artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

島尾伸三『中華幻紀』

発行所:usimaoda
発売:オシリス
発行日:2008.9.9

やや前に刊行された写真集だが、何度見直しても、不思議な微光を放っているような魅力的な作品群なのでここで紹介しておきたい。
島尾伸三は1981年から妻で写真家の潮田登久子とともに、中国各地を巡る旅に出かけるようになった。それから30年近く、年に数回のペースで続けられてきた旅の合間に撮影されたスナップショットを一冊にまとめたのが、この『中華幻紀』である。オールカラー、264ページ、ハードカバーの堂々たる造本だが、出版の資金は「つましい両親と優しい妹が残した土地を売って」作ったのだという。
旅といってもとりたてて目的があるわけではなく、島尾の視線はひたすらふらふらと路上をさまよい、裏通りや路地の奥へ奥へと入り込んでいく。そこで何気なく見出された、どこか既視感を誘う光景の集積、だがページをめくるうちに、なぜか魔物にでもひっさらわれてしまいそうな不穏な気配が漂いはじめる。たしかにどこにでもありそうな見慣れた眺めなのだが、そのあちこちに異界への裂け目が顔を覗かせているのだ。
その印象をより強めているのが、写真に付されたキャプションである。1980年代の「生活」シリーズ以来の島尾の得意技なのだが、その「朝が来るたびに死から蘇る神経は、覚醒に無頓着のままです」「時として、幻覚は現実に勝る実感を第三信号系にもたらし」といった謎めいた文言を読むと、宙吊りにされるような感覚がより昂進する。島尾の父である島尾敏雄は、夢の世界のリアリティを巧みに描き出す技術に優れた作家だった。その血脈がしっかりと受け継がれているということだろうか。

2008/12/31(水)(飯沢耕太郎)

森山大道「HOKKAIDO」

会期:12月19日~2月8日

RAT HOLE GALLERY[東京都]

森山大道は1978年5月から約2ケ月間北海道に滞在し、道内をあてもなくさまよいながら撮影を続けた。当時「名状しがたい不安」「欠落感」を抱え込んでいた彼は、「よし、もう一度日本中を見てやろう」という決意を固め、その最初の場所として北海道を選んだのだった。以前から明治時代に北海道開拓使の依頼で田本研三らが撮影した「北海道開拓写真」に惹かれるものがあり、彼らの記録写真と「もしかしたらある一点で、時間を超えてクロスすることができるかもしれない」(「写真記『北海道』」『新アサヒカメラ教室2』朝日新聞社、1979)というのが動機だったという。
結果的には「撮れば撮るほど、北海道の地が際限なく広がっていくような」無力感に捉えられるばかりで、思うような成果は得られなかったようだ。日本全国をもう一度しらみつぶしに撮り直してみるという計画も、結局北海道だけで挫折してしまう。だが今回RAT HOLE GALLERYで、初めて展示されたこの時の写真を見ると、森山が既にスナップシューターとしての揺るぎない眼差しを備えており、自分の体質に即した写真のスタイルを確立していることがよくわかる。特に大地に根ざした女性たちの姿を捉えた写真群には、森山の初期写真を特徴づけていた荒々しい苛立ちの身振りに代わって、「演歌的」とでも言いたくなるような安らぎを含み込んだ叙情性がはっきりとあらわれてきている。一般的には「大スランプ」の状態にあったとされるこの時期の森山の、写真家としての底力をあらためて感じさせてくれる充実した展示だった。

2008/12/25(木)(飯沢耕太郎)

甦る中山岩太──モダニズムの光と影

会期:12月13日~2月8日

東京都写真美術館3F展示室[東京都]

