artscapeレビュー

SYNKのレビュー/プレビュー

「織物以前 タパとフェルト」展

会期:2017/09/08~2017/11/21

LIXILギャラリー大阪[大阪府]

織機が生まれる以前、布の始まりはどのようなものだったろう。本展は、オセアニア(パプアニューギニア、フィジー、トンガ)の「タパ(樹皮布)」と、東南アジア(新疆ウイグル自治区カシュガル、トルコ)の「フェルト」を紹介し、布文化の始原を探るもの。そもそも、機織りによる織布は、オセアニアのごく限られた地域にしか伝播しなかったという。その代わりに不織布、つまり編布やタパが発達して、今日にまで伝えられている。タパは、カジの木の外皮を剥がし、水に晒して柔らかくした後、ハンマーなどで叩いて伸ばして作る。一見、紙のようにも見える素朴な材質感が魅力だ。製造に使う道具も展示で見ることができる。しかしその魅力を最大限にまで高めているのが、民族独自の装飾文様である。展示品の出品者でもある福本繁樹氏によれば、その装飾には神話、氏族の由来や名誉を表す重要な意味がある。皮膚に施すボディペインティングが、衣に変容したものと見られるそうだ。一方、遊牧民族が用いるフェルトのあたたかみにも独特の味わいがある。羊毛を幾層にも重ねて熱や圧などで加工し、シート状にしたものがフェルト。珍しい形のマントやアースカラーの美しい敷物が展示されている。世界の豊かな民族文化に触れて、手仕事と技術発展の意味、そして衣を纏うことの歴史の重層性について考えさせられる。[竹内有子]

2017/10/2(日)(SYNK)

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戦後の蘭字─アフリカと中東へ輸出された日本茶─

会期:2017/10/07~2017/12/10

フェルケール博物館[静岡県]

工業化以前、茶は生糸に次いで明治期日本の主要輸出品であった。「蘭字(らんじ)」とは、輸出茶の梱包に貼られた商標のことである。開港当初、静岡の茶は横浜で加工されて海外へ輸出されたが、明治32年に清水港が開港場に指定され、1906年(明治39年)に茶の輸出が開始されると、茶の再製加工、輸出の中心は静岡に移り、横浜で行なわれていた蘭字の印刷も静岡で行なわれるようになった。明治期には浮世絵の技術を用いて木版で摺られていた蘭字だが、大正から昭和初期にはオフセット印刷によるものも登場。戦後、茶輸出が衰退する1965年ごろ(昭和30年代)まで制作されていた。フェルケール博物館では、これまでにも常葉大学元教授の井手暢子氏の研究を元にして、主に明治期の蘭字を紹介する展覧会が企画されてきたが、2015年秋に開催された展覧会前後に日本紅茶株式会社および富士製茶株式会社の戦後の蘭字が多数発見、寄贈され、輸出茶商標の研究がさらに進みつつある。今回の展覧会は、これら新発見の戦後の蘭字に焦点を当て、その一端を紹介するものだ。
戦前期までの蘭字と、戦後期の蘭字の違いはなにか。印刷方式についてはすでに戦前からオフセット印刷が用いられている。展示品にはフルカラー印刷のものも見受けられるが、数色の特色版を用いているものも多い。特色版でもグラデーションに網点を用いているものもあれば、線画の密度で濃淡を表現しているものもある。大きな違いは図案だ。「蘭字」とは字義通りならばオランダ語のことだが、欧文一般を指す。日本茶は主に北米に輸出されていたために、茶商標としての蘭字には図案と英語によるブランド表記が行なわれていた。しかし、戦後は北米向け輸出が減少し、フランス領北アフリカに比重が移る。それに伴って言語はフランス語あるいはアラビア語が用いられるようになった。図案にはアラブ人の姿やエジプトの風景、動物などが描かれ、日本をイメージさせる意匠はほとんどない。それどころか、JAPANあるいはJAPONの文字をほとんど見ることができない。吉野亜湖氏の論考によれば、戦後北アフリカ市場で日本茶が受け入れられたのは日本の人件費が安く、低価格であったため。しかし日本茶は品質が悪いと評価されていて中国茶の水増しに用いられていたために、日本産であることを主張する必要がなかったのだという(本展図録、72頁)。また本展にはデザインがフランスの商社から支給されていたことを示す史料も出品されている。
10月21日に開催された同展関連シンポジウムでは、経済史、広告・マーケティング史、印刷史、デザイン史など、さまざまな視野からの報告と討論が行われ、蘭字デザインの研究は逆にそれらの歴史分野を補完する役割があるだろうことが示された。とくに興味深かったのは、ロバート・ヘリヤ氏の報告だ。ヘリヤ氏は、1869年(明治2年)に創業した日本茶輸出商社ヘリヤ商会の創業者、フレデリック・ヘリヤ氏の子孫で、現在はウェイク・フォレスト大学の准教授。報告は蘭字や広告を通じてアメリカにおける日本茶のマーケティングの様相を追うもので、19世紀末の日本の輸出茶が北米市場においてブランド力を持っていたこと、同時期にインド、セイロン茶がアメリカにおいて日本茶や中国茶に対してネガティブ・キャンペーンを展開していたことなどが示された。シンポジウムにおいて今回の展示の中心である戦後の蘭字についてはほとんど言及がなかったが、史料が発見されたばかりであり、貿易史料などと照合することで、これからより具体的な市場とデザインの関係が見えてくるだろうことを期待する。[新川徳彦]


