artscapeレビュー

SYNKのレビュー/プレビュー

生誕120年 東郷青児展 抒情と美のひみつ

会期:2017/09/16~2017/11/12

東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館[東京都]

東郷青児(1897-1978)の生誕120周年を記念する特別回顧展。回顧展ではあるが、デビューから晩年までを追うのではなく、おおむね1950年代末まで。なかでも1930年代の仕事に焦点が当てられている。1950年代末は評論家の植村鷹千代が東郷の没後1周年の回顧展で用いた通称「東郷様式」が確立する時期に当たる。植村は東郷作品の特徴を「(1)誰にでも判る大衆性(2)モダーンでロマンチックで優美、華麗な感覚と詩情(3)油絵の表現技術にみられる職人的な完璧さと装飾性」とまとめている。他方で1930年代半ばは、東郷が前衛画家からモダン美人の画家に変貌する時期。すなわちこの展覧会の主旨は東郷様式の形成過程を読み直すということなのであろう。
展示は4章で構成されている。第1章は「未来派風」の前衛画家としてのデビュー(1915)から滞欧期(1921-1928)まで。第2章は東郷の帰国(1928)から1930年代前半で、書籍の装幀や室内装飾、舞台装置などのデザインも紹介されている。第3章は1930年代後半からの戦前期(1944)。泰西名画調のモチーフをレパートリーに加え、近代的な女性美を生み出した時期であり、ここでは藤田嗣治と競作した京都の丸物百貨店の壁画作品が紹介されている。第4章は戦後二科展の再開(1946)を経て1950年代末、「東郷様式」の確立までを辿る。
植村鷹千代は「東郷様式」の特徴の最初に「誰にでも判る大衆性」を挙げているが、東郷がフランスから帰国する前後から1930年代にかけての日本はまさに「美術の大衆化」の時代。そしてその時期に東郷作品の様式が変化していった。実際、本展でも多くが紹介されている東郷の商業美術の仕事を見ると、彼が美術の大衆化の時代の人であったという印象を強くする。とくに興味深く見たのは東京火災(のち安田火災海上、現 損保ジャパン日本興亜株式会社)の広報物の仕事だ。同社は1934年(昭和9年)から東郷にデザインを依頼し、各種パンフレットやカレンダーにその作品を用いてきた。東京火災保険の社長であった南莞爾(1881-1940)に東郷を紹介したのは同社の印刷物一式を手がけていた一色印刷所の吉田眞一郎。吉田の回顧(「南さんと印刷」『南莞爾 追悼録』、1968、254-260頁)や社史(『安田火災百年史』、1990)によれば、南莞爾は東京火災のオフィスの建築や宣伝活動に力を入れており、東郷青児に仕事を依頼する以前には和田三造らを起用。大正末から昭和初期にかけて、同社がすでにCI(コーポレート・アイデンティティ)ともいえるようなデザイン戦略を採っていた様子がうかがわれる。さらに南は東郷の二科展出品作品を購入し、それをカレンダーに仕立てて配布する。東京火災の顧客は主に重化学工業系の新興財閥で、東郷の作品は印刷物として大量に複製され、国内のみならず朝鮮半島、満州にも広がっていった。印刷物を見ればわかるが、東郷が描く女性像のシンプルな輪郭と滑らかなグラデーションは、とても印刷映えがする。損害保険の広告物に叙情性ゆたかな女性像を採用した南莞爾の慧眼に感心する。東京火災/安田海上火災の仕事以外にも、各種書籍の装幀、壁画、雑誌表紙絵、包装紙などを通じて東郷青児のイメージが大衆、すなわち美術愛好家以外の人々の間にも広まっていっただろうことは想像に難くない。他方で、今回東郷青児の作品をまとまって見て、彼の作品には「様式」はあるが「思想」がない、装飾画のように感じた。このことは「大衆性」と表裏一体でもあろう。それではこうした「大衆性」を特徴とする東郷作品の原点はどこにあるのだろうか。田中穣氏が『心寂しき巨人 東郷青児』(新潮社、1983)で示唆しているように、竹久夢二か、あるいは岸たまきなのだろうか。[新川徳彦]
公式サイト:http://togoseiji120th.jp/

2017/09/19(火)(SYNK)

