artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

林勇気「遠くを見る方法と平行する時間の流れ」

会期:2018/11/23~2018/12/07

FLAG studio[大阪府]

同時期にギャラリーほそかわで開催された個展「times」とともに、「デジタルデータのアーカイブ」に焦点を当てた個展。映像作家の林勇気は、デュッセルドルフにあるimai – inter media art instituteで映像作品のアーカイブについての調査を2ヶ月間行なった。その経験を元に、「映像作品の保存形式(の複数性)」と「時間軸」という観点から、新作が発表された。

メインスクリーンに映し出された《trajectory - timelines》は、無数のカラフルな色の帯がゆっくりと軌跡を描きながら落下し、氷柱や鍾乳石の形成を極端に時間を速めて眺めているような、あるいは流れる滝をスローモーションで見ているような有機的な印象を与える。だが、これらの色の帯の1本1本は、インターネット上の著作権フリーの動画を素材に制作されており、設定した範囲内に小さく圧縮したものを、軌跡を残しながら上から下に移動させている。近づくと、コマ同士の切れ目が見える場合もあり、「連続した時間の流れ」が文字通り可視化されている。また、素材となった著作権フリーの動画のうち、約100本はアーカイブ化され、2台のPCモニターで自由に検索して閲覧できる。



林勇気《trajectory - timelines》 FLAG studioでの展示風景 [撮影:麥生田兵吾]

一方、《trajectory - timelines》は、別の問題提起も孕んでいる。メインスクリーンの手前のテーブル上には、2種類の紙資料が置かれている。ひとつは、作品の購入者と制作者の林との間で交わされる「作品証明書・利用契約書」であり、タイトルや制作年、時間の長さに加え、保存メディア、解像度、ビデオフォーマットとコーデックといった基本情報、購入者が所有するマスターデータと林が所有するアーティストプルーフが存在すること、展示の際に守るべき使用規定(機材や動作環境など)が細かく記されている。またもうひとつは、映像作品のスクリーンショットをプリントアウトしたものだ。一見どれも同じに見えるが、キャプションをよく見ると、ビデオフォーマット(MP4/MOV)、データ容量のサイズ、アスペクト比、ビデオコーデック、ビットレートなどの数値の違いが表記されている。加えて、防湿庫に保管されたハードディスクも保存の規定書とともに「展示」されており、管理湿度、3ヶ月ごとにハードディスクを通電させること、3年ごとにデータの入れ替えを行なうこと、などの旨が記されている。



FLAG studioでの展示風景 [撮影:麥生田兵吾]

このようにデジタルデータの映像には複数の形式があり、その保存や再生は物理的なハードディスクに依存せざるを得ない。また、古いデータ形式は、新しい動作環境では見られなくなる可能性があり、マスターデータを残しつつ、常に複数の保存形式を確保する必要がある。個展タイトルの「遠くを見る方法と平行する時間の流れ」は、まさにこの事態を詩的な言い回しで言い当てている。それはまた、「オリジナル」「固有性」といった近代的な価値基準を、「複製・コピー」という従来的な観点からではなく、「データの保存形式の複数性」というデジタルデータに内在する条件から問い直す。作品を未来へと延命させるための「データの保存形式」が差異を生み出すのであり、それらは共通項とズレを孕みながら、分岐していく未来をつくり出すのだ。

関連レビュー

林勇気「times」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/12/01(土)(高嶋慈)

林勇気「times」

会期:2018/11/17~2018/12/01

ギャラリーほそかわ[大阪府]

自身で撮影した、あるいはインターネット上で収集した膨大な量の画像を切り貼りしたアニメーション映像を制作し、記憶(の断片化)、デジタル画像の共有と流通、消費について、時に宇宙の誕生から消滅を思わせる壮大な映像世界で言及してきた林勇気。近年は、プロジェクターや再生機の存在自体を作品に取り込む、デジタルデータとしての映像をピクセルの数値に還元するなど、映像メディアの成立条件に対して自己言及する作品に取り組んでいる。



林勇気「times」 ギャラリーほそかわでの展示風景 [撮影:麥生田兵吾]

本展もこの流れに位置するものであり、同時期にFLAG studioで開催された個展「遠くを見る方法と平行する時間の流れ」とともに、「デジタルデータのアーカイブ」に焦点が当てられている。作品の素材として用いられたのは、2005年にYouTubeに初めて投稿された動画「Me at the zoo」である。YouTubeの創設者の1人が投稿した、わずか19秒の映像であり、動物園の象の前でコメントする映像だ。だが林は、この映像をピクセルに分割し、それぞれの色情報を3桁×3段の数字で数値化し、視認不可能な膨大な数値が目まぐるしく移り変わる、暗号の波のような映像に変換して映し出した。また、数値化されたデータは、紙、石、金属という伝統的な記録媒体に刻印された形でも提示された。デジタルデータはどのように保存され、未来へと継承可能なのか。ここには、「ポストメディウム」というよりは、メディウムなき非実体的なデータとなって憑依し続ける状況が差し出されている。さらには、「私たちは何を見ているのか?」という知覚論的な問いも横たわっていた。



林勇気「times」 ギャラリーほそかわでの展示風景 [撮影:麥生田兵吾]

関連レビュー

林勇気「遠くを見る方法と平行する時間の流れ」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/12/01(土)(高嶋慈)

増山士郎展 Tokyo Landscape 2020

会期:2018/11/23~2018/12/02

Art Center Ongoing[東京都]

