artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

花輪奈穂、高橋親夫ほか「仙台写真月間2021」

会期:2021/08/31~2021/10/03

仙台アーティストランプレイス SARP[宮城県]

仙台市在住の写真家、小岩勉の呼びかけで2001年から始まった「仙台写真月間」。毎年8月〜10月のこの時期に、SARPを舞台に写真家たちによる連続写真展を開催し続けてきた。今年は阿部明子、花輪奈穂、高橋親夫、小岩勉、野寺亜季子、稙田優子、桃生和成の7名が参加している。そのうち、9月7日〜12日開催の花輪奈穂「傍らに立つ」、高橋親夫「ここにいた時は子供だった」の展示を見ることができた。

1977年岩手県生まれで、2000年に東北芸術工科大学デザイン工学部情報デザイン学科を卒業した花輪奈穂は、透明シートにさまざまな「景色」の写真をプリントし、天井から吊るすインスタレーションを試みた。壁には大きく引き伸ばした布プリントが貼られており、複数の写真が重なり合い、干渉し合って、多層的な視覚的経験を再現している。海や、花や、森の写真は、それ自体の属性が曖昧になり、浮遊感のあるイメージの束として再編されており、その宙吊りの気分には、快感だけでなく微妙な不安感が漂っていた。より画像の組み合わせの精度を高めていけば、より高度な展開が期待できそうだ。

1947年、仙台市生まれで、一級建築士として活動しながら写真作品を発表してきた高橋親夫は、東日本大震災で大きな被害を受けた福島県浪江町、仙台市若林区などの幼稚園、小学校などを撮影した。単純にノスタルジアを喚起するだけではなく、時間が止まってしまった光景を静かに見つめ続ける行為には、痛みを共有していきたいという強い思いを感じとることができる。

地味だが、いい仕事を続けている写真家たちの仕事をフォローしてきた「仙台写真月間」の蓄積は、20年間でかなりの厚みに達しつつある。これまでの展示の情報をまとめた「仙台写真月間アーカイブ」の配信も開始されている。

公式サイト:https://2021.monthofphotography.jp

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2021/09/11(土)(飯沢耕太郎)

宮崎学「イマドキの野生動物」

会期:2021/08/24~2021/10/31

東京都写真美術館 2階展示室[東京都]

宮崎学の出現によって、日本の動物写真は大きく変わった。それまでは、カメラを抱えたヒト=写真家が自然環境と対峙しつつ、目の前にあらわれてきた動物や鳥に向けてシャッターを切るというやり方だった。だが、宮崎や同世代の写真家たちの何人か(たとえば昆虫写真の栗林慧)は、高度に発達した機材を駆使して、生き物たちにヒトの存在を意識させることなく撮影するやり方を編み出していく。そのことによって、それまでは味わうことができなかった視覚的体験を、驚くべきリアリティで記録・伝達することが可能になった。同時にそれは、ヒトがコントロールすることができない「なまの」状態の自然環境を見せてくれる仕掛けでもあった。

今回の「イマドキの野生動物」展では、宮崎が1972年にフリーの写真家として活動し始めて以来、生まれ故郷でもある長野県伊那谷を拠点として、日本各地で撮影してきた写真を集成している。それらを見ると、1990年代に相次いで発表された「死」(1993)、「アニマル黙示録/イマドキの野生動物」(1993-2012)の両作品が、重要な意味を持っていたことがわかる。むろんそれ以前の「ニホンカモシカ」(1970-1973)、「けもの道」(1976-1977)、「鷲と鷹」(1965-1980)、「フクロウ」(1982-1988)なども、高度な構想力と技術力とを合体させた素晴らしい業績なのだが、宮崎はこの2作品で動物写真のあり方そのものを問い直そうとした。シカやタヌキの遺骸が、分解され、土に還っていくまでを定点観測で追い続ける「死」も、都会の身近な環境に棲息する野生動物を「報道写真家」の視点で切り取る「アニマル黙示録」も、彼がもはや動物写真家の枠組みを超えて、生き物全体の生と死を視野に入れて活動し始めたことを、はっきりと差し示す作品だった。

宮崎は2000年代以降も、機材のデジタル化に対応しつつ、意欲的な作品を次々に発表していった。今回の展示には、近作の「新・アニマルアイズ」(2018-2021)、「君に見せたい空がある」(2020-2021)が出品されている。「ロボットカメラ」で、思いがけない動きをする動物たちの姿を捉えた「新・アニマルアイズ」、超ワイドの魚眼レンズを使って、まさに動物たちの視覚世界を体現する「君に見せたい空がある」は、宮崎がさらに大きな仕事にチャレンジしていくための準備作業のようでもある。

2021/09/05(日)(飯沢耕太郎)

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山城知佳子「リフレーミング」

会期:2021/08/17~2021/10/10

東京都写真美術館 地下1階展示室[東京都]

山城知佳子は2002年に沖縄県立芸術大学大学院造形芸術研究科環境造形専攻修了後、映像・写真作品を中心に精力的な発表を続けてきた。内外の美術館・ギャラリーでの企画展、アートフェアなどにも積極的に参加し、その評価を高めている。本展は、彼女の「ミッドキャリア個展として、その作品世界を総覧するはじめての本格的な機会」となるものであり、沖縄北部、伊江島、韓国・済州島で撮影され、「あいちトリエンナーレ2016」に出品された「土の人」(23分、2016)、新作の「リフレーミング」(33分、2021)の2つの映像作品を中心に、代表作が出品されていた。

