artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代
会期:2018/11/03~2019/01/20
国立国際美術館[大阪府]
「80年代」にフォーカスを当てた企画が目につく今秋。金沢21世紀美術館を皮切りに巡回中の「起点としての80年代」展が作家数を絞ってテーマ別の構成を取ったのに対して、本展ではクロノロジカルに65名を見せるという総花的な構成となっている。「1980~81年」「1982~83年」というように2年ごとに区切り、制作年の順に作品を並べ、各セクションの頭には、例えばバブル景気、航空機事故、昭和天皇の崩御などメルクマールとなる出来事や社会現象を解説するパネルが掲げられる。だが、出品作は大半が絵画や具象的な彫刻であり、社会への直接的な言及や批評性は薄い。むしろ乖離や解説パネルの必然性への疑問を感じざるをえない。また、「制作年への準拠」に加え、基本的に「1作家1作品主義」であり、単調な見本帳のように均されていく印象を受けた。絵画画面の大型化、ペインタリーな筆触の強調、色彩性や触覚性、装飾性、レリーフ、キッチュ、引用や表象との戯れ(横尾忠則、中原浩大、森村泰昌、福田美蘭)といった共通項はうかがえるが、「80年代の時代の雰囲気」を伝えたいなら、商業的なイラストレーターや広告表現(「おいしい生活」)といった視覚文化を入れるべきだったのではないか。
ここで改めて展覧会タイトルに目を向けると、奇妙な欠落感に気づく。「ニュー・ウェイブ」から「関西」が消去されているのだ。だが、80年代の日本現代美術を歴史化するにあたり、いわゆる「関西ニュー・ウェイブ」の検証は避けては通れないだろう。作家ごとの解説パネルには、例えば「フジヤマゲイシャ」展という言葉だけが登場するのみであり、その中身や意義について踏み込んだ検証はなされない。メルクマール的な展覧会を「再現」し(現存しない作品は再制作もしくは資料で補い)、実作品と当時の言説の両面から検証するなど方法はあった。歴史化=羅列された年表化ではない。美術館の仕事は、微妙な「平等」主義や政治的「配慮」ではなく、議論の端緒を開くような斬新な視点と強固な枠組みの提示にあるのではないか。そこから、(賛同であれ批判であれ)見る者の思考が再起動するのだ。
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2018/11/03(土)(高嶋慈)
植本一子『フェルメール』
発行所:ナナロク社/Blue Sheep
発行日:2018/10/05
植本一子は一般的には写真家というよりは『かなわない』(2016)、『降伏の記録』(2017)などのエッセイ集の作者として認知されている。僕自身もそんなふうに思っていた。だが新作の『フェルメール』を手にして、彼女がとてもいい写真家であることをあらためて認識した。
植本は編集者の「草刈さん」と「村井さん」、デザイナーの「山野さん」とともに、世界中に点在するフェルメールの全作品、35点に「会いにいく」旅に出る。2018年3月20日〜26日および同年5月9日〜16日に、オランダ、デン・ハーグのマウリッツハイス美術館からアメリカ、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館まで、17カ所の美術館を巡り、現存するすべてのフェルメールの作品を撮影した。この撮影旅行が、どんな動機と目的で行なわれたかについての詳しい説明は最後までない。だが、掲載された写真を見て「旅の記録」として綴られた撮影日記を読むと、あえてそのことを詮索する必要もないように思えてくる。
植本は「末期ガンで入退院を繰り返していた」夫を亡くしたばかりで、この仕事が「新しい旅」へのスタートとなった。撮影にあたって、デジタルかフィルムのどちらで撮影するか迷いに迷って、結局フィルムに決める。本書の図版ページには、フェルメールの作品だけでなく、絵を見る観客たちの姿や旅の途中のスナップも挟み込まれ、そのことによって、旅のプロセスが立体的な膨らみを伴って浮かび上がってくる。写真と文章とを行きつ戻りつすることで、読者はあらためてフェルメールの絵の魅力に気づくとともに、ひとりの表現者の再出発に立ち会うことになる。判型は小ぶりだが、写真家としての次の仕事もぜひ見てみたいと思わせる、極上の出来栄えの写真集だった。
2018/11/02(金)(飯沢耕太郎)
改組 新 第5回 日展
会期:2018/11/02~2018/11/25
国立新美術館 [東京都]
タイトルの「日展」にたどり着くまでに「改組」「新」「第5回」と障害物が邪魔をする。あるいは勲章のつもりか。改めてチラシを見直したら、赤地にでかく白抜きで「日展」とあり、その下に「111」「since 1907」とあった。1907年に始まり111回目という意味だ。いっそアニュアル展として「日展2018」とかにしたほうが「ナウ」くね?