会場風景

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蘭字と印刷──60年ぶりに現れた最後の輸出茶ラベル|SYNK(新川徳彦):artscapeレビュー

2017/10/21(土)(SYNK)

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キンダーブックの90年─童画と童謡でたどる子どもたちの世界─

会期:2017/10/21~2018/01/14

印刷博物館[東京都]

『キンダーブック』はフレーベル館が刊行する幼児向けの月刊保育絵本。1927年(昭和2年)11月に誕生し、今年で創刊90年を迎えた。印刷博物館で開催されているこの展覧会は、90年にわたる『キンダーブック』の歴史を、実物や絵本原画などによって辿る。展示は4部で構成されている。第1部は「観察絵本キンダーブックの誕生」。明治の終わりになると印刷技術の発展にともなって雑誌のカラー化が進み、同時期に子供向け絵雑誌が誕生する。ここでは『キンダーブック』誕生までに刊行された子供向け絵雑誌の数々が紹介されている。なかでもその質の高さで知られていたのは、1914年(大正3年)に婦人之友社が創刊した『子供之友』と、1922年(大正11年)に東京社が創刊した『コドモノクニ』だろう。『キンダーブック』は現在刊行されている幼児向けの月刊保育絵本のなかで最も歴史が古いが、大正から昭和初期に掛けて創刊された子供向け絵雑誌のなかでは後発だった。第2部は「キンダーブックで見る昭和史」。子供向け絵雑誌とはいえ、『キンダーブック』は教育を目的としているので、その内容には日常の暮らしや同時代の社会が取り上げられており、誌面を追うことで時代の流れを読むことができる。ここでは歴史的な出来事を示した年表と合わせて誌面が紹介されていると同時に、常に子供たちの心を捉えたであろう内容がテーマ別に紹介されている。なかでも「のりもの」や「宇宙」は今も昔もとくに男の子たちの心を捉えるテーマだ。時系列に見ると、創刊から1935年(昭和10年)頃までの誌面に描かれた子供たちの日常生活と、第2次世界大戦直前の誌面に現れる戦闘機や軍艦、防空壕や炭坑の解説との対比がとても興味深い。『キンダーブック』は1942年(昭和17年)4月に『ミクニノコドモ』と誌名を変え、1944年(昭和19年)2月から1946年(昭和21年)7月まで休刊する。戦後の号では、人々の暮らしが急速に変化していくさまを見ることができる。第3部「表現の変遷」では『キンダーブック』に寄稿した画家たちの原画や、造本の工夫、付録が紹介されている。第4部「私のキンダーブック時代」は、キンダーブックの読者、制作に関わってきた作家や画家たちによるエピソードだ。
『キンダーブック』を刊行するフレーベル館は、高市次郎によって保育用品・教材の開発と販売を目的として、1907年(明治40年)4月に設立された。『キンダーブック』の創刊は創業から20年後のことになる。1926年(大正15年)に「幼稚園令」が公布され、幼稚園の保育項目に新たに「観察」が加わった。『観察絵本キンダーブック』の創刊にはそのような時代背景がある。編集には倉橋惣三、岸辺福雄、和田実らの幼児教育専門家、武井武雄、西条八十、巌谷小波などの童画家や童謡、童話作家が顧問として加わった。内容もさることながら、『キンダーブック』の特徴はその販売方法にある。先行する子供向け絵雑誌が書店で販売していたのに対して、『キンダーブック』は書店や販売店を通さず幼稚園への直接販売を行なったのだ。契約が取れれば1年間の販売部数が確定でき、返本のリスクが少ない。現在では多くの幼児向け保育絵本・児童向け学習雑誌が行っている方法をいち早く取り入れたのが、『キンダーブック』だった。
本展ではまた絵雑誌の印刷についても焦点が当てられている。なかでも顧問として編集にも関わった武井武雄は印刷に造詣が深く、狙った効果を出すためにイラストを色別に墨で描いて版をつくる試みもしていたという。図録には明治末から昭和初期に掛けての絵雑誌の印刷方法に関する考察が収録されており、現在一般的に用いられているプロセスカラー印刷でなぜ当時のような印刷表現ができないのかを知ることができた。平版印刷という仕組みは同様でも版の作りかたが違うのだ。[新川徳彦]

