artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
大西みつぐ写真展「NEWCOAST2 なぎさの日々」
会期:2019/10/01~2019/10/19
コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]
大西みつぐは1980年代後半から90年第初頭にかけて、「NEWCOAST」と題するシリーズを撮影していた。「バブルの熱に浮かされた人々が戸惑いながらも居場所を求め、東京湾岸に集うようす」を、カラーフィルムの中判カメラで撮影したシリーズである。それから30年余りが過ぎて、「いったい風景の何が変わったのか? あるいはまた繰り返しの季節を迎えているのか?」と自問自答しながら、以前撮影したのと同じ葛西海浜公園の人工なぎさにカメラを向けたのが、今回の「NEWCOAST2 なぎさの日々」である。
全29点の写真のたたずまいに、それほど変化があるようには見えない。とはいえ、30年余りが過ぎるなかで、かつてはやや違和感があったアメリカ西海岸っぽい雰囲気が、それなりに身の丈に合ったものになっていることに気がつく。海浜公園での人々の振る舞いが、背伸びしなくても、日本人のライフスタイルと溶け合うようになってきているということだろう。大西のカメラワークも自由度が高まり、被写体との距離感を自在に調整することができるようになっている。それでも「なぎさの日々」には、日常からは多少ずれた「ハレ」の気分がまつわりついている。このシリーズには、大西の写真のメインテーマというべき「川」を中心とした東京の下町の情景とは一味違ったテンションの高さがある。大西は展覧会のリーフレットに「川(荒川)と海(東京湾)を行ったり来たりしながら写真家として生きてきた」と書いているが、その往還のプロセスから、今後も魅力的な写真群が生み出されていくのではないだろうか。
2019/10/01(火)(飯沢耕太郎)
小嶋崇嗣「PARFUM」
会期:2019/10/01~2019/10/06
KUNST ARZT[京都府]
消費社会において、物理的実体としての「商品」に付随する「脇役」を用いてジュエリーを制作し、さまざまな価値の転換を図る作家、小嶋崇嗣。本個展では、プラモデルのランナー(組み立て前のパーツを枠の中に固定・連結する棒状の部分)と、「シャネルN°5」の香水瓶の蓋、それぞれを用いた2つのシリーズが展示された。
プラモデルのランナーを素材に用いたブローチのシリーズでは、通常は組み立て後に捨てられる端材を「ジュエリー」に仕立てることで、「無価値なゴミ」を「高価な宝飾品」へと転換させる。いずれも、突起のついた棒を立体的に交差させた構築的なデザインだが、それぞれのカラーリングは、ガンダム、エヴァンゲリオンなど戦闘ロボットアニメのメカを想起させる。実体的な機体がなくとも、特徴的なカラーリングによって「キャラクター=商品」を識別させる。例えば、コンビニ各社が看板に用いるカラーバーをミニマル・ペインティングに擬態させた中村政人の作品のように、「色という記号の抽出によって、ブランドやキャラクターを非実体的に想起させる」という点で、二重の意味での消費社会批判となっている。加えてここでは、一般的には「男性向け」であるプラモデル(の端材)を、女性が身につけるジュエリーに作り変えることで、「商品に内在するジェンダー」を転倒させるという戦略性も指摘できる。
一方、「シャネルN°5」の香水瓶の蓋を用いたジュエリーのシリーズ《PARFUM》では、多面カットが施されたガラスの蓋を宝石に見立てて、ネックレス、リング、ブローチが制作されている。ガラスの蓋は爪留めでセットされ、留め具などのパーツもすべてシルバーで作られ、ジュエリー制作の技術が基盤にあることがうかがえる。香水瓶は、香水を販売するための容器だが、消費者の欲望を刺激するためのブランド戦略の象徴とも言える装置だ。小嶋は、実体的な商品そのもの(液体としての香水)ではないが、消費を促すための記号として商品価値を支える存在を「ジュエリー=商品」に変換するという転倒の操作によって、「私たちの欲望や価値を支えているものは何か」「付随的な周縁部分にこそ商品の本質が宿るのではないか」という問いをあぶり出す。だがここで、シャネル自身が実は「イミテーションの宝石」を売り出した事実を思い出すならば、単にパロディや引用による消費社会批判にとどまらない、批判とオマージュを兼ね備えた両義性を見出せるだろう。
加えて本展の構成は、「(不在の)身体と記憶」へと言及する拡がりを持っている。「N°5」が発売されたのは1921年であり、約100年間、世代や時代を超えて無数の女性たちがこの香りを身につけてきた。小嶋の作品は使用済みの香水瓶を用いており、身にまとうと、見知らぬ誰かの残り香が漂う。ジュエリーに使用した蓋以外の瓶でつくったシャンデリアが天上から吊られ、「N°5」が発売された時代のクラシックな壁紙が張られ、ジュエリーの置かれた背後の壁には、鏡が長年置かれていたような跡が残る。消費社会への批判とともに、「かつて身につけていた女性」への想像を促す、親密な空間が立ち上がっていた。