いつものように日本画から見る。まず驚いたのは、フルーツやプリンから流れる汁で泳ぐスクール水着の子供たちを描いた三浦弘の《ハッピーモーメント》と、プールで泳ぐ女性たちと揺らめく水面をとらえた井上律子の《READY TO GO》。2点は似ているわけではないけれど、どちらも色が明るくポップで、どちらも幸田千衣の「泳ぐ人」を思い出したのだ。この主題、この色彩、このスタイル、ぜひ「洋画」に転向してほしい。というか、早く「日展」から足を洗ってインディペンデントで活躍してほしい。田島奈須美の《月の妖精「ナンナ」》も色鮮やかでポップでマンガチックで、とても日本画とは思えない。というか、日本画である必然性が感じられない。早く「洋画」に転向してほしい。
変わったところでは、池田亮太の《空き地》はほとんど真っ黒。よくよく観察すると家のかたちが現れ、民家に囲まれた空き地らしきものが見えてくるが、パッと見真っ黒。よくこんなの出したなあ、というか、よくこれで入選したなあ、日展も変わったもんだと感心する。最後に、伊砂正幸の《green day》。画面を4×5に20分割し、各小画面に緑を基調に魚や鳥やドアノブや人間の足などを描いている。これもよく入選したなあ。はっきりいって、洋画部門にこんな冒険作は1点もなかった。果たして「洋画」が立ち腐れているのか、それとも「日本画」が解体し始めているのか。
2018/11/02(村田真)
プレビュー:マーク・テ+YCAM共同企画展 呼吸する地図たち
会期:2018/12/15~2019/03/03
山口情報芸術センター[YCAM][山口県]
マレーシアを拠点とする演出家、リサーチャーのマーク・テを共同キュレーターに迎えた展覧会。マーク・テは、演劇作家、映画監督、アクティビストらが集うマレーシアのアーティスト・コレクティブ「ファイブ・アーツ・センター」のメンバーでもある。日本ではこれまで、TPAM──国際舞台芸術ミーティング in 横浜 2016とKYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNで『Baling』を、シアターコモンズ ’18では『バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章』を上演。レクチャー・パフォーマンスの形式でドキュメント資料や出演者自身の個人史を織り交ぜながら、マレーシアの近現代史を複眼的に検証する気鋭のアーティストだ。
本展では、東南アジアと日本のアーティストやリサーチャーが、各国の歴史、文化、政治、経済、日常生活などを独自の視点でリサーチし、自らの言葉で語りかけるレクチャーやレクチャー・パフォーマンス作品が、12週にわたって主に毎週末に開催される。以下、その一部を紹介する。
シンガポールのアーティスト、ホー・ルイアンは、TPAM 2016や「サンシャワー : 東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」展で発表した《Solar: A Meltdown》が記憶に新しい。このレクチャー・パフォーマンスでは、アジアやアフリカなどに赴いた植民地主義時代の欧米人が、熱帯の太陽がもたらす「汗」を徹底して隠蔽したこと、その背後には「団扇で涼を送る」現地労働者と家庭の清潔さを保つ女性たちの労働があったことが指摘される。本展での上演作品《アジア・ザ・アンミラキュラス》では、1997年のアジア通貨危機を出発点に、ポップカルチャーにおけるアジア経済の未来主義の出現、発信、流通をたどるという。また、シンガポールの歴史学者のファリッシュ・ヌールは、200 年前の地図に焦点を当て、英領ジャワにおける植民地時代の地図製作の役割や地図と権力の関係を紐解く。