artscapeレビュー

SYNKのレビュー/プレビュー

Plywood: Material of the Modern World展

会期:2017/07/15~2017/11/12

ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館[イギリス]

成型合板の椅子は、戦後家具の代表的存在といっていい。軽くて丈夫で廉価、そして曲面の美しい造形を可能にした。本展は、「合板」という素材がいかに現代の生活に貢献してきたかについて、デザイン文化に係る多様な資料をもって検討している。そもそも各種資材としての合板が普及したのは19世紀。第二次世界大戦下の米国では軍需産業でも使われた。本展では、19世紀のシンガーミシンのカヴァーに使われた合板、チャールズ・イームズが傷ついた兵士のためにデザインした合板の添木、マルセル・ブロイヤーやアルヴァ・アールトらモダン・デザインの旗手たちによる流麗な形の椅子、車などの乗り物、図面などが展示されている。木の切削、成型、コンピュータ数値制御システムによるカット作業(CNC Cutting)という、加工プロセスに準じた章立てで展示品を構成しており、近代から21世紀までの製造技術にフォーカスしている。デジタル時代における合板の意味に配慮しながら、ものの「素材性」を際立たせた展覧会。[竹内有子]

2017/09/03(日)(SYNK)

マンチェスター市立美術館

Manchester Art Gallery[イギリス]

産業革命の中心地となった、工業都市のマンチェスター。マンチェスター市立美術館は、シティセンターに偏在する歴史的建築群のなかでも、その威容を誇っている。3棟が連結された建築の主要部は、1823年にチャールズ・バリー卿によって建設されたもの。また同美術館は、とくにラファエル前派のコレクションで知られる。ラファエル前派のメンバーたちと交友関係にあったフォード・マドックス・ブラウンの絵画作品《労働》(1852-1865年)は、その白眉ともいえよう。地方都市に、なぜ19世紀当時の前衛アートが収集されたのか興味深いところであろう。実は同時代美術のパトロンには、中産階級の工場主や製造業者、産業資本家たちが多かった。彼らは、マンチェスターの綿織物に必要なデザインと色彩の美的感覚と趣味を向上させるために、芸術振興にも熱心だったのだ。館内には、ヴィクトリア時代の装飾芸術コレクションもたくさんある。モリス商会やアーツ&クラフツの室内装飾品、唯美主義運動の家具など。筆者が訪れた折には、「南アジアのデザイン」と題された企画展が開催されていた。インド、スリランカやパキスタンの伝統的な工芸品と現代の工業製品が展示され、やはりここでも19世紀に収集されたインドの手仕事による高品質なテキスタイルが際立っていた。[竹内有子]

2017/09/02(土)(SYNK)

生命の表現力 山下清とその仲間たちの作品展

会期:2017/09/02~2017/10/02

川崎市市民ミュージアム[神奈川県]