関連レビュー

コドモノクニ展|SYNK(新川徳彦):artscapeレビュー

2017/10/20(金)(SYNK)

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更紗のきもの

会期:2017/10/03~2017/11/21

文化学園服飾博物館[東京都]

「更紗」とはインドを起源とする染物の総称。いつ頃から始まったのかは定かではないが、13世紀には大量生産が可能なほど、技術は発達していたという。技法としては手描きもあれば、プリントもある。染められる布は主に綿だが、絹や化繊もある。11-12世紀にはジャワ、そして17世紀以降にはヨーロッパ、日本でも江戸時代に作られるようになり、それぞれジャワ更紗、オランダ更紗、和更紗などと呼ばれている。染め方も素材も地域もさまざまとなると他の染色と何が違うのか、何が「更紗」なのかよく分からなくなるが、ブリタニカ百科事典には「人物、鳥獣、植物などの種々の模様を捺染」とあり、漠然と文様のありかたによって区別されるようだ。
展示はインド更紗から始まり、それが交易品として世界に広がり、世界各地の染織に影響を与え、模倣品を生み出した様子、そして明治から昭和初期の日本における更紗が紹介されている。インド更紗が交易品として各地で珍重された理由は、化学染料がなかった時代に、藍や茜を主体とした鮮やかな色彩の染色を他の地域ではできなかったからだ。ヨーロッパ各地では、インド更紗の輸入増大が貿易に不均衡をもたらし、輸入の制限、模倣と自国における生産が模索される。結果的にイギリスにおいて綿工業が産業革命の原動力のひとつとなったことはいうまでもない。アジアでは手仕事による模倣が行なわれたが、ヨーロッパでは染色工程には銅版プリントやシリンダーを用いた連続生産が導入された。日本に更紗がもたらされたのは16-17世紀(室町時代末~江戸時代)。南蛮貿易によってもたらされた文様染め木綿布が更紗と総称されたという。船載品はインド製のみならず、江戸時代後期にはヨーロッパ製のプリント綿布も輸入される。他方で江戸時代初期には日本でも輸入更紗を模倣した和更紗の製作が始まるが、輸入品のような鮮やかな色彩のものはつくることができなかったため、輸入品は変わらず珍重された。明治時代になると身分制による衣服の制限がなくなった。世界各地の文様が染色に取り入れるなかで更紗文様にも注目が集まり、明治から昭和初期にかけて更紗文様の図版集が相次いで出版された。『更紗圖案百題』(高橋白扇編、岸版画印刷所、1926年/大正15年)には、古渡り風の更紗、和風の文様の他に、ヨーロッパ、オリエント、アンデスなど世界各地の文様が収録されており、さまざまな文様が「更紗」と呼ばれ参照されていたことを示している。
展示品のなかでも印象的な逸品は三井家旧蔵「更紗切継ぎ杜若文様小袖」(江戸時代後期)。小袖の肩、裾、衽に17世紀から19世紀初めまでのものと考えられるインド製の22種類の更紗が継ぎ合わされている。古渡り更紗は小さな裂で家が買えるほどの価格であったと聞く。更紗に加えて胴には杜若(かきつばた)を手描きと刺繍で表したこの小袖は、どれほど高価なものであっただろうか。[新川徳彦]