山城の作品を特徴づけるのは、「沖縄」と「身体性」である。生まれ育った、沖縄の風土、歴史、記憶を映像にどう埋め込んでいくかは、彼女にとって最も重要な課題のひとつであり、初期から新作に至るまでその志向は一貫している。大事なのは、それを概念的にではなく、視覚、聴覚、触覚、さらには嗅覚や味覚さえも動員した全身的な身体感覚を通じて開示・伝達しようとしていることで、観客も頭ではなく「からだ」でそのメッセージを受け止めることを求められる。「土の人」や「リフレーミング」のような3面スクリーンを使った作品では、同時発生的に展開される出来事が、分裂したまま、映像と音声として観客に襲いかかることになる。最初はやや不安と戸惑いを覚えつつ、そこに巻き込まれていくのだが、そのうち、あらゆる刺激が一体化した渦の中に呑み込まれていくことを許容する瞬間が訪れる。その胎内回帰な一体感こそ、山城の映像作品の真骨頂というべきだろう。

もうひとつ重要な要素は、山城の作品から発する独特のユーモアだ。「リフレーミング」のような作品では、あちこちに、微笑から哄笑までさまざまな笑いの種が仕込まれていて、見終えた後で、いい泡盛をしこたま飲んだような酔い心地を感じた。「リフレーミング」の主要な登場人物は4人の男だが、彼らは「発端(ホッタン)」「探究(タンキュウ)」「模倣(モホウ)」「アワ」と名づけられている。このネーミングは、沖縄の男たちに対する、山城の辛辣なユーモアを込めた批評なのかもしれない。

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2021/09/04(土)(飯沢耕太郎)

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北野謙「未来の他者/密やかなる腕」

会期:2021/08/17~2021/08/31

MEM[東京都]

たまたま美術館で北野謙の作品「our face」を見た産婦人科医が、「赤ちゃんをテーマにした作品を作ることに興味はありますか?」と申し出たことから、「未来の他者」のシリーズの構想が形をとった。この世に生まれたばかりの赤ちゃんを撮影するのは、北野にとって、あらためて命の不思議さを考えるきっかけとなった。やがて、生後2〜6カ月ほどの赤ちゃんたちの姿を、大判のカラー印画紙を使ってフォトグラムで定着する作品が、コンスタントにでき上がってくるようになる。発想と手法の融合が、とてもうまくいったシリーズといえるだろう。

既に2019年の東京都写真美術館でのグループ展「イメージの洞窟:意識の源を探る」でも発表されたことのある「未来の他者」シリーズに加えて、今回の個展には新作の「密やかなる腕」が出品された。こちらは2020年前半のコロナ禍による緊急事態宣言の時期に撮影した、家族(「86歳の母、妻、大学生の娘と私」)や日常の写真がベースになっている。それらを、家族一人ひとりの腕を型取りして固めたセメントに、プリントし、コラージュした。北野がこのような「オブジェ」としての作品を発表するのは初めてだと思う。写真家の仕事としてはやや異例だが、緊急事態宣言下の日々のリアリティを、そのような形で残しておきたいという気持ちがよく伝わってきた。いくつかの試行錯誤を経て、北野の作品世界はより柔軟に拡張しつつある。次の展開も期待できそうだ。

2021/08/26(木)(飯沢耕太郎)

田凱「取るに足らないくもの力学」

会期:2021/08/19~2021/09/12

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

田凱は1984年、中国・河北省生まれの写真家。2014年に日本写真芸術専門学校を卒業し、2018年の第19回写真「1_WALL」でグランプリを受賞した。

その、故郷の石油産業の街を舞台にした叙事詩的な作品「生きてそこにいて」と、今回の「取るに足らないくもの力学」との印象はかなり違っている。以前のような、やや距離を置いて撮影した風景や人物写真は、今回の出品作にはあまりなく、被写体との関係が親密になってきているように感じた。会場構成も、大小の写真27点を撒き散らすように壁にインスタレーションし、より融通無碍なものになっている。直貼りのプリントとフレームに入れた写真を併用しているのも、これまではなかったことだ。日本滞在が長くなってきたことで、日本の写真家たちの「私写真」的な要素を、積極的に取り入れるようになってきたということだろうか。被写体の幅もかなり広く、人物、風景、モノ、植物などが混在している。共通しているのは、「アンバランスのバランス」といえそうな、微かな揺らぎ、微妙な気配を巧みに嗅ぎ当ててシャッターを切っていることで、そのあたりも日本の写真家たちの表現と呼応しているように感じる。

繊細な、いい仕事だとは思うのだが、以前のようなスケールの大きな画面構成が影を潜めているのはちょっと気になる。ことさら「中国人らしさ」を強調する必要はないが、自分の体質は大事にしてほしい。息の長い仕事ができる写真家なので、次は大作を期待したいものだ。

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田凱「生きてそこにいて」 |飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2019年08月01日号)

2021/08/25(水)(飯沢耕太郎)