artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
山田弘幸個展「写真になった男」
会期:2018/06/16~2018/07/16
ARTZONE[京都府]
「TOKYO FRONTLINE PHOTO AWARD 2016」でグランプリを受賞し、副賞として翌年にG/P galleryで個展を開催した直後、作品を同ギャラリーに譲渡して失踪した写真家、山田弘幸。山田の失踪後、初の展覧会となる本展は、姿を消す直前に山田が発言した「写真のなかに入りたい」という言葉を導きの糸に、近作の複数のシリーズから抜粋した写真作品で構成されている。
「作家の不在」という状況、しかも没後の回顧展ではなく、「作家は存命であるにもかかわらず、作家不在を前提条件として成立する個展」というポイントは、「キュレーション」という問題機制を自ずと前景化させる。これは、同じARTZONEでひとつ前に開催された「ゴットを、信じる方法。」展とも共通する(ちなみに両展とも、京都造形芸術大学アートプロデュース学科4回生による企画である)。「ゴットを、信じる方法。」展では、エキソニモによるメディア・アート作品《ゴットは、存在する。》(2009-)を対象とし、アーカイバルな検証を加えつつ、約10年間のメディア環境の変化を踏まえて「再演」し、オリジナルとの「物理的な/コンセプト上のズレや隔たり」を提示することで、メディア・アートと技術的更新、ネット感覚に対する世代間の差異、「オリジナル」の物理的復元/(再)解釈行為の振幅で揺れる「再制作」、キュレーションにおける作家性の代行といった問題群を浮かび上がらせていた。
一方、本展では、キュレーターと作家はより確信犯的な共犯関係を結ぶことになる。本展の中核に据えられるのは、スペイン語で「父」を意味する《Padre》シリーズだ(上述のG/P galleryでの個展の展示形態が再現されている)。山田は、幼い頃に亡くした父の生前のポートレートをプロジェクターで投影し、その光を全身に浴びながら、父の服装やポーズを真似て重なり合うようにセルフ・ポートレートを撮影した。「既にこの世を去った/写真のなかにイメージとして残存する」父、その不在と存在の二重性は、「失踪」という行為を契機に山田自身へと折り重ねられる。本展のキュレーションは、「写真のなかに入りたい」という彼の願望を代行的に引き受けることで成就させようと目論むのだ。ここには、デュシャンの通称《遺作》──公には美術界から身を引きながら、死後の公開を条件として20年間秘密裡に制作されていた──のような、表現行為と制度との共犯関係に加え、存在論的な移行を可能にしてしまう写真というメディアの本質的な恐ろしさがある。
だが、《Padre》シリーズの持つ不穏さは、それだけだろうか。《Padre》は、額装プリントや制作プロセスの映像記録とともに、古びた「アルバム」にプリントを収めた形態でも発表されている。額装と異なり、アルバムは家庭の私的領域に属すものであり、それをめくりながら鑑賞する行為は、「父と私」というプライベートな関係に加え、「記念写真」性をより強調する。正装して写真に収まる若き日の父。同じく正装し、父のポーズをなぞり、ともに横に並んでカメラを見つめ、あるいは父の像を飲み込むように体内に宿す山田。「父親との同一化の願望」はさまざまに変奏して示される。写真に写った父と自分の頭部を切り取ってすげ替えた1枚では、デジタル合成でシームレスにつなげるのではなく、あえて切断面の不整合さを残すことで、父と自身の交換可能性が示される。あるいは、父のみが写った写真を執拗にトリミングを変えて反復し、輪郭や目のぼやけたアップになるまで引き伸ばしたシークエンスでは、「写真のなかの父」に接近しようとすればするほど触れられないジレンマが露わになり、欲望だけが加速する。《Padre》は、時空を超えて会する「父親との擬似的な記念写真」であり、そこには近親相姦的な一体化の願望すら透けて見える。
写真という装置を介して存在と不在が反転することに加え、そうした欲望がもうひとつの境界侵犯として書き込まれていることが、《Padre》の根底に漂う不穏さではないか。
関連レビュー
2018/07/01(日)(高嶋慈)
im/pulse: 脈動する映像
会期:2018/06/02~2018/07/08