ジャカルタを拠点とするイルワン・アーメット&ティタ・サリナは、東南アジアの海上交通の要衝、マラッカ海峡における国境の支配に対し、密輸、転覆工作、宣誓といった行為からヒントを得て、シンガポールの国境を通過するための8つの方法を提案する。一方、演出家の高山明は、国籍という概念を超えて暮らす海上生活者から着想し、移動性、越境、侵入、ハッキングなどの視点から参加者とリサーチを行なうワークショップ「海賊スタディ」を実施する。また、キュレーターの小原真史は、1903年に大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会で「人間の展示」が行なわれた人類館と新たに発見された写真を中心に、近代日本の自己像と他者像について考察する。
シアターコモンズ ’18や来年開催されるシアターコモンズ ’19がレクチャー・パフォーマンスに焦点を当てているように、従来の舞台公演とは異なるこの形式も浸透しつつある。社会批評や表象分析、歴史研究といった硬派な主題のなかに、映像や身体性、アーティストならではの新鮮な視点や想像力の契機を持ち込むことで、見る観客の能動的な思考が促される。また、マーク・テ自身もそうだが、アーティスト、研究者、演出家、キュレーターといった職能的なカテゴリー区分を流動化させていく側面も持つだろう。
さらに本展では、これらに関連した映像インスタレーションやドキュメンテーションも上映される。カルロス・セルドランは、スペインとアメリカの統治、日本軍の占領、戦後政権の復興などさまざまな歴史的事象によって上書きされてきたマニラの史跡についてのパフォーマンス・ツアーの映像を上映する。ヴァンディ・ラッタナーは、カンボジアのクメール・ルージュ政権下で亡くなった姉に向けて語るヴィデオ・インスタレーション『独白』を上映する。やんツーは、自らがロードバイクで移動して集めた地形データからフォントを生成するソフトウェアを自作。VRを使った主観視点で、山口の地形からフォントが生成される過程を追体験できる作品を展示する。3がつ11にちをわすれないためにセンター(せんだいメディアテーク)は、市民、専門家、アーティスト、スタッフが協働し、復興のプロセスを独自に記録したアーカイブを活用した展覧会「記録と想起・イメージの家を歩く」より、小森はるか+瀬尾夏美、鈴尾啓太、藤井光の3つの映像作品を抜粋して展示する。
このように本展は極めて多様な切り口から構成されるが、植民地支配から現代に至るまで、金融、移民、翻訳などさまざまな交通と地政学的なポリティックスを再検証し、国境によって分断化・固定された静的な地図ではなく、多中心的で有機的、動的なネットワークとしての「地図」がどう構築されていくのか。毎週末、山口に通いたくなる充実したプログラムに期待がふくらむ。
関連レビュー
KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN マーク・テ『Baling(バリン)』|高嶋慈:artscapeレビュー
SPIELART マーク・テ『VERSION 2020 - THE COMPLETE FUTURES OF MALAYSIA CHAPTER 3』|山﨑健太:artscapeレビュー
シアターコモンズ ’18 マーク・テ/ファイブ・アーツ・センター「バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章」|高嶋慈:artscapeレビュー
2018/10/30(火)(高嶋慈)
SOME Planning by THINKS ARTISTS
会期:2018/10/13~2018/11/04
アートラボはしもと[神奈川県]