柴田敏雄展と同じ日にオープンした中山岩太展。こちらは1910~20年代にニューヨークとパリに居を定めて活動し、帰国後は兵庫県芦屋にスタジオを開設して、日本の戦前のモダニズム写真の中心人物となった中山岩太(1895~1949)の回顧展である。まったく対照的な企画だが、両方見ると写真表現の位相の広がりを感じることができる。目と頭を切り替えるのが大変そうではあるが、逆にちょっと得をしたような気分になるかもしれない。
ポスターやカタログの表紙にも使われている煙草をくゆらす女性のポートレート「上海から来た女」(1936年頃)は、一度見たら忘れられないような強い印象を残す作品である。物憂げな表情、光と闇の強烈なコントラスト、外人のダンサーをモデルにしているので、時代や撮影場所を特定できない不思議な時空間に落ち込んでいくように感じる。この作品も含めて、中山は常に美意識をぎりぎりまで研ぎ澄まし、外遊中に身につけたデカダンスの感覚を写真に刻みつけようとした。「私は美しいものが好きだ。運悪るく、美しいものに出逢わなかつた時には、デッチあげてでも、美しいものを作りあげたい」。彼は1938年にこんな言葉を書き残している。このような強烈な耽美主義は、戦争の泥沼に沈み込んでいこうとしていた時代においてはきわめて稀なものといえるだろう。
今回の展示は代表作55点によるものだが、そのなかには1995年の阪神・淡路大震災で、芦屋のスタジオが倒壊した時に救い出されたネガから、新たにプリントされた作品も含まれている。プリンターはラボテイクの比田井良一。劣化したネガからいかに情報を最大限に引き出して、オリジナルに近づけるか、その技術力の粋が凝らされている。あらためてモノクロームの銀塩プリントにおける、プリンターの役割の大きさを感じさせてくれた展示だった。

2008/12/12(金)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00000249.json s 1195470

柴田敏雄 展──ランドスケープ

会期:12月13日~2月8日

東京都写真美術館2F展示室[東京都]

1980年代から、ダムサイトやコンクリートの土砂崩れ防止堰などの人工的な構築物を中心に撮影してきた柴田敏雄の、国内では初めての本格的な回顧展。92年に第17回木村伊兵衛写真賞を受賞した時のシリーズ・タイトルが「日本典型」であったことでもわかるように、柴田が被写体とする風景は日本各地どこででも見ることができる見慣れた眺めである。だがそれらが4×5や8×10インチの大判カメラで精密に撮影され、巨大サイズの印画紙にプリントされて展示されると、思っても見なかった感覚が生じてくる。それらがまるで現代美術のインスタレーション作品のような、精妙なバランスで組み上げられた造形物に見えてくるのだ。
今回の展示では、柴田の代名詞ともいえるモノクロームの「ランドスケープ」に加えて、2005年頃から発表されるようになったカラー作品もあわせて観ることができた。「作品」として厳密に構成されたモノクローム作品と比較すると、同じく人工的な「インフラストラクチャー」を題材にしていても、カラー作品ではかなり印象が違ってきている。そこには現実世界のリアルな色彩や触感が生々しく写り込んでおり、風通しのよい開放的な気分があふれていた。モノクロームの風景写真を30年近く続けてきて、柴田の中に「撮影しなかった、落としてきてしまった風景がある」という思いが強まってきたのだという。たしかに「回顧展」には違いないのだが、彼がまだ意欲的に新たな分野にチャレンジしていこうとしていることがよく伝わってくる展示だった。

2008/12/12(金)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00000250.json s 1195469

写真屋・寺山修司

会期:11月19日~2月28日

BLD GALLERY[東京都]

劇団・天井桟敷を率いて、1960~70年代の「アングラ文化」の旗手であった寺山修司は、写真にも異様なほどの執着を見せていた。1973年に「荒木経惟に弟子入り」した寺山は、モデルを公募して『幻想写真館 犬神家の人々』の撮影を開始する。74年に東京、京都などで展覧会を開催し、75年には同名の写真集(読売新聞社)も刊行されたこのシリーズ以後にも、寺山はハンブルグ、ロンドンなどでその続編を撮影し、78年には南仏アルルの国際写真フェスティバルに参加して公開ワークショップをおこなうなど、精力的に活動を続けた。本展は会期を二つに分け(第1期は2008年12月27日まで、第2期は1月9日から)、その多彩なイメージ世界を紹介している。
写真展のカタログも兼ねて出版された『写真屋・寺山修司』(フィルムアート社)に寄せた「寺山修司と写真」で、四方田犬彦は「日本映画史の中で寺山修司は落着きが悪い」と述べる。その言い方を借りれば「日本写真史の中でも寺山修司は落着きが悪い」ということになるだろう。彼の撮影の舞台はすべてキッチュな見世物小屋のような人工空間であり、そこではカメラは徹底して「真を写す」のではなく、「偽を作る」道具として駆使されている。また彼は、できあがった写真そのものよりも、撮り手とモデルとの関係を揺さぶり、エキサイトさせていく撮影行為の方に関心を寄せていたように見える。
荒木経惟、深瀬昌久、沢渡朔のような、同時代に「虚実皮膜」を行き来する作品を作り続けた写真家たちとの影響関係も含めて、「写真屋・寺山修司」の位置づけをもう一度考え直していく契機となる、刺激的な展覧会だった。

2008/12/02(火)(飯沢耕太郎)