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
文化人類学を従来の「書かれた」民族誌に限定せず、映像、写真、サウンド、アートなどの表現領域と交差する複合的実践として行なう「映像人類学」に焦点を当てたグループ展。映画監督のヴィンセント・ムーンとプリシラ・テルモン、野外での遊戯的かつ即興的なパフォーマンスの記録映像や装置を展示したcontact Gonzo、映像人類学者の川瀬慈が率いる研究会「Anthro-film Laboratory」が参加し、同研究会のメンバーである若手映像人類学者らの作品上映やセミナーなどが行なわれた。
とりわけ本展で圧倒的なのは、ヴィンセント・ムーンとプリシラ・テルモンによる映像インスタレーション《HÍBRIDOS: ブラジルの魂たち》である。4年間にわたってブラジル各地のさまざまな儀礼やスピリチュアルな儀式を記録した映像が、3面のマルチスクリーンに投影される。どの地方のどの部族でどういった意味合いを持つか、といった説明的な要素は一切なく、臨場感あふれる映像と音響のめくるめく渦のなかに巻き込まれるような体験だ。半裸の体躯に装飾品をまとい、大地を踏みしめ、リズミカルな掛け声を続ける男たち。薄暗い小屋の中で目を閉じ、呪文のような短いフレーズを唱えるシャーマンらしき人物。そうした先住民族の儀礼の映像の隣に、現代的な服装の人々による宗教的な集いやセレモニーが並置される。ハグし合い、痙攣的な身振りで集団的なトランス状態に至る人々。飾り立てられた女神像をみこしのように担ぎ、海へ入っていく男たち。花火が彩るカーニバルの都市的祝祭。黒人も白人も先住民族もいて、ブラジルという国家を構成する多様な民族、人種、宗教、文化を映し出す。
それらの記録映像を複数並置+ループという構造で見せる本作において、特に重要なのは音響的操作である。マルチスクリーンは、ある時はくっきりと浮上したひとつの音響によって主旋律のように貫かれ、ある時はそれぞれの音響の輪郭が溶け合い、遠くから響くざわめきのように感じられる。男たちが刻むリズミカルな掛け声は、ある瞬間、隣のスクリーンでたゆたうように踊る女性の身体と同調する。かと思うと、潮が引くようにすべての音響はカオティックに混じり合う。速度や抑揚こそ違えど、それぞれが刻むリズムは、神、自然、祖先の霊、世界とつながり交感するための媒介である。共鳴と混淆を通して、儀礼や宗教儀式に宿る根源的なものを探ろうとしていることが、体感的に理解された経験だった。
2018/07/01(日)(高嶋慈)
裸体像Tシャツ計画 20年の歩みとこれからのこと 北川純
会期:2018/06/12~2018/07/02
ARTnSHELTER[東京都]
街中の裸体像にTシャツを勝手に着せるというプロジェクトを20年近く続けている北川純の個展。といっても裸体彫刻は持ってこれないし、一時的にしか存在しない「作品」なので、写真や映像による記録展となった。「現場」はやはり作者本人が在住する横浜や東京近辺が多いが、「被害」は全国各地に広がっている。以前、新宿の都庁の中庭に女性のヌード像が並んだとき、フェミニストが彫刻にTシャツを被せて問題になったことがあるが、北川にはそんな思想的背景はなく、いたずら半分で始めたこと。ただそうして続けていくうちに、ホメられたり叱られたりさまざまな反応があり、そこに魅力を感じたという。彼の行為は、まさにそうした人々の多様な反応を引き出す装置であり、公共と芸術について考えるひとつのきっかけになるのかもしれない。いや、それよりも、彼のより大きな関心は「エロ」にあるのだから、白いTシャツを着せることによって裸身を隠しつつビーチクを浮かび上がらせ、よりエロ度を増すという効果も狙っているに違いない。北川と企画者の太湯雅晴とぼくの3人による鼎談で、そんなことを話した。
2018/07/01(村田真)
むらたちひろ「internal works / 境界の渉り」
会期:2018/06/15~2018/07/01
Gallery PARC[京都府]
「染める」と「染まる」。他動詞と自動詞。技法と物理的現象。制御可能な操作的行為と、水の浸透、重力、染料の化学分子、湿度や温度、布の材質などの自然的要件。そのはざまで「染色」の可能性を探求してきた作家、むらたちひろ。本展ではとりわけ、透明感あふれる色彩の美しさのなかに、「境界(線)」をめぐる視覚的考察が目を引いた。