八王子から相模原にかけての地域には多摩美、造形、女子美など美大が点在する。郊外なので工場跡や空き倉庫も多く、家賃も安いため、卒業後もこの地に留まり共同でスタジオを借りて制作を続けるアーティストが少なくない。そうしたスタジオ24軒が同時期に創作の場を公開する「SUPER OPEN STUDIO 2018」が開かれている。その中心的展示がこの「SOME Planning by THINKS ARTISTS」だ。さっそく文句をいうが、なぜアルファベットを使うのだろう? 外国人だけに見てほしいならそれでもいいが、大半は日本人のはず。日本人の脳ではアルファベットだとパッと見わかりづらいし、なにより目立たないので損だと思う。ダサいかもしれないが、カタカナか日本語表記に改めるべきだ。
ともあれ、その拠点となるアートラボはしもとではダイジェスト版ではないけれど、全館を使って各展示室ごとにテーマを設け、計33人の選抜アーティストの作品を紹介している。展示室でおもしろかったのは「169.8cm」をテーマにしたC室。久野真明の《「169.8cm」のための看板》は、木枠を継ぎ足した上にキャンバスを載せて看板をつくり、鏡文字で「169.8cm」と書いている。おそらく作者の身長とおぼしき高さのこの看板、作者の自画像と見ることもできる。久村卓の《展示のためのベンチ》は幅と色の異なる木材を座面に用いたシンプルなベンチ。タイトルの「展示のための」とは、これが展示作品であると同時に、展示するために使ったベンチとも、展示を見るためのベンチとも、逆に座ったら壊れるので見るだけのベンチとも読め、きわめて曖昧な存在になっている。今井貴広の《ほころびと永遠》と《呼気を巡る》は、この展示室に使われているアルミサッシを延長させたり、壁のひびに同調するような細工をしている。空間にツッコミを入れてる感じだ。
個々の作品では、パウロ・モンテイロの小さな金属の固まりを床に置いた作品や、大野晶の粘土による板状のミニマルな作品はいまの時代、なんとなく懐かしさを覚える。小林丈人はひらがなをモチーフに絵を描いているが、木材を立体的に組み立ててキャンバスを被せ、その上にひらがなを描いた小品が新鮮だ。最後の部屋は宮本穂曇と箕輪亜希子の2人だが、宮本の絵はオーソドックスながら、いやオーソドックスゆえもっとも魅力あるペインティングになっていた。一方、箕輪は天井から床に2本の角材を10脚ほど立て、その間に高さが異なるようにベニヤ板を張って文章を書いている。文章の内容はともかく、2本の角材とベニヤ板の組み合わせがギロチンのように見えて仕方なかった。意図したのだろうか。
これが屋内の展示で、屋外ではまた別企画の「野分、崇高、相模原」という野外展が開かれている(といってもここには2点だけで、ほか数カ所のスタジオでも開催)。ひとつは草むらにゴロンと置かれた小田原のどかによる子供の首像。長崎で被爆した天使の首を石膏で模造した「記念碑」だそうだ。一般に記念碑は土地に根づいた「不動産美術」だが、これは移動可能な「動産美術」としての記念碑。もうひとつはキャンバス画と割れた絵皿をなかば土中に埋めた水上愛美の作品(もう1点あったようだが見逃した)。なにか災害の後のようにも見えるし、数百年後に発掘された遺物のようでもある。前者が「不動産美術の動産化」であるとすれば、後者は「動産美術の不動産化」といえないこともない。
ところでこのアートラボはしもと、初めて訪れたが、2階建てで観客席のついたレクチャールームはあるわ、バス・トイレ完備のゲストルームはあるわ、いったいなんの建物だったんだ? 聞いてみたら、隣にそびえるタワーマンションのモデルルームを兼ねた事務棟だったらしい。作品の展示場所としてはけっこう広いし、生活感もあるのでアーティストにとってはチャレンジングな空間だ。でも隣接する広大な商業施設アリオ橋本に比べればざっくり100分の1程度だし、だいたい「アートラボ」としていつまで借りられるのかちょっと心配ではある。
2018/10/29(村田真)