artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

生誕110年 東山魁夷展

会期:2018/10/24~2018/12/03

国立新美術館[東京都]

明治生まれの画家の場合、第2次大戦中なにをやっていたか気になる。明治41(1908)年生まれの東山魁夷は戦争中は30代、画家として歩み始めてまもない時期だが、年譜を見る限り戦地にも赴かず、戦争画も描かず(描かされず)、比較的平穏に制作を続けていたようだ。もちろん家が空襲で焼けたり、敗戦直前に招集されたり、また戦後相次いで肉親を亡くしたりという不慮の出来事はあったものの、本人はそれ以前も以後も変わらず風景画を描き続けるだけで、「戦争」に対してどう考えていたのかが見えてこない。戦後まもない時期の《残照》がその答えだと魁夷ファンはいうかもしれないが、そんな答えで納得しちゃうほどぼくは若くもないし。そもそも「日本画」を専攻したにもかかわらず、なんでナチス・ドイツなんかに留学したんだろう? よくわからない。

作品を見ていて気づくのは、人がまったく描かれていないこと。自然の風景ならまだしも、田園風景にも都市風景にさえ出てこない。唯一垣間見えるのは「京洛四季スケッチ」30点のうち《壬生狂言》《宵山》《祇園まつり》の3点のみ。本画では1点もない。人間どころか動物も60歳を過ぎてようやく白馬が現れるくらいで、あとは《白い朝》に後ろ姿のキジバトが見られるだけ。白馬は何点かに描かれているが、これがまたヘタだから現実感に欠ける。なるほど人を描かないのはヘタだからかと納得。人の姿を描かせれば技量は一目瞭然だからね。だいたい日本画家でまともに動物を描けるのは竹内栖鳳くらいじゃないか。

では植物がうまいかというとそうでもない。《木霊》みたいに木を描かせても木に見えないし。でも森を描かせるとなんとかサマになり、山を描かせるとうまい。部分は苦手だけど全体は得意なのかと思ったら、都市風景を見ると《霧の町》や《静かな町》など建物の描写はヘタなのに(あ、《静かな町》の窓に小さな人影を発見!)、《窓》《石の窓》など壁の描き方はうまかったりする。要するに立体的な構築力に欠けるんじゃないかと思う。逆に画面構成は巧みで、この人はスーパーフラットマン、すなわち平面の国の住人だと思う。いっそ思い切って抽象画に転向したら、国民的画家ではなく国際的画家になっていたかもしれない。

終わりのほうに唐招提寺御影堂障壁画が公開されていた。館内に建築の一部を再現して障壁画をはめ込んだ大規模なインスタレーションだが、ひと目見て思い出したのは風呂屋のペンキ絵だ。いやお世辞ではなく、これを見ながら風呂に浸かったらさぞかし気持ちいいだろうなと思った。

2018/10/23(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00046650.json s 10150432

福永一夫「“ARTIST:1989-2018” 美術家 森村泰昌の舞台裏」

会期:2018/09/29~2018/10/21

B GALLERY[東京都]

福永一夫は京都市立芸術大学在学中の1980年に、同大学教授のアーネスト・サトウが指導する映像教室の講義を受けるようになった。そこで非常勤講師をしていた森村泰昌と出会い、同大学大学院を卒業後、商業写真家の助手を経て独立してから、そのセルフポートレート作品の制作に深く関わるようになる。いわば福永と森村は、写真作品の根幹となる画面構成のあり方について、アーネスト・サトウの教えを共有しており、そのことが互いに信頼感を持つことにつながっていったことは間違いない。

福永は、森村のセルフポートレート作品を最後の一押しで完成させる役目を持つ一方で、その舞台裏の光景を小型カメラでスナップし続けてきた。今回の展示は、2012年の「芸術家Mの舞台裏:福永一夫が撮った“森村泰昌”」展の続編にあたるもので、「なにものかへのレクイエム」シリーズを中心とした前回よりも、年代的にも内容的にも、より幅の広い作品を出品している。それらは単なる「舞台裏」の記録という以上に、福永のシャッターチャンスや画面構成に対する美意識の発露というべきものであり、彼の写真家としての力量が十分に発揮されていた。同時にそれらが、30年以上にわたって他者に変身するという特異なパフォーマンスに心身ともに没入してきた森村を、思いがけない角度から照らし出す、貴重な「ドキュメント」としての意味を持っていることはいうまでもない。

本展の最終日である10月21日に開催された福永、森村、そして筆者によるトークは、まさに以心伝心というべきアーティストと写真家との関係のあり方が、生々しい裏話も含めて披露され、非常に興味深いものとなった。なお、展覧会に合わせて、ビームスから同名の写真集が刊行されている。

2018/10/21(日)(飯沢耕太郎)