2019/10/01(火)(高嶋慈)
松本倫子展「ニューヨークに銭湯」
会期:2019/09/27~2019/10/27
BankART SILK[神奈川県]
フリーハンドで丸っこく切り抜いたカラフルな板が、壁一面に飾られている。よく見ると、どれもネコが1匹から数十匹まで固まった形をしているのだが、曲線で分割された面には蛍光色や赤、緑、水色などおよそネコらしくない色彩が施され、水玉やウロコ模様まで描かれている。中世のアラベスク模様を思い出させるが、パラノイアックなアウトサイダー・アートと見ることもできるし、ポップな現代絵画と捉えることもできる。しかしその「どれでもなさ」が彼女の作品の特質だ。
展示も、四角いタブローなら横一線に並べるところだが、丸っこい板なので、まるでネコがくつろぐように壁一面に散らしている。これは楽しい。板だけでなく、襖、仮面、ショッピングバッグに描いた作品もある。ドローイングには、ネコが玄関の上に居座る《ニューヨーク銭湯の外観》と題する作品もあって、これがタイトルにも使われているわけだが、いうまでもなく「入浴」と「銭湯」をかけたダジャレ。
2019/09/28(土)(村田真)
ダ・ヴィンチ没後500年「夢の実現」展 記者発表会
桑沢デザイン研究所[東京都]
来年1月、代官山のヒルサイドフォーラムで、ダ・ヴィンチ没後500年「夢の実現」展が開かれる。主催する東京造形大学がその概要を発表した。このプロジェクトは、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画、彫刻、建築、工学など未完成を含む作品や発明品を、最新の技術を駆使して制作当時の姿に復元しようというもの。《聖ヒエロニムス》《東方三博士(マギ)》の礼拝》《最後の晩餐》など16点の絵画をはじめ、《スフォルツァ騎馬像》「大墳墓計画」「距離測定車」など計31点におよぶ。といっても、本物そっくりに模写したり、彫刻を再現したりするわけではなく、CGなどを使ったヴァーチュアル復元だが、それでもレオナルドがなにを考え、どのようにつくったかをたどりながら復元するという。
しかしなんでそんな大それたことを小さな一美大がやるのかといえば、造形大がバウハウスのような総合芸術の教育を目指しているので、レオナルドは素材としてもっともふさわしかったから、とも言えるが、それよりなにより、レオナルド研究の第一人者である池上英洋氏が同大の教授を務めているからだろう。だから期待は高まる反面、池上教授を除くとレオナルドやルネサンス美術の専門家が見当たらないのが、いささか心もとない。蛇足ながら、池上教授は会見で「レオナルド」と呼んでいたが、タイトルは「ダ・ヴィンチ没後500年」となっている。ダ・ヴィンチとは非嫡出子で姓のないレオナルドに冠せられた「ヴィンチ村出身の」といった程度の意味だから、ここはやはり「レオナルド没後500年」にすべきだと思うのだが。
2019/09/25(水)(村田真)
奥山由之『Girl』
発行所:BOOTLEG
発行日:2019年9月14日
奥山由之は、2011年の第34回「写真新世紀」で優秀賞を受賞して、写真家としてデビューした。そのときの展示を見て、まだ21歳という若さにもかかわらず、ひとりの少女の姿を淡い光と影の移ろいのなかに浮かび上がらせ、その微かに身じろぐようなたたずまいを捉える能力の高さに驚かされた。何だかHIROMIXの写真のようだと思ったら、当のHIROMIXが審査員として優秀賞に選んでいるのがわかって、妙に納得したことも覚えている。
その受賞作「Girl」は、2012年にPLANCTONから少部数の写真集として刊行されたのだが、あまり話題にもならず絶版になっていた。その後奥山は、 写真集『BACON ICE CREAM』(PARCO出版、2016)を刊行し、同名の個展をパルコミュージアムで開催して、一躍注目を集めるようになった。その後の活躍ぶりはめざましいものがある。今回BOOTLEGから復刊されたのは、その彼の写真家としての原点というべき写真集『Girl』である。
あらためてページをめくると、写真作品一点一点のクオリティの高さだけでなく、モノクローム写真にカラー写真を効果的に配合して、少女を軸とした物語を構築していく力を、彼が既にしっかりと身につけていたことがわかる。だが、その完成度の高さは諸刃の剣といえるだろう。あまりにも早く自分の世界ができあがると、そこに安住して、同工異曲の繰り返しに走ってしまうことがよくあるからだ。だが、奥山はその後『Girl』を足場にして、意欲的に自分の写真の世界を拡張していった。それが、現在の彼の写真家としての立ち位置につながっているということだろう。
2019/09/25(水)(飯沢耕太郎)