展示風景

公式サイト:http://museum.bunka.ac.jp/exhibition/

関連レビュー

畠中光享コレクション インドに咲く染と織の華|SYNK(新川徳彦):artscapeレビュー

西洋更紗 トワル・ド・ジュイ|SYNK(新川徳彦):artscapeレビュー

2017/10/19(木)(SYNK)

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フィンランド独立100周年記念 フィンランド・デザイン展

会期:2017/09/09~2017/10/22

府中市美術館[東京都]

1159年から1809年まではスウェーデンの支配下、1809年から1917年まではロシアの支配下にあったフィンランドが独立して100年。本展では、フィンランドの独立前、1900年のパリ万国博覧会から現在までのフィンランド・デザインを時代順に6章に分けて概観している。興味深い展示は、1900年前後の工芸品。フィンランド・デザインというと、一般的には第二次世界大戦後の北欧デザイン・ブーム、モダン・デザインのプロダクトを目にすることがほとんどで、独立以前の装飾的な工芸品を見る機会はほとんどないからだ。出品されている陶磁器やガラス器は、西欧のデザイン史的にはアール・ヌーヴォー期の終わりに相当する時期のものだと思うが、器の形や文様は比較的シンプルでその後のモダン・デザインへの流れを想起させる。柏木博は世紀転換期に「力強さと率直さがフィンランドのデザインの方向を特徴づけた」と書き、その背景としてフィンランドが北欧の中でも貧しい地域であったことを挙げている(本展図録、21頁)。たしかに、西欧のアール・ヌーヴォーの装飾は工業的生産に適せず、高価で、主に新興富裕層のためのデザインであったことが指摘されるが、フィンランドにおいては経済的状況ゆえに比較的シンプルなデザインが生まれたのだとしたら、その伝統がその後に消費者として台頭してきた欧米や日本の市民にに受け入れられるものになったと考えてもおかしくない。プライウッドを用いたアルヴァ・アアルトらの家具、絵付けのない色彩のみによるカイ・フランクの陶磁器やガラス器、織ではなく、伝統的な染やプリントでもなく、安価なシルクスクリーン印刷を用いたマリメッコのテキスタイルもまた、そうした国家の歴史的経緯のなかから必然的に生まれてきたデザインと考えることもできようか。
フィンランド・デザインの展覧会というと、トーベ・ヤンソンのムーミン・シリーズは欠かせない。とはいえ、トーベ・ヤンソンの仕事は「デザイン」なのかという点に筆者は常々疑問を抱いているのだが、ここではムーミン・シリーズに登場するキャラクターを用いたフィンレイソン社のプリント・ファブリックや、トーベ・スロッテによってアレンジされたアラビア社のマグカップやタイルなど、キャラクター・グッズが数多く紹介されており、たしかにこれはデザインという文脈で紹介されうる仕事だと納得させられたのだった。
なお本展は、宮城県美術館に巡回する(2017/10/28~12/24)。[新川徳彦]


会場風景

2017/10/19(木)(SYNK)

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