ハト目を施された布が、一見するとカラー・フィールド・ペインティングのような単純かつ美しい色彩構成で染められた《境界 borders/boundaries》は、三色旗のような3つの色の帯や丸、三角形のかたちが(架空の)国旗を思わせる。だが近づくと、異なる色同士の境界は曖昧に滲み、上から染めた色が下の色を浸食し、溶け合い、第三の新たな色の領域が生まれていることが分かる。「国旗」という集団をグラフィカルに象徴する装置を擬態しつつも、その内部では境界線は緩やかに溶け合い、グラデーションとして裏切っていく。また、布の下2/3を鮮やかなブルーに染め、上1/3を淡い水色で染めた《nothing》は、青い海と空が広がる光景を思わせる。だが、海と空が交わるところの「水平線」もまた、物理的には存在せず、私たちの認識が描く架空の線に過ぎない。《nothing》の周囲を取り囲む《ひろがるまる》では、染料が布に染み込んでいく拡がりと、糊による防染が「抵抗」として色の浸透を押しとどめる様相が同時に提示される。浸透を押しとどめる「抵抗」、そこで布の地と色面を切り分け、鋭利に引かれる直線。引かれた境界線をそれでも越え出ようとするわずかな滲み。「布」の内部で起こっている現象をシンプルに見せつつ、豊かな暗示を含み込む点に、むらた作品の優れた魅力がある。
2018/06/30(土)(高嶋慈)
新宅加奈子「I'm still alive」
会期:2018/06/26~2018/07/01
KUNST ARZT[京都府]
背中、肩、腕、胸、顔や髪の毛に至るまで、裸の全身に極彩色の絵具をまとった写真が並んでいる。接写された皮膚の表面は、たった今流れた鮮血のようにテラテラと光り、あるいは乾いて凝固し、爬虫類の皮や鱗をまとったかのような複雑な肌理を獲得している。上半身をフレーム内に収めた写真では、胎児のように丸めた背中に腕を回し、自らの身体を抱きしめるようなポーズが取られている。新宅加奈子は、自身の裸に絵具をまとう行為を作品化する作家であり、自分が「今ここにいる」現実感が希薄化してしまう恐怖を取り除き、生の実感を取り戻すための「儀式」として行なっているのだという。会場では、写真作品の展示に加え、毎日約4時間、裸身に絵具をまとい続けるパフォーマンスが行なわれた。日が経つにつれ、床には身体から滴り落ちた絵具が堆積し、作家が不在の時間帯は、椅子の座面や絵具の上に残された足跡が、身体がそこにあった痕跡を物語る。
新宅の作品は、美術史的にはボディ・アートの文脈に接続可能であるとともに、「身体表面に絵具をまとう」行為を全身へと拡張させることで、自らの身体をメディウムに、絵画/彫刻という制度的な弁別を撹乱ないし無効化させる行為であるとも言える。だが、「I'm still alive」というタイトル(生存証明としてこの文言の電報を作品化した河原温を想起させる)が示すように、生の実感や実存の切実な回復、とりわけ外界との界面である皮膚と物質との接触を通じた儀式的行為という点で想起されたのは、塩田千春の初期作品《Bathroom》(1999)である。これは、浴槽に浸かった塩田が泥で身体を洗い流し続けるパフォーマンスを記録した映像作品である。汚れを洗い流し、清めようとする行為それ自体が汚濁を増幅するというジレンマが提示され、行為の反復が、洗い流す/汚すという正反対の行為の決定不可能性を強調する。
一方、数時間に及ぶ新宅のパフォーマンスにおいては、行為の反復性よりも、濡れて乾くまでの「時間的持続」が重要な要素なのではないか。生の実感を回復させるために身体表面に塗られる絵具は、おそらく、自傷行為で流れる鮮血の代替物である。何かに耐えるように、うずくまった姿勢で座り続ける新宅の身体の表面では、擬似的に開かれた傷口から流れ出た鮮血=絵具が滴り落ち、色が混ざり合い、ゆっくりと乾き、ひび割れながら、かさぶた=傷口を覆って外界から保護する被膜としてのもう一つの「皮膚」を形成していくのだ。傷口から流出した血がやがて身を守る外殻へと変成すること。その時間の持続に耐えること。彼女のパフォーマンスを見る私たち観客も、性別や人種、生物の種さえも超えたような「新たな皮膚」の生成過程に、痛みの感覚とともに立ち会うのだ。
2018/06/30(土)(高嶋慈)