artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

中村ケンゴ「モダン・ラヴァーズ」「JAPANS」

会期:2018/12/04~2018/12/22

メグミオギタギャラリー[東京都]

ひとつの画廊で2人が個展を開くのはよくあるが、ひとつの画廊で1人のアーティストが同時に2つの個展を開くのは初めて聞いた。「モダン・ラヴァーズ」と「JAPANS」の2本で、どちらも「日本」がテーマ。「モダン・ラヴァーズ」とは近代的な愛人ではなく、近代を愛する人、つまり西洋近代に恋いこがれた日本人を指す。《日本アルプス(近代山脈)》は、7.5×546センチという極端に横長の画面にさまざまな山岳風景を稜線がつながるように描いたもの。タイトルにだまされて、洋画家が日本の山を描いた絵を連ねたものかと思ったら、実は西洋人による山の風景画をトレースしたものだという。そもそも「日本アルプス」の名称自体ヨーロッパのパクリだし。《お花畑》は3枚の縦長パネル(畳サイズ)にさまざまな花をぎっしり描き込み、上4分の1ほどを余白に残した作品。一見日本画的な印象があるものの、ゴッホやルドンらの花の絵をコラージュしている。どちらも元絵は西洋絵画なのに日本的な香りがするのは、支持体が絵巻や襖絵といった伝統的な日本絵画を彷彿させる形式である上、和紙に岩絵具や顔料など日本画材を使って油絵をなぞっているからだ。

「JAPANS」のほうは「日本のかたち」を日本画を通して探る試み。2点の正方形の画面のうち1点は《スピーチ・バルーン・イン・ザ・ヒノマル》。大きな赤い円のなかに白抜きのフキダシがびっしり描かれたもので、これはクール・ジャパンのシンボルマークにぴったりではないか! もう1点には100個の歪んだ赤い楕円が描かれていて、なんだろうと思ったら、風になびく日の丸の旗の赤い円を採取したものだそうだ。タイトルは《風に吹かれて》。ボブ・ディランのプロテストソングと日本の愛国心のシンボルを重ねている。ほかにも、日本列島の島々とかつて植民地化した東アジアの地域をコラージュした《キュビスム(東アジア)》、南鳥島、沖ノ鳥島、与那国島、択捉島という日本の東西南北端の島を描いた4点組《within borders》など、日本の地理と歴史が学べるタメになる展覧会だ(笑)。中村は日本画を伝統的な日本の美を表わすためのメディウムではなく、現代日本のシビアな現実を表現するための最適な手段として捉え直そうとしている。日本画ゆえの限界と可能性をみずから示した個展。

2018/12/07(村田真)

『プロヴォーク 復刻版 全三巻』

発行所:二手舎

発行日:2018/11/11

『プロヴォーク(PROVOKE)』は、いうまでもなく、1968〜69年にかけて中平卓馬、多木浩二、高梨豊、岡田隆彦、森山大道(2号から)を同人として刊行された、伝説的な写真雑誌である。わずか3冊しか発行されなかったにもかかわらず、時代の息吹を体現した「アレ・ブレ・ボケ」の表現スタイルと、高度に練り上げられたテキストによって、同時代の日本の写真表現のあり方に決定的な影響を及ぼした。まさに現代日本写真の起点となった重要な出版物だが、発行部数が少なかったこともあって、古書価格が高騰し、普通にはとても手に入らない「幻の雑誌」になっていた。

今回、二手舎から刊行されたのは、その『プロヴォーク』3冊の復刻版である。じつは以前、カール・ラガーフェルドが企画した日本の重要な写真集をおさめた『THE JAPANESE BOX』(Steidl, 2001)でも、『プロヴォーク』の復刻が企てられたことがある。ところが、そこにおさめられたヴァージョンでは、同人のひとりである岡田隆彦のテキストが、著作権継承者の意向で全部抜け落ちていた。だが、今回はテキストと写真作品も含めて文字通り完全復刻されている。さらに大事なのは、収録されているテキストが、すべて英訳および中国語訳されていることである。そのことで、日本語が読めない読者にも『プロヴォーク』の革新性がより直接的に伝わるようになった。

近年、『プロヴォーク』の再評価は世界各地で急速に進みつつある。2015年には、アメリカのヒューストン美術館ほかで「For a New World to Come: Experiments in Japanese Art and Photography, 1968-1979」展が開催され、2016〜17年には、オーストリア・ウィーンのアルベルティーナ、スイスのヴィンタートゥール写真美術館などを大規模な「PROVOKE」展が巡回した。また、今年10〜12月に開催された香港国際写真フェスティバルでも「プロヴォーク特集」が組まれ、中平卓馬の個展やシンポジウムが開催された。『プロヴォーク』への関心は、今後さらに高まることが予想される。本書も基本的な文献資料として重要な役割を果たしていくのではないだろうか。

2018/12/06(木)(飯沢耕太郎)

草野庸子『Across the Sea』

発行所:roshin books

発行年:2018

昨年3月に東京・池ノ上のQUIET NOISEで個展「EVERYTHING IS TEMPORARY」を開催し、同名の写真集も刊行した草野庸子が、新作写真集を出版した。その『Across the Sea』はロンドン旅行で撮影したスナップ写真で構成されている。

