artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

横谷宣「黙想録」

会期:2009/1/7~2/28

gallery bauhaus[東京都]

おそらく横谷宣という名前をほとんどの方は知らないだろう。僕も昨年9月まではまったく知らなかった。作家・翻訳者の田中真知さんに紹介され、彼の手作りアルバムを見せられた時、これはただ者ではないと感じた。そこに写っているのは彼が旅の途中で出会った風景だが、すべて褐色のソフトフォーカスの印画に焼き付けられている。最初に見た印象は、これはピクトリアリズム(絵画主義)の再来ではないかということだった。ピクトリアリズムは、19世紀末から20世紀初頭にかけて世界的に流行したスタイルで、ゴム印画法やブロムオイル法のような特殊な技法を使って「絵のような」画面を作り上げる。聞けば横谷もカメラやレンズを自製し、尿素を使った独特のトーニング(調色)をプリントに施しているのだと言う。
だが写真を見ているうちに、これは別にオールド・ファッションをめざしているのではなく、むしろ彼にとってのリアルな眺めをできうるかぎり正確に定着しようという強い意志のあらわれなのではないかと思いはじめた。そのことは今回のgallery bauhausの個展ではっきりと確認できたように思う。横谷の写真に写っているのは、彼が一番美しいと思っている黄昏時の光そのものを、どうしたらきちんと捉えることができるかという苦闘の結果である。そのためにカメラやレンズも改造し、求める光に出会うために、最小限の装備を身につけて砂漠を超えて何日も旅行する。今時こんな古風な求道者的な写真家がいること自体が驚きなのだが、もっと驚くべきことは、じわじわと口コミで彼の写真の魅力が伝わり、多くの観客がギャラリーを訪れ、作品を購入していることだ。そのピュアーな、だが不思議な抱擁力を備えた作品世界は、多くの人たちを巻き込みつつあるようだ。

2009/01/16(金)(飯沢耕太郎)

TARO賞の作家I

会期:2008/10/11~2009/1/12

川崎市岡本太郎美術館[東京都]

今井紀彰から電話があって、彼が出品している「TARO賞の作家I」展を観に行くことにした。会場の岡本太郎美術館は、川崎市の生田緑地のとても気持ちのいい場所にあるのだが、やや遠くて、足を運ぶには一日潰す覚悟がいる。この展示も行かなければと思っていたのに、ついずるずると最終日になってしまっていたのだ。
結果は行って得をした気分になった。今井は以前から写真を大画面に曼荼羅状に配置していくコラージュ作品を制作していたのだが、今回はそれがさらに進化して「ビデオコラージュ」になっていたのだ。ハイビジョン化によって画像の精度が増し、写真作品並みの細部のクォリティが実現できた。画面の分割、融合、合成などの視覚効果も簡単に使えるようになってきたのだという。とはいえデータの量は半端ではなく、10分程度の作品で、書き込みだけで40時間もかかる。デジタル機器の進化によって、逆に今井のような画像の物質性を追求する映像作家が出現してきたのはとても興味深いことだ。
内容的には、これまでの彼の「曼荼羅」作品と同様に、ブレークダンス、街の雑踏、水の輪廻、空と雲などの森羅万象が、点滅しつつ変幻していく魔術的な映像世界が構築されていた。もともと彼の中にあったシャーマン的な体質が、静止画像から動画になることで、より強化されているようにも感じる。今後の展開が大いに期待できそうだ。
「TARO賞の作家I」展の他の出品者は、えぐちりか、開発好明、風間サチコ、棚田康司、横井山泰。TARO賞も11回目を迎え、ユニークな作家が育ってきている。えぐちの増殖する卵の群れ、下着でできた食虫植物など、日常を異化する作品が面白かった。この中の何人かには、岡本太郎の作品世界のスケールの大きさまで肉迫していってもらいたいものだ。

2009/01/12(月)(飯沢耕太郎)

