artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
生きてゐる山水 廬山をのぞむ古今のまなざし
会期:2018/08/31~2018/09/30
岡山県立美術館[岡山県]
日帰りで岡山県立美術館と大原美術館に絵を見に行く。まずは県立美術館の山部泰司。タイトルに山部の名前はないが、同展は山部の絵画40点ほどが、館蔵品の玉澗《廬山図》(重文)や、近年山部が影響を受けたという伝薫源《寒林重汀図》、伝李成《喬松平遠図》などの山水画と交互に展示されている。「山水画展」じゃ辛気くさいから山部の絵をオマケにつけたのか、それとも山部の絵だけじゃ人が来ないから山水画で客を呼び寄せようって魂胆なのかわからないが、扱いとしては五分五分だ。山水画には興味も知識もないので省き、ここでは山部について見よう。
山部が現在のような風景表現を始めたのは10年ほど前のこと。80年代には画面いっぱいに花のような鮮やかな色彩と形態の絵を描いていたのに、2、3年前に久しぶりに見たらずいぶん変わっていたので驚いたものだ。そのときは花から樹木へ、森林へ、山へと視点が徐々にズームアウトしてきたのかと勝手に思っていたが、どうもそうではなく、画材をあれこれ試しているうちに水墨表現に行きついたということらしい。ただし水墨画に転向したのではなく、キャンバスにアクリル絵具による山水的風景に近づいたというわけだ。ここ5年くらいは赤または青の線描で水流が描かれていたため、レオナルド・ダ・ヴィンチの洪水の図を思わせ、またそこから津波を連想させもしたが、いずれにせよ西洋絵画の名残があった。ところが最近は前述の薫源と李成に感化されたこともあって、よりリアルな水墨表現に近づいているように見える。そのため今回のような山水画との競演が可能になったのだろう。
展示で気になったのは、キャンバスを壁から20センチほど浮かせていること。これはおそらく画面に余白が多い山水画に対して、山部の風景画はオールオーバーにびっしり線描で覆われ、また表装も額縁もないので、壁に直接掛けると壁紙のように平坦に感じられてしまうからではないだろうか。だから壁とのあいだに一定の距離を保つ必要を感じ、壁から浮かせたのだろう。その効果で、図版で見ると版画のような印象だが、実際には巨大なタブローが現前してくる。
2018/09/28(村田真)
中藤毅彦「White Noise」
会期:2018/09/14~2018/10/13
ZEN FOTO GALLERY[東京都]
中藤毅彦は東京ビジュアルアーツ写真学科在籍中に、森山大道に師事している。その意味では生粋の「森山チルドレン」のひとりであり、これまで発表した作品においても、たびたびその影響を指摘されてきた。だが、今回東京・六本木のZEN FOTO GALLERYで開催した「White Noise」展の作品を見ると、彼もまた元田敬三と同様に、森山の路上スナップ写真の作法を取り込みつつ、独自の領域に踏み込もうとしているようだ。
「White Noise」は、2011年の東日本大震災以降に撮影した写真群を集成したシリーズである。ギャラリーの壁一面を埋め尽くす、モノクロームおよびカラー作品約50点のなかには、看板、ポスター、グラフィティなどの描写が目につく。中藤は明らかに、都市の表層を覆い尽くすそれらの視覚的記号に鋭敏に反応してシャッターを切っているのだ。そのような傾向は森山の写真にもあるのだが、中藤はかなり極端に画面のグラフィカルな要素を強化しているように見える。カラー写真を古い絵はがきの人工着色のような色味で出力しているのも、グラフィック志向の現われといえるだろう。また、あくまでも個の視点にこだわり、カメラを手に街を歩きつつ撮影する森山と比較して、中藤のビュー・ポイントは多層的であり、多様な方向に拡散していく。森山を起点とした日本の写真家たちの営みが、さまざまな形で枝分かれしつつ、収穫の時期を迎えつつあることがよくわかった。
展覧会に合わせて、ZEN FOTO GALLERYから同名の写真集も刊行された。川田喜久治の『地図』(1965年)や細江英公の『鎌鼬』(1969)などの写真集へのオマージュというべき、観音開きを多用した凝った造本が写真の内容とうまくマッチしている。
2018/09/27(木)(飯沢耕太郎)
森山大道「東京ブギウギ」
会期:2018/09/15~2018/09/30
NADiff a/p/a/r/t[東京都]
森山大道の新作『東京ブギウギ』(スーパーラボ、2018)は、2017年以降に新宿、渋谷、池袋、浅草、銀座などの路上で撮り下ろした、カラー写真のストリート・スナップをまとめて掲載した写真集である。森山のカラー作品を特徴づける「チャラチャラ」、「ペラペラ」のキッチュな事物のオンパレードで、平成最後の日々の東京の眺めが、B6判の小ぶりな写真集にぎっしりとパッケージされている。今年80歳を迎えるとはとても思えない、若々しい意欲あふれる写真集の造りを大いに楽しむことができた。