淡いオレンジが黄緑へと移ろっていく「空」の写真からスタートし、旅先で出会った人、モノ、光をちりばめながら進んでいって、再び「空」の写真で終わる写真集の構成は、センスがいいとしか言いようがない。前作と比べると、ロンドンという時空間に限定されていることもあって、かなり異質な写真がせめぎ合っているにもかかわらず、すっきりとしたまとまりを保って目に飛び込んでくる。見ること、撮ることの弾むような歓びが感じられるいい写真集だった。

ただ、その先を見てみたいという思いがどうしても強まってくる。草野がなぜロンドンに行かなければならなかったのか、なぜこの写真集をまとめなければならなかったのか、その切実な理由がまったく伝わってこないのだ。あとがきにあたる「彼方へ」と題する文章で、彼女はこんなふうに書いている。

「彼方へ、遠くへ行きたいような、/此処に居続けていたいような、いつだって何もかもを/捨てられる身軽さに憧れ、その反面じめじめとした/ねちっこい執着も持っていたい。同じところをぐるぐるまわっている。」

素直な感慨だと思うが、「同じところをぐるぐるまわっている」だけでは仕方がないだろう。センスのよさだけで勝負できる時期はそれほど長くはない。そろそろ気合いを入れて、「初期代表作」に取り組んでほしいものだ。

2018/12/06(木)(飯沢耕太郎)

青木野枝展 ふりそそぐもの/赤

会期:2018/11/15~2018/12/09

ギャラリー21yo-j[東京都]

厚さ1センチほどの鉄板を直径30-60センチほど、幅5センチくらい、大きいほうの輪の内径が小さいほうの輪の外径になるように2つの円形に溶断し、その2つを直角に溶接する。それをひとつの単位とし、床から2本上につないでいき、5メートル近くある天井いっぱいに8の字を描くように設置した。と文章で説明してもわかりにくいと思うが、それは文章がヘタなだけで、作品がそんなに複雑なかたちをしているわけではない。簡単にいえば、笠がつながった巨大なキノコが2本立ってる感じ。いや睡蓮の茎と葉を水底から見上げた感じかな。円形のところどころにリズムをつけるように、ステンドグラス用の赤いガラスが入っているのが特徴的だ。

驚くのは、この大きな鉄の構築物が、さほど大きいとはいえないこの展示空間いっぱいに収まっていること。いったいどうやって入れたのか。作品が大きすぎて引きがないので、いつも閉じている庭側の扉を開放して外から見られるようにしてあるが、この開口部よりずっと大きいので、いくつかパーツに分けて持ち込み、この場で組み立てたのは間違いない。とはいえ、天井附近で大きく広がっているため重心が上のほうに偏っている鉄の構築物を、だれがどうやって持ち上げ、どうやって溶接したのか、考えるだけで途方に暮れそうだ。そんな苦労を感じさせず軽快に見せてしまうところが、青木野枝らしい。

2018/12/06(村田真)

野村恵子×古賀絵里子「Life Live Love」

会期:2018/10/26~2018/12/24

入江泰吉記念奈良市写真美術館[奈良県]

野村恵子と古賀絵里子、女性写真家の2人展。野村は、雪深い山村に取材し、猟で仕留められた動物や闇を焦がす火祭りなどを生活風景とともに撮ったダイナミックな新作を展示。生と死、聖と俗、闇と光の混淆する力強い世界を提示した。また、ロードムービー風の匿名的な風景と女性ヌードが交錯する「赤い水」のシリーズ、自身のルーツである沖縄を撮ったシリーズも展示。とりわけ沖縄のシリーズは、寂れたスナック街、生活臭の漂う室内風景、ポートレート、ずらりと並べられたブタの頭部など、生と死が濃密に混ざり合った強烈な「南」の色彩とぬめるような湿気が同居する。

一方、古賀絵里子は、高野山を撮った「一山」のシリーズや、サンスクリット語で「三世」(前世・現世・来世)を意味する「TRYADHVAN」のシリーズを展示。僧侶との結婚や出産といったプライベートな出来事が撮影の契機にあるというが、私写真というより、生者と死者の記憶が曖昧に溶け合ったような幻想的な世界を四季の光景とともに写し取っている。なかでも、コンパクトなプリントサイズながら最も惹き込まれたのが、浅草の下町の長屋で暮らす老夫婦を6年間かけて撮った「浅草善哉」。展示空間は90度の角度で向き合う左右の壁に分かれ、右側の壁には、夫婦が営む小さな喫茶店の室内、カウンター越しの屈託のない笑顔、気温と天気が几帳面に綴られたカレンダーなど、2人がここで長年はぐくんできた生活の営みが活写される。一方、左側の壁に進むと、「老い」が確実に2人の身体や表情に表われる。セピア色になった、店を切り盛りする若い頃の写真の複写が挿入され、隣に置かれた老女の眼のアップは、彼女の視線がもはや未来ではなく、過去の追憶に向けられていることを暗示する。そして、無人になった室内、空っぽのカウンター、雨戸が閉ざされた店の外観が淡々と記録され、閉店と(おそらく)2人がもうこの世にはいないことを無言で告げる。ラストの1枚、店の前に佇む2人を車道越しに小さく捉えたショットは、現実の光景でありながら、彼岸に佇む2人を捉えたように感じられ、強い彼岸性を帯びて屹立する。ドキュメンタリーでありながら、写真が「フィクション」へと反転する、魔術的な瞬間がそこに立ち現われていた。

2018/12/05(水)(高嶋慈)

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