていることがわかる。もしかすると、この展示をきっかけにして、楢橋自身の写真家としてのあり方もまた、変わっていくのかもしれない。なお、展示にあわせてオシリスから同名の写真集が刊行された。
公式サイト:https://www.pgi.ac/exhibitions/8481
2023/02/20(月)(飯沢耕太郎)
それぞれのふたり 萩原朔美と榎本了壱
会期:2022/12/03~2023/04/09
世田谷美術館[東京都]
萩原朔美と榎本了壱は1969年に寺山修司が主宰する天井桟敷館(東京都渋谷区)で出会った。自主映画制作や共同事務所の運営を通じて関係が深まり、1974年の伝説的なカルチャー誌『ビックリハウス』の創刊に至る。その後も、付かず離れずの関係を続けて、萩原は多摩美術大学で、榎本は京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)で教鞭を執るとともに、アート/カルチャー・シーンともかかわり続けてきた。また「自分に向かい合う」ことで、それぞれ精力的に作品制作にも取り組むようになっていった。
今回の展示は、世田谷美術館に収蔵された作品による「ミュージアム・コレクション展」だが、二人合わせて300点近くが出品されており、質量ともに驚くべき内容といえる。その旺盛な創作意欲に圧倒させられた。澁澤龍彥作『高丘親王航海記』(文藝春秋、1987)を、ドローイングを付して「書写」した榎本の大作(全84点)にも度肝を抜かれたが、萩原がこのところ集中して制作している道路の自転車マーク、塀の染み、ドアスコープの画像などを大量に撮影してモザイク状に並べた「差異と反復」シリーズが異様に面白い。萩原はまた、セルフポートレートにも執着しており、「電信柱に映っている私」など、自分の影、手の一部、鏡像などを繰り返し撮影した作品も作り続けている。これらの仕事は、ものを創る歓びそのものの表明といえるだろう。
なお会場では、萩原が2018年に制作した《山崎博の海》も上映されていた。高校時代からの親しい友人でもあった写真家、山崎博にオマージュを捧げた、感動的な映像作品である。
公式サイト:https://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/collection/detail.php?id=col00116
2023/02/09(木)(飯沢耕太郎)
金村修「Can I Help Me?」
会期:2023/02/02~2023/02/26
MEM[東京都]
何かが吹っ切れたのではないだろうか。東京・恵比寿のMEMで開催された金村修の写真、映像、ドローイング、コラージュによる新作展「Can I Help Me?」は、快挙ともいうべき見応えのある展示だった。
もともと2021年にニューヨークの dieFirmaで開催した小松浩子との二人展に出品された、壁全面にマスキングテープで貼り巡らしたサービス判のカラープリントをそのまま引き剥がして持ちかえり、少し隙間をあけて壁に貼ったり床に丸めて積み上げたりしている。その写真群に覆いかぶさるように映像が上映されていた。写真も映像も混沌とした日常そのものの断片だが、食べ物や看板など、グロテスクに肥大する欲望を投影したものが目につく。むしろ、金村本人の美意識や価値基準から外れたものをわざと選んでいるようにも見える。別室に展示されていたドローイングやコラージュでも、あえて毒のあるイメージを撒き散らしているようだった。
金村はこれまで、都市の路上を主なテーマとして、「写真」という表現手段の可能性を、純粋に、ミニマルに追求していく作品を発表していた。そのどちらかといえばフォルマリスティックなアプローチは、ときに「写真についての写真」という袋小路に行きついてしまいがちなところがあった。だが、今回の展示では、むしろその「写真」の枠組みを大胆に踏みにじり、自分がやりたいこと、見たいものを鷲掴みにして提示しているように見える。金村が本来持っていた「パンクな」アーティストとしてのあり方が、全面開花していた。この方向性には、まだまだ先がありそうだ。
公式サイト:https://mem-inc.jp/2023/01/20/kanemura2023/
2023/02/08(水)(飯沢耕太郎)
金サジ『物語』
発行所:赤々舎
発行日:2022/12/22
在日コリアン三世という自らの出自を踏まえて、独自の神話的世界を構築し、写真作品として提示する仕事を続けている金サジが、最初の写真集をまとめあげた。ジェンダー、植民地主義、戦争、自然破壊、文化的軋轢など、さまざまな問題を抱え込んだ老若男女が展開する壮大なスケールの「物語」は、複雑に絡み合いつつ枝分かれしていく。それだけでなく、大地、樹木、岩、さらに火や水などの神話的形象が随所にちりばめられ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの西洋絵画のイコノロジーまでが取り入れられている。野心的なプロジェクトの成果といえるだろう。
ただし、それぞれのヴィジョンに対する思いが強すぎて、それが金の神話世界においてどのような位置にあるのか、どう展開していくのかが伝わりきれていないように感じた。彼女自身の短いテキストが写真の間に挟み込まれ、巻末には早稲田大学教授の歴史学者、グレッグ・ドボルザークによる解説「トリックスターとトラウマ」が付されているのだが、それでもなかなかうまく全体像が形をとらない。もしかすると、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』のような、長大なテキストが必要になるのかもしれない。また、主人公にあたるようなキャラクターが成立していれば、「物語」としての流れを掴みやすかったのではないだろうか。
とはいえ、金の写真家としてのキャリアを考えると、これだけ豊かなイマジネーションの広がりをもち、しかもそれらを説得力のある場面として定着できる能力の高さは驚くべきものだ。日本の写真界の枠を超えて、国際的なレベルでも大きな評価が期待できそうだ。
関連レビュー
金サジ「物語」シリーズより「山に歩む舟」|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年12月15日号)
2023/02/05(日)(飯沢耕太郎)