1928年(昭和3年)に開園し、来年には創立90年を迎える知的発達障害児入園施設「八幡学園」(千葉県市川市)。 その指導の下で何人もの入園者が美術の才能を開花させた。この展覧会ではその代表的な人物である山下清(1922-71)と、山下より年下ではあるが夭折した3人の仲間たち─石川謙二(1926-52)、沼祐一(1925-43)、野田重博(1925-45)─が残した作品が紹介されている。恥ずかしながら、筆者は山下清をはじめ、八幡学園の人々の作品を実見するのははじめて。そしてこれまで見る機会を逃していたこと、映像や印刷で見る素朴な作品をなんとなく敬遠していたことを後悔した。八幡学園の人々が制作した貼り絵、とくに山下清のそれは、単にちぎった色紙で色面をつくっているだけではない。とても立体的なのだ。たとえば、山下清が16歳のときの作品《汽車》(1938年/昭和11年)には貨車を引く蒸気機関車が行き交う様が描かれているのだが、色紙で埋め尽くされた地面の上に何本もの線路が貼られ、その上に汽車や貨車が貼られ、作業に従事する車夫らが貼られ、画面の下、一番手前には、わずかに姿が見える電車の屋根とパンタグラフ、そして細い架線が貼られている。山下清はこれらの作品をその場では描かず、学園に戻ってから記憶だけで描いたと言われるが、彼の記憶が平面的なものではなく、空間を立体的に把握していただろうということが作品からうかがわれる。映像や印刷では伝わりづらいこの立体感の存在を、筆者はこれまでまったく知らなかった。本展をみて、描写力だけではない山下清の作品の魅力がようやく理解できたように思う。
八幡学園には山下清の他にも豊かな美術的才能を持った人々がいた。かつて住んでいた浅草の情景などをクレパスやクレヨンで描いた石川謙二、山下清とは異なりタイルを貼るように平面的に色面を埋めた貼り絵を残した沼祐一、優れたデッサン力がうかがわれる野田重博のクレパス画。山下清より知的障害が重く、山下清よりもずっと若くして亡くなった彼らが、山下ほどの人生を生きることができれば、その間にどれほど多くの作品を残すことができただろうか。さらには、学園にはこの4人以外にも美術的才能をもつ人々がいたと聞く。八幡学園には彼らの才能を開花させる優れた教育があった。そうした教育の中には、ミシン、縫製、園芸、木工、養鶏など、社会復帰を目指すための実科作業もあった。縫いものが得意な人もいただろう。動物の世話が得意な人もいただろう。その中で絵画作品は残り、作者の名前が記憶されている。しかし私たちは美術以外で才能を発揮していたであろう人々の存在もまた忘れるわけにはいかない。[新川徳彦]

2017/09/02(土)(SYNK)

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Inspired By India展

会期:2017/06/17~2017/09/08

The Silk Museum[イギリス]

会期:2017/6/17~9/8
会場:The Silk Museum
地域:イギリス
執筆者:SYNK
マックルズフィールドは、マンチェスターから南へ電車で30分程行ったところにある。産業革命の渦中の18世紀半ばから20世紀後半まで、絹織物産業の重要な産地だった。「絹博物館」の展示と、隣接する旧工場「パラダイス・ミル」のツアーを通じて、絹織物の製造過程から完成された製品までを見ることができる。工場には木製のジャガード手織機が26台今なお保存されており、機械を動かしながら、当時のデザイナーと職人の仕事がどのようなものであったかについて説明してくれる。絹博物館の建築は、1879年に建造された美術学校に由来する。いかにもヴィクトリア時代らしい赤レンガの建物の1階は、絹織物の製造技術と美術学校の教育資料や絹製品に関わる常設展示、2階が企画展の会場。このマックルズフィールドは実のところ、アーツ&クラフツ運動で知られるデザイナー/ウィリアム・モリス、また彼のテキスタイル制作に協力した染色業者/トーマス・ウォードルとゆかりが深い土地。今回の企画展では、インドが19世紀英国の絹織物に与えた影響をテーマに、ウォードルとモリスに関する資料、美術学校の生徒の作品、インドのパターン・ブックなどを展示していた。実際、当時のデザイン関係者たちはインドの高品質なテキスタイルを称賛し、お手本にしていたのだ。歴史的建造物のなかで地場産業が盛んだったころの息吹を感じつつ、絹織物産業の貴重な資料と歴史を知る事ができるミュージアム。[竹内有子]

2017/09/01(金)(SYNK)

URUSHIふしぎ物語─人と漆の12000年史─

会期:2017/07/11~2017/09/03

国立歴史民俗博物館[千葉県]