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驚異の超絶技巧!─明治工芸から現代アートへ─

会期:2017/09/16~2017/12/03

三井記念美術館[東京都]

2014年から翌年にかけて三井記念美術館ほかで開催された明治学院大学山下裕二教授の監修による明治工芸の展覧会「超絶技巧!明治工芸の粋」の第2弾。前回は清水三年坂美術館村田理如館長のコレクションを紹介する構成であったが、今回は村田コレクション以外の明治工芸を加え、さらには現代において「超絶的」ともいえる技巧によって制作している15名のアーティストたちの作品を明治工芸と対比させながら展示している。
「超絶技巧!明治工芸の粋」で話題を呼び、本展でも大きく取り上げられているのは安藤緑山の牙彫。胡瓜、柿、パイナップル、バナナ、葡萄等々、象牙を彫り上げたリアルな造形と彩色、構成の妙に息を呑む。三井記念美術館小林祐子主任学芸員によれば、前回展覧会時に国内において確認された緑山の作品が35件であったのに対し、その後の調査により国内外で82件の作品が確認されているとのことだ(もっとも緑山が制作を行ったのは明治末から昭和初め、作品の受容者が皇室や宮家、一部富裕層だったことを考え合わせると、殖産興業、外貨獲得を目的として海外に輸出された明治期前半の工芸とは時期や文脈が異なることに留意したい)。また前回展(村田コレクション)になかった明治工芸として宮川香山の高浮き彫り陶器が出品されている(真葛ミュージアム所蔵)。
そして「現代アート」である。何をもって「現代アート」とするのか。実は監修者山下祐二氏自身「熟慮した末に『現代アート』という用語を使ったのだが、これには私自身、少々抵抗があることを正直に告白しておこう」と書いている。今回出品している現代作家の多くは「いわゆる『現代アート』を志向しているわけではない」が、このサブタイトルによって現代アートファンの注目を集めることができれば、という趣旨なのだそうだ(本展図録、9頁)。「現代アート」でくくることができない一方で、これらの出品作家の多くはまた「伝統工芸」あるいは「現代工芸」でくくられる人々ではないという点がさらに興味深い。山下氏は「DNA」「遺伝子」という言葉を用いているが、これらの作家と明治工芸の担い手との間には、歴史的、人的、技術的連続性はほとんどない。実際、ここでは「伝統工芸」あるいは「現代工芸」につきものの権威とは無縁の作家が多くフィーチャーされている(出品作家の多くが若手であるということも、権威からの距離をもたらしているかもしれない)。ではそのような近代工芸史の文脈から離れた現代作家の作品と明治工芸とを並列することにどのような意義があるのか。本展覧会序文のテキストを読むと、山下氏は美術優位の下に忘れ去られた明治工芸の再評価と、これらの明治工芸と同様に技巧を極めようとしていながらも既存の権威と離れたフィールドで活動する現代作家にスポットライトを当てることを、この展覧会で同時に行なおうとしているようだ。それはとりもなおさず村田コレクションにおけるバイアスを現代作品に投影するということにほかならない。ただ技巧に優れた作家を取り上げるということではないのだ。出品作家と展示作品を見てその印象を強くした。[新川徳彦]

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超絶技巧!明治工芸の粋──村田コレクション一挙公開|SYNK(新川徳彦):artscapeレビュー

2017/09/15(金)(SYNK)

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浅井忠の京都遺産─京都工芸繊維大学 美術工芸コレクション

会期:2017/09/09~2017/10/13

泉屋博古館 分館[東京都]