2010年から北アイルランドのベルファストに住んでいる増山の、日本では4年ぶりの個展。テーマは増山が北アイルランド移住後に起きた東日本大震災と原発事故。これを2年後の東京オリンピックに結びつけて、インスタレーションとして見せている。作品は、天井から吊るした細長い透明アクリル板の上に、タブレット端末、やかん、黒く焦げた4つのアクリルボックスなどを配置してコードでつなげ、3人組の白い石膏像を20-30体ほど設置したもの。その上には5色の電気コードによる5輪のマーク。タブレットには放射線量が表示され、黒焦げのアクリルボックスは福島第1原発、やかんは原子炉を表わし、上下する照明(核エネルギー)とも連動して沸騰する。3人組の石膏像はよく見ると「見ざる言わざる聞かざる」で、日本国民のこと。こんなに近くに危機が迫っているのに、なにごともなかったかのようにやりすごそうとしているからだ。彼らが乗ったアクリル板は揺れるので、床には落ちた石膏像の破片が散らばっている。

これを発想したきっかけは、オリンピック誘致の際に首相が「福島原発は完璧に制御されている」と断言した演説に、違和感を抱いたこと。また、その演説に日本国民が大した反応を示さなかったことだという。こうした国内の出来事については日本にいるより、むしろ海外にいたほうがバイアスがかからずダイレクトに伝わるのだろう。作品も図式的ともいえるほど直球勝負で、すがすがしいほど。ただ、日本人は「見ざる聞かざる言わざる」だといわれると、その「上から目線」というか「外から目線」に抵抗を感じないわけではないが、あまりにストレートでユーモラスな表現に好感を抱いてしまう。まあそんなノンキなことがいえるのも、ぼくがどっぷり日本のぬるま湯に浸かっている証拠かもしれない。

2018/12/01(村田真)

鈴木理策「知覚の感光板」

会期:2018/11/28~2019/01/16

キヤノンギャラリーS[東京都]

タイトルの「知覚の感光板」というのはセザンヌの言葉から引いたものだという。セザンヌは、芸術に個人的な表現意図や先入観を持ち込むべきではなく、「ただモチーフを見よ。そうすれば、知覚の感光板にすべての風景が刻印されるだろう」と語っていた。鈴木理策はこのセザンヌの考え方を写真に適用しようとする。なぜなら「表現意図を持たず、ただ純粋に対象を知覚」するカメラは、まさに「知覚の感光板」そのものだからだ。セザンヌは、自らの身体を「感覚の記録装置」と化し、匂いや音などの視覚以外の感覚も画布上に定着できると考えていた。鈴木もそれに倣って、大判カメラの描写力と「構図やフォーカシング、シャッタータイミングの選択」とを合体させ、「目に見える自然」と「感じ取れる自然」とを一体化した表現を試みようとした。

今回の展示にはもうひとつ仕掛けがあって、撮影対象として選ばれているのは「近代の画家たちがモチーフに選んだ土地」なのだという。たしかにセザンヌ、モネ、ホッパーなどの絵を彷彿とさせる写真があるのだが、具体的な地名や鈴木が参照した絵画作品名は示されていない。だが、そのあたりをあまり詮索しすぎると、鈴木の、風景の中から精妙な構図をつかみ出すフレーミングの的確さや、光の移ろいや雲の変幻、草むらの微かなざわめきなどを、まさに「知覚の感光版」に写し取っていく写真術の冴えを見落としてしまいがちだ。いつもは、テーマやコンセプトを明確に設定して発表することの多い鈴木だが、今回はかなり緩やかな枠組で、ゆったりと写真を並べていた。むしろ、一点一点の作品にしっかりと向き合って、ずっと気持ちのいい空気感に浸っていたいと思わせる展示だった。

2018/11/30(金)(飯沢耕太郎)

オサム・ジェームス・中川「Eclipce: 蝕」

会期:2018/10/31~2018/12/22

PGI

オサム・ジェームス・中川は1962年、アメリカ・ニューヨーク生まれ。1980年代から写真作品を本格的に制作し始め、アメリカと日本という2つの国にまたがる自分のアイデンティティを検証する作品を多数発表してきた。

中川は1990年代に「アメリカン・ドリームが秘める神話」の探求の一環として「ドライブ・イン・シアター」のシリーズを制作した。アメリカ各地で撮影された野外映画館の画面にKKKのデモや移住労働者などのイメージをデジタル画像ではめ込んだ作品である。今回の展示にも同シリーズから3点出品されている。だが中心になっているのは、新作の「Eclipce: 蝕」シリーズである。かつて人気を博したドライブ・イン・シアターはもはや過去の遺物となり、スクリーンは何も映さず、無人の建造物はボロボロに崩れ落ちようとしている。中川は、さらにピエゾグラフィという7色のグレーインクを重ねるプリント技術を駆使して、写真の画面を極端に黒っぽく整え、ネガとポジが一体化した幻影のような風景に仕上げた。それは、トランプ時代のアメリカが「過去を思い出すのではなく、過去を再び体験している」のではないかという、彼の痛切な現状認識に対応するイメージ操作である。

妻の故郷である沖縄の戦争体験を主題とした「沖縄─ガマ/バンタ/リメインズ」(2014)などもそうなのだが、中川の写真作品はつねに個と社会、過去と現在との対比とその緊張関係をベースとして成立してくる。コンセプトとそれを作品として実現していくプロセスが、しっかりと組み上げられているので、制作意図がストレートに伝わってくる。欧米の写真家たちにとっては当たり前なのだが、日本ではなかなかそのような写真表現のあり方が定着していかない。特に若い写真家たちに、中川の社会的な関心を強く打ち出した仕事に注目してほしいと思う。なお、同時期にPOETIC SCAPEでも「Kai─廻」展が開催された(11月16日〜12月29日)。こちらは身近な家族にカメラを向けた、より私的な要素を強めた作品である。中川の写真世界の幅は、さらに広がりつつあるようだ。

2018/11/27(火)(飯沢耕太郎)