『東京ブギウギ』は通常版のほかに200部限定、オリジナルプリント付きの特別版も刊行されている。そのうちの100冊が、東京・恵比寿のNADiff a/p/a/r/tのギャラリー・スペースで展示・販売された。普通の展覧会のように、作品が全部最後まで壁に掛けられているのではなく、販売済みのものは「sold out」の貼り紙を残して撤去されてしまう。僕が見に行った時には、すでにかなりの数の作品が姿を消していた。どうやら、いかにも「森山っぽい」作品からどんどん売れていったようだ。どうしても残り滓を見せられているような気分にはなるが、これはこれで面白い試みなのではないかと思う。ただ、できれば売れた写真の画像をコピーして残していただけるとよかった。そうすれば、「森山っぽい」写真がどんなものなのかの検証もできただろう。
2018/09/26(水)(飯沢耕太郎)
元田敬三「御意見無用」
会期:2018/09/15~2018/10/08
MEM[東京都]
森山大道展が『東京ブギウギ』を展示していたNADiff a/p/a/r/tの階上にあるギャラリー、MEMでは、元田敬三の「御意見無用」展が開催されていた。ビジュアルアーツ専門学校大阪出身の元田は、森山に直接に教えを受けたわけではない。だが路上スナップ写真への徹底したこだわりを見ると、まさにその正統的な後継者のひとりといえる。それでも、彼の新作を今回あらためて見直して、その撮影のスタイルにかなりの違いがあることがわかった。
何をどのように撮るのかを定めず、白紙の状態で街を彷徨い歩き、目の前に出現した被写体に反応してシャッターを切る森山に対して、元田はある程度被写体の幅を限定しているように見える。今回のシリーズでいえば、「群衆の中であきらかに特異なオーラを放ち、独自の人生観を持っている人たち」に特化してシャッターを切っているのだ。またストロボを多用し、21ミリの広角レンズを使っているために、彼が撮影した人物たちは周囲の光景から浮き上がり、奇妙に歪んだ姿で写真に写りこんでいる。結果として、元田の写真群には、あたかも狙った獲物に飛びかかるような緊迫した雰囲気が漂うことになった。
人によっては、あまりにも強引すぎる撮影法に見えるかもしれないが、1990年代から自分のスタイルを貫き通してきたことによって、彼の写真に独特の凄みと風格が備わりつつあることは間違いない。そろそろ『青い水』(ワイズ出版、2001)以来の制作活動の積み上げを、1冊の写真集にまとめる時期がきているのではないだろうか。
2018/09/26(水)(飯沢耕太郎)
台湾写真表現の今〈Inside/Outside〉
会期:2018/09/14~2018/09/29
東京藝術大学大学美術館[東京都]
東京藝術大学と台北駐日経済文化代表処は、2013年から「文化交流の促進及び台湾文化に対する認識向上」を目的として、「台湾・日本芸術文化交流事業」を開始した。その第6回目にあたる今年は、同大学美術学部先端芸術表現科の教員たちと東方設計大学美術工芸系助理教授の邱奕堅(チュー・イチェン)の共同企画により、「1960年代以降の生まれで、あまり日本では紹介される事の少なかった8名の写真家」による「台湾写真表現の今〈Inside/Outside〉」展が開催された。出品作家は陳淑貞(チェン・スウチェン)、杜韻飛(ドゥ・ユンフェイ)、候淑姿(ホウ・ルル・シュウズ)、邱國峻(チュー・クォチュン)、吳政璋(ウー・チェンチァン)、許曉薇(シュウ・ショウウェイ)、楊欽盛(ヤン・チンシェン)、趙炳文(チャオ・ビンウェン)である。
1980年代以降の経済発展、およびアメリカ、ヨーロッパ、日本などに留学していた写真家たちが相次いで帰国したことで、台湾の現代写真は、それまでのサロニズムやドキュメンタリー中心の表現から大きく脱皮していった。8人の作品を見ると、今や、彼らの表現のあり方がまさにグローバルなものであり、日本の写真家たちと比較しても、技巧的、内容的に非常に洗練されたものになってきていることがわかる。特徴的なのは、チェックアウト後のラブホテルの部屋を撮影した陳淑貞、東南アジアから渡ってきた移民二世たちのポートレートをトーマス・ルフばりの大判プリントで提示した杜韻飛、道路拡張のため取り壊された家の“田”の字の形に残された部屋の断面にカメラを向ける楊欽盛、農村地域の奇妙な建物群をタイポロジー的に記録する趙炳文など、台湾社会の変質に鋭敏に反応して作品化しようとする傾向が強いことである。逆に日本の同世代の写真家たちの作品には、そのような社会意識の欠如が著しい。
そうを考えると、台湾の写真家たちの営みは、アジア写真の現在と未来について多くの示唆を与えてくれるのではないだろうか。本展のような、多チャンネルの「文化交流」の機会をもっと増やしていくべきだろう。
2018/09/25(火)(飯沢耕太郎)