洋画家・浅井忠(1856-1907)は、1900年(明治33年)に渡仏した。目的は洋画研究とパリ万博視察、作品監査であった。在仏中に、京都高等工芸学校の設立準備のためにヨーロッパを訪れていた化学者・中澤岩太(1858-1943)と出会ってデザイン教育の重要性を説かれ、1902年(明治35年)に帰国すると京都に移り、京都高等工芸学校図案科の教員となった。この展覧会は、浅井忠の京都時代の仕事と、彼が教員を務めた京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学の前身のひとつ)の図案教育を紹介するとともに、住友春翠(1865-1926)による同時代の美術工芸コレクションを対比する企画。
展示は3章で構成されている。第1章はパリ。当時のパリはアール・ヌーヴォー様式の全盛期で、その立役者サミュエル・ビング(1838-1905)は1900年のパリ万博に「アール・ヌーヴォー館」を出展して注目を集めていた。滞仏中に浅井はビングの店を訪れて、図案家と職人が協業するさまに注目している。浅井のパリの住居には、アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)のポスター《ジョブ》(1898)が貼られていた。中澤から京都高等工芸学校の教材になる資料収集の依頼を受けた浅井は、石膏像、フランス製陶磁器、ヨーロッパのポスターの選定に関わったという。この章では、それら京都高等工芸学校の草創期に教材、資料として収集されたヨーロッパの美術工芸品が展示されている(ただしすべてに浅井が関わったわけではない)。ヨーロッパのポスターや陶磁のほか、とりわけ美しく目を惹くのはルイス・C・ティファニーのガラス器だ。ヨーロッパで資料を収集していた中澤や浅井は、これらのアメリカ製品をどのようにして手に入れたのだろうか。第2章は京都時代の、画家としての浅井忠と京都洋画壇。浅井の作品は水彩が中心だが、東宮御所を飾るタペストリー《武士山狩図》の油彩原画も出品されている。また浅井は図案教育に携わるかたわら、聖護院洋画研究所を設立して後進の指導にあたり、1906年(明治39年)には関西美術院を創設しており、浅井とともに関西美術院の創設に関わった鹿子木孟郎(1874-1941)らの作品も紹介されている。浅井忠と住友春翠との間に直接的な関係はなかったようだが、関西美術院の創設にあたって住友家は1000円を寄付している。また春翠のコレクションには浅井作品が10点あったことが記録されているという。第3章は図案家としての浅井忠と京都の工芸。明治前期に繁栄を極めた工芸輸出は、明治半ばには陰りを見せていた。京都高等工芸学校設立(1902年)の背景には、工芸技術の改良および新しい図案の創出という意図があった。浅井は京都高等工芸学校で教鞭をとる一方で、1903年(明治36年)に同校の教員らと共に製陶家と図案家の研究団体「遊陶園」を設立。1906年(明治39年)には漆芸家との研究団体「京漆園」を結成。新しい図案と工芸作品を発表していった。ここでは、浅井が残した図案を集めた『黙語図案集』(1908)や浅井の図案に基づく陶器や漆器が出品されており、そこには、アール・ヌーヴォー、琳派、大津絵などさまざまな影響がうかがわれる。もうひとつ、この章で興味深いのは、住友家と京都高等工芸学校の陶磁器コレクションの対比だ。鑑賞あるいは実用を目的とした住友家の陶磁器と、教材として集められた京都高等工芸学校のコレクションは、同時代の収集品ではあるが意匠面で大きな相違がある。前者はイギリス上流階級の趣味にかなう精緻な磁器、後者はクラフト的であったり、アール・デコ的であったり、意匠の面白さに重点が置かれていることがうかがわれる。このほか本展では住友春翠が協賛会長、浅井忠が審査官を務めた第5回内国勧業博覧会関連の資料が出品されている。
さて、浅井らの目指した図案の改革は成功したのだろうか。残念なことに、浅井は京都に来てわずか6年で亡くなってしまった。彼の図案によって陶磁器や漆器が作られたが、その規模は商業的生産といえるようなものではなかった。意匠を見ても、輸出の不振を解消し海外の市場に受け入れられるようなものであったのかは疑問だ。また同時代の京都の工芸においては、琳派に傾倒した神坂雪佳(1866-1942)らの影響が大きかったようだ。1900年パリ万博を視察した浅井と、1901年グラスゴー万博を視察した雪佳は、いずれも1902年に帰国し、いずれも京都の工芸図案に関わっていく。アール・ヌーヴォーの受容に関する両者の対比はとても興味深い。アール・ヌーヴォーを受容した浅井忠に対して、雪佳は日本におけるアール・ヌーヴォーの流行を批判している。それは洋画家と日本画家との違いだったのだろうか。また一方で、陶芸や漆芸は伝統産業から近代工芸へと変わりゆく時期にあたった。新しい時代の工芸家たちは図案家の指導に頼るのではなく、自ら図案と素材と技法とを融合させた作品を創り出す個人作家となっていった。工芸作家にとって図案教育は必要であっても、図案家は必要だっただろうか。浅井忠の京都での活動はデザイン運動史の1ページとして重要であるが、その成果が十分なかたちにならなかったのは、浅井が早くに亡くなってしまったからなのか、他の様式が支持されたからなのか、それとも工芸のありようが変化したからなのか、十分な検討が必要に思う。[新川徳彦]