植物としてのウルシから塗料としての漆、工芸品としての漆器、そしてその未来まで、12000年にわたる日本の漆の歴史を多様な視点から辿る展覧会。
展示は6章から構成されている。第一章は植物としてのウルシと栽培の歴史。日本のウルシの木は中国から移入されたもの。現在見つかっている日本最古のウルシ材は12,600年前のもので、これが展覧会タイトルの由来だ。第二章は漆の採取(漆掻き)と漆工用具、漆工製品。第三章は漆、漆器利用の社会史。すなわち第二章では供給が、第三章では需要の歴史が語られている。第四章はその希少性故に権力者の財力や美意識を象徴するものとして扱われた漆と漆器。第五章は漆器の流通や技術交流の歴史。第六章では明治の輸出工芸を含む近代以降の漆工芸と、これからの漆利用の可能性が紹介されている。これらの展示構成を見れば分かるとおり展示は単純な時系列ではない。また考古学、美術史学、文献史学、民俗学、植物学、分析化学など、それぞれの専門分野での諸研究を総合した、歴博ならではといえる学際的な研究の成果となっている。美術工芸の優品が、考古資料、歴史史料などとともに展示の文脈に応じて並列されているところも特徴だ。300頁におよぶ本展図録は、漆に関する基礎文献としても役立ちそうだ。
個人的に最も興味深く見たのは「漆はうごく」と題された第五章だ。ここで「うごく」とは遠隔地との流通、交易、技術交流を指している。17世紀後半以降、各藩が奨励した特産品生産のなかの代表的製品のひとつが漆器だった。これらの製品は江戸期には国内で流通し、幕末から明治期になると海外へも輸出されていった。時代をさかのぼると、鎌倉時代から室町時代には禅宗の伝播とともに唐物の漆器が輸入されている。漆器の流通はアジア内にとどまらない。16世紀末には渡来したポルトガル人宣教師たちが漆塗りのキリスト教祭具、櫃や箪笥などを求めた。南蛮漆器と呼ばれたこれらの製品は、器形はヨーロッパ風で、平蒔絵と螺鈿細工によってびっしりと文様がちりばめられている。漆器がグローバル商品であったことを物語るさらに興味深い例が漆塗りが施された革製の盾だ。オランダ東インド会社では、インドのベンガルで革製の盾を加工させ、これを日本に運んで漆で装飾させ、インドやヨーロッパに輸出していたという。もともとヨーロッパでは漆は産しなかったために、ヨーロッパ人たちは自分たちの好みにあう意匠の製品を中国や日本に発注していた。また(これは日本の文脈ではないのだが)ヨーロッパでは漆のような効果が得られる模造漆塗料が開発された。この塗料はジャパン(japan)、技法はジャパニング(japaning)と呼ばれ、ヨーロッパ製の家具の一部に日本製輸入漆器の一部を用い、他の部分をこの模造漆で仕上げることも行なわれていた。さらに「うごいた」のは製品だけではない。南蛮漆器が輸出された桃山期にはすでに東南アジア産の漆液が日本に輸入され、漆器生産に用いられていたというのである。
林野庁のデータによれば、平成27年の国産漆の生産量は1,182kg。国内消費量の97%は輸入品が占め、そのほとんどは中国産だ。輸入品を含む漆への全般的な需要減と国産品の高価格のために国産漆への需要は減少し、生産も縮小してきた。しかしここのところ需要が増大、生産量も平成26年に比べて17.8%増加している。需要増の要因は国宝および重要文化財の修復事業にある。文化庁は平成27年度から修復の上塗りと中塗りを日本産に、平成30年度から下地を含め100%日本産漆を使う方針を通達したのである。生産者にとって需要増は喜ばしいことだと思われるが、問題もある。漆の生産は急速に増やすことができない。ウルシの木から漆を採取できるようになるまで15年から20年かかり、なおかつ1本の木から採取できる量はわずか200ml。現在日本で主に行なわれている採取方法は殺し掻きと呼ばれ、この200mlほどを採取し終えたあとウルシの木は伐採されてしまう。漆の生産を増やすためにはウルシの木の植樹面積を増やし、恒常的に維持管理していく必要がある。供給にボトルネックがあるために国産漆の価格が高騰し、従来からの需要者の手に届かなくなるという問題も起きていると聞く。不足する供給を中国産の輸入で補うことになったら本末転倒ではないだろうか。他方で、本展でも示されていたように漆液輸入の歴史は古い。それにそもそも日本のウルシの木は中国から移入されたものだ。国産品なら質がよく、輸入品の質は低いという単純な話ではなく、品質には漆の採取方法や流通過程が複雑に影響しているようだ。その点、本展では明治以降の技術史が手薄な印象。漆の生産と利用をめぐる現況について、もう少し詳しく知りたいところだ。[新川徳彦]

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2017/09/01(金)(SYNK)

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