ふせなおき「名前のない写真」

会期:2018/10/20~2018/11/02

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

ふせなおきの展覧会の初日にギャラリーに顔を出したら、まだ展示作業中だった。どうやら当初のプランを変更したようで、壁全体を200枚ほどの写真で埋め尽くすつもりのようだ。その様子を見ながら思い出したのは、中平卓馬が1971年のパリ青年ビエンナーレに出品した「サーキュレーションー日付・場所・行為」のことである。その日に撮影した写真をすぐ現像、プリントし、壁面にどんどん貼り付けていくというパフォーマンス的な展示で、中平の写真は定められたスペースをはみ出して床にまで増殖し、事務局からクレームがついて撤去せざるを得なくなった。ふせの作品はここ10年ほどのあいだに撮影されたスナップショットの集積なので、むろん写真のあり方は違う。だが、写真家の生に寄り添うようにして撮影された写真群を、無作為に抽出して壁に貼っていくということにおいては共通性がある。近頃、中平やその同時代の写真家たちのような、アナーキーな、荒々しい展示風景を見ることが少なくなったので、その雑然とした佇まいがむしろ新鮮に思えた。

今回の展示では、カラーとモノクロの写真が混じり合っているのだが、そのなかでモノクロコピーの写真がまとめて貼られているパートが妙に気になった。聞けば、ふせは2016年に心臓発作で生死の境をさまよったことがあるのだという。モノクロの写真は、その後まだ心身ともに回復していなかった時期に、「意味なく」電車に乗って、行き過ぎる風景にシャッターを切り続けた時のものだという。全体に彼岸の気配とでもいうべき奇妙な浮遊感が漂っているのは、そのためなのかと合点がいった。その前後に撮影された、猥雑な「生の世界」の写真群も悪くないが、この「死の世界」のパートをもっと拡大していくと、面白いシリーズになるのではないだろうか。ふせは、2006年頃から写真を本格的に撮影し始めて10年余りが経過し、写真家としてもう一段階飛躍していく時期を迎えつつある。より破天荒な世界に踏み込んでいってほしい。

2018/10/20(土)(飯沢耕太郎)

澤田知子・須藤絢乃「SELF/OTHERS」

会期:2018/10/16~2018/11/22

キヤノンギャラリーS[東京都]

1977年神戸生まれの澤田知子と、1986年大阪府生まれの須藤絢乃の二人展である。この二人には、セルフポートレートを中心に作品を発表してきたという共通性がある。とはいえ、年齢や活動場所だけでなく、それぞれのセルフポートレートのあり方は相当に違っているのではないかと思う。澤田は自分の外見が変わることで、どのような社会的な反応を生むのかに関心があり、今回の展覧会のタイトルで言えば「SELF」を素材として、「OTHERS」のあり方を浮かび上がらせようとしてきた。須藤はその逆に、自己の内面性を「OTHERS」を素材として掘り下げてきたのではないかと思う。その二人が3年前に大阪のアートフェアで出会い、以後ディスカッションしながら今回のキヤノンギャラリーSの展示を組み上げた。

澤田は成安造形大学在学中の初期作品「Early Days」(1996~97/2018)と新作の「BLOOM」(2007~)を、須藤は稲垣足穂のエッセイのタイトルを借りた「Vita Machinicalis」(2018)を出品している。結論からいうと、今回の展示では両者の異質性よりも同質性のほうが際立っていたように思う。澤田のセルフポートレート制作の原点と言うべき「Early Days」は別として、メイクアップの美的効果を探求する「BLOOM」にも、アンドロイドの日常性を丹念に描出する「Vita Machinicalis」にも、「SELF」の可能性を拡張するというポジティブな思考が貫かれているからだ。二人のアーティストの出会いが連鎖反応を生んで、面白い化学変化が生じてきたのではないだろうか。

パネルが表裏に立ててあって、片側から見ると澤田の作品が、その反対側から見ると須藤の作品が目に入ってくるという会場構成もとても効果的だった。

2018/10/19(金)(飯沢耕太郎)

クロダミサト「裸婦明媚」

会期:2018/10/05~2018/10/21

神保町画廊[東京都]

クロダミサトは昨年から今年にかけて、SNSでモデルを募集して、6回にわたってヌード撮影のセッションをおこなった。今回の個展では、19名の女性たちをiPhoneで撮影した写真、600枚を、11×11センチの大きさにプリントして展示している。撮影場所は、写真展の会場になった神保町画廊であり、打ち合わせや準備等を入れると実際に撮影できる時間は30分くらいだという。

このシリーズは、ありそうであまりない取り組みだと思う。女性のヌードは、おおむね性的な欲望の対象として消費されるか、美的なフォルムや陰影を追求するかのどちらかになりがちだ。だが、クロダのヌードはことさらにエロスを強調しているわけでも、リアルなオブジェとして描写しているわけでもない。等身大の女性たちの「からだ」のあり方を、とても丁寧に、その細部にまで視線を届かせながら押さえている。個々の写真には、名前や年齢や日付けなどのデータは一切省かれているが、それもかえってよかったのではないだろうか。写真を見ながら、自分自身で意味付けしていかなければならないことで、写真(被写体)と観客との間に自発的な対話が成立していた。

大学時代の同級生をモデルに撮影した2011年の写真集『沙和子』以来、クロダは『沙和子 無償の愛』(2013)、『美しく嫉妬する』(2015)と、ヌード写真集の発表を積み重ねていった。そこで培われていった、モデルとの距離感を細やかにコントロールしていく撮影法が、本シリーズでも充分に活かされている。

2018/10/17(水)(飯沢耕太郎)