長野重一『遠い視線 玄冬』

発行所:蒼穹舎

発行日:2008年12月24日

長野重一は1925年生まれの写真家。1950年代からフォト・ジャーナリズムの最前線で活躍し、羽仁進監督の『彼女と彼』(1963)、『アンデスの花嫁』(1966公開)や市川崑監督の『東京オリンピック』(1965公開)などの映画では撮影を担当した。一時写真の現場からは離れていたが、1989年に写真集『遠い視線』(アイピーシー)を刊行。以後もコンスタントに写真集、写真展などの活動を展開している。80歳を超え、さすがに体調はあまりよくないようだが、そのスナップショットの切れ味に弛みがないことは、新刊の『遠い視線 玄冬』でも確かめることができた。
タイトルが示すように、この写真集は基本的に前作『遠い視線』の延長上にある。作品のキャプションに付された日付で見ると、1996年から2008年に撮影された街のスナップショット、151点で構成されている。長野のスナップから感じとれるのは、「知性」としかいいようのない平静沈着な視線のあり方だろう。ことさらに感情移入することなく、中心となる被写体からやや距離を置いて、周囲を取り込むように撮影していく。そこに巧まずして、時代の空気感や手触りが浮かび上がってくる。
だが写真集全体から感じとれるのは、何ともいいようのない「寂しさ」である。とりたててネガティブな場面が多いわけではなく、街を行き交い、佇む人たちの、ほっとするような場面が写り込んでいる写真も多い。にもかかわらず、孤独や寂しさがひたひたと押し寄せてくるような気配を感じてしまう。最後の2枚は品川区上大崎の自宅の窓から撮影されたもの。雷鳴が走り、ブルドーザーがクレーンで吊り下げられる──何かが壊れていく。後戻りはきかない。そんな日々の移り行きを、写真家はこれから先も静かに「遠い視線」で見つめ続けていくのだろう。
なお写真集の刊行にあわせるように写真展「人、ひとびと」(ギャラリー蒼穹舎、2009年1月8日~25日)、「色・いろいろ」(アイデムフォトギャラリー「シリウス」、2009年1月5日~21日)も開催された。前者は1960年代のポートレートを中心に、後者は長野には珍しいカラー作品を集めた展示である。どちらも彼の作品世界の意外な幅の広さと、的確でしかも遊び心があるカメラワークを楽しむことができた。

2009/01/10(土)(飯沢耕太郎)

ERIC『中国好運 GOODLUCK CHINA』

発行所:赤々舎

発行日:2008年11月22日

エリックこと鐘偉榮は1976年に香港で生まれ、日本に来て東京ヴィジュアルアーツで写真を学び、2001年頃から作品を発表するようになった。これまでは日本や世界各地のスポットを訪れる観光客を、やや皮肉な視線で見つめ、定着する、切れ味のいいスナップショットを撮影・発表してきたが、2005年頃から中国の人々にカメラを向けるようになった。そのことで彼自身の認識が大きく転換したということを、写真集のあとがきにあたる文章で彼はこんなふうに書いている。
「そして私は、自分が香港以外で初めて感情移入のできる被写体に出会えたことに気付いた。[中略]日本で日本人を写すとき(また、諸外国で彼地の人々を写すとき)、私は、その被写体に何の感情移入もせず、その意味では外側から捉えて、ただ『おもしろさ』を基準にシャッターを切ってきていた」。
この感情移入というのは、どうやらポジティブな共感や好意だけではないようだ。「強く反発することも決して少なくないし辟易することさえもある」という。だが、どちらかといえば距離を置いた、批評的な視点から撮影されていた彼のスナップショットが、少しずつ変化しつつあることは確かだと思う。少なくとも、このような愛憎相半ばした生々しい中国人のポートレートは、エリックのような複数の国に所属している写真家でないと、なかなか撮れないだろう。こうなると、彼のホームタウンである香港の写真も見てみたい。それにはもしかすると、これまでのような出合い頭のスナップショットではない方法論が必要になるかもしれない。

2009/01/10(土)(飯沢耕太郎)

石川直樹『VERNACULAR』/『Mt. Fuji』

VERNACULAR
発行所:赤々舎
発行日:2008.12.24
Mt. Fuji
発行所:リトルモア
発行日:2008.12.24

石川直樹も期待の若手写真家。「五大陸最高峰最年少登頂」という「冒険家」としての実績に加えて、昨年来写真集を立て続けに上梓し、『最後の冒険家』(集英社)で第6回開高健ノンフィクション賞を受賞して話題を集めるなど、各方面での活躍が目立つ。
『VERNACULAR』はその彼の新作写真集。フランス、エチオピア、ベニン、カナダ、ペルー、ボリビア、さらに沖縄の波照間島、岐阜県の白川郷などを巡り、その土地に固有の住居の姿を、ほぼ正面から記念写真を撮影するように捉えている。たしかに人がどのように家を建てて住みつくかを比較することで、「VERNACULAR」すなわち風土性、地域性、土着性のあり方を探るという石川の狙いは的確であり、スケールの大きな構想力とプロジェクトをきちんと実行していく優れた能力を感じさせる。ただし肝心の写真そのものに、弱々しく、緊張感を欠いているものが多いように思えてならない。旅の途上で撮られたプライヴェートなスナップを、主題となる写真のあいだに散りばめていく構成は、前作の『NEW DIMENSION』(赤々舎、2007)以来のものだが、その腰の据わらなさが逆効果になっている気がするのだ。
その点では同時発売された『Mt. Fuji』の方が、写真集としての構成はすっきりしている。19歳での初登頂以来、20回以上登っているという経験の積み重ねが、地を這うような登山者の視点へのこだわりにうまく結びついている。だがこの写真集でも、後半部分に祭りや寝袋などの写真が出てくるとイメージが拡散してしまう。石川にいま必要なのは、言いたいことを全部詰め込むのではなく、むしろ抑制し、集中力を高めていくことなのではないだろうか。

2008/12/31(水)(飯沢耕太郎)