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うるしの近代──京都、「工芸」前夜から|SYNK(新川徳彦):artscapeレビュー

2017/09/08(土)(SYNK)

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グラフィックトライアル2017 Fusion

会期:2017/07/01~2017/09/18

印刷博物館P&Pギャラリー[東京都]

印刷表現とグラフィックデザインの可能性を追求するグラフィックトライアル。第12回目の今回は「Fusion:統合、融合」をテーマに、仲条正義、ジャンピン・ヘ、吉田ユニ、澤田翔平ら4名のクリエイターとプリンティング・ディレクターたちの協業によるトライアルが行なわれた。仲条正義のトライアルは「ネコフュージョン」。飼い猫の写真を切り抜き、背景イメージと融合させることで、幻想的な世界を旅する猫のポスターをつくっている。ジャンピン・ヘのトライアル「f.u.s.i.o.n」は、著名デザイナー10名のポートレートをスクリーンで処理し、1枚に2人ずつ重ね合わせたもの。その過程では、異なる用紙で同じ色味を再現する試みや、印刷表現による箔押しの再現、和紙への印刷にUVインキを乗せることで発色をよくする試みが行なわれ、技法による効果の違いが展示で示されている。吉田ユニのトライアルは「Scratching」は擦ると剥がれるスクラッチ印刷。剥がすという人の手が加わって完結するという点が「Fusion」。面白いのは剥がしたもの、削りかすも含めて作品となっていることだ。たとえば焼き魚のスクラッチを剥がしていくと、下から骨が現れる。周囲に散った削りかすは魚の皮に見立てられる。印刷されたバナナは、皮がシート状にペロリと剥けて中身が現れる。オフセット印刷にスクリーン印刷とインクジェット印刷の組み合わせ。技術と表現が見事に融合している。澤田翔平のトライアルは、ラテン語で灰色を意味する「RAVUS」。写真を素材に多様な印刷、インキ、紙の組み合わせによって、多彩なグレーの諧調表現を試みている。これらのトライアルを見れば分かるように、昨年の第11回からこれまでのオフセット印刷に、スクリーン印刷やインクジェット印刷などの技法が加わったことで、表現の幅、可能性が大きく広がっている。[新川徳彦]

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グラフィックトライアル2016 crossing|SYNK(新川徳彦):artscapeレビュー

2017/09/06(水)(SYNK)

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サーペンタイン・パヴィリオン2017

会期:2017/06/23~2017/11/19

サーペンタイン・ギャラリー[イギリス]

ロンドンの夏の風物詩、今年のサーペンタイン・パヴィリオンを手がけたのは、アフリカ出身でベルリンを拠点に活躍する建築家、フランシス・ケレ。筆者は2012年、ヘルツォーク&ド・ムーロンのパヴィリオンを見て以来、訪れるのは2回目。その限られた経験でいうと、最初はとてもコンパクトでシンプルな構造の建築に見えた。アフリカの布の幾何学的パターンを思わせるようなデザインで木造ブロックを組んだ外壁の色は、インディゴ・ブルー。ハイドパークという緑の木々に囲まれた立地では、非常に鮮やかな色彩だ。上に向かって張り出す木の天蓋は、雨や暑さをしのぐ働きをするのみならず、その機能は建物全体へと拡張している。出入口は多く(4つ)、オープン・エアで、漏斗状の屋根の中央では雨を集めて床に逃がしたうえに、公園敷地の注水に資する仕組み。シンプルな構造に見えながら、変化しやすいロンドンの天候に合わせた合理的な建築だ。建築家は、故郷の自然の「木」をインスピレーションにしたという。アフリカでは、大きな木の下で人々は語り合う。それはいわば日常生活に根差した必須の「場」である。その企図を知ってか知らずか、夏のロンドンの日差しのもと、人々は屋内のカフェでお茶を飲みながら語らい、屋外の芝生では子供たちが楽しそうに遊びまわっていた。[竹内有子]

2017/09/04(月)(SYNK)