artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

五木田智央 PEEKABOO

会期:2018/04/14~2018/06/24

東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]

新作を中心にここ10年くらいの作品を集めた個展。点数としては36点だが、最後のほうの小品群は数百点で1点と数えるので、実際には千点くらいありそう。しかも200号大の大作も何点かあって、見ごたえ十分……かというと、実はそうでもない。いずれもモノクロームの肖像画で、1950-60年代のアメリカの白黒写真を参考にしたようなイメージだが、サラリと描かれていて引っかかるものがない。つまり大きいわりに情報量が少なく、あまり記憶に残らないのだ。でも最後の小品を集めた《Untitled》と、ブルーノ・サンマルチノ、フリッツ・フォン・エリック、キラー・カーンといった往年のプロレスラーのポートレートをレコードジャケット風に描いた《Gokita Records》には感心した。

2018/06/24(村田真)

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片山達貴「voice training」

会期:2018/06/19~2018/06/30

The Third Gallery Aya[大阪府]

「アァー…」「エー…」「ウァー…」という引き伸ばされた母音が、二重に重なり合いながら響く。2面プロジェクションの映像ではそれぞれ、互いの口や鼻、喉を指で触り、相手の発声を操作しようとする2人の男性の姿が映される。唇を横や上下に引っ張る、丸くすぼめさせる、鼻をつまむ、喉に接触する。相手からの干渉を受けるたびに、母音の音が変化し、あるいはくぐもった声となる。片山達貴の映像作品《ボイストレーニング_1》では、互いの発生器官に介入し、こねくり回し、身体に外側から力を加えて声を変化させることで、「声」が可塑的なものであることが音響的に示される。


片山達貴《ボイストレーニング_1》 2018


片山によれば、本作の制作に至る経緯として、結婚相手の母親が中国残留孤児2世(ネイティブの中国語話者/日本語は第二言語として成人後に習得)であり、意思疎通をはかるために、彼女と行なった中国語の発音練習を記録した映像作品《口づくり》があるという。差し向かいで発音練習をひたすら繰り返す行為は、自身の母語と向き合うきっかけになり、「自分の口は母語によって形づくられ、母語に制限されている」感覚が芽生えた。そこから、「自分の声はどこまで自分だけのものと言えるのか」という疑問が派生し、外部からの影響/自らの意志がせめぎ合うあわいを探ろうと、本作を制作したという。

「新しく家族になる人とのコミュニケーションをはかる」というポジティブな目的で始められた《口づくり》とは異なり、《ボイストレーニング_1》では、性差、年齢差、異言語の話者であること、「教える-模倣する」といった2者間のさまざまな差異はフラットに均され、声に介入し変化させる加圧的な「外側からの力」が何であるのかは、曖昧にぼかされている。ゆえに、見る者はそこにさまざまな「力」の発露を想像することが可能だろう。それは、ジェンダーや社会的立場など、日常的に私たちの身体的ふるまいを規定する社会的な関係性であり、「訛りの矯正」「正しい発音」「標準語」といった、教育やマスメディアを通して「国民の身体」として統制・均質化しようとする力である。あるいは、もしこの2人が異言語話者であった場合(例えば、日本語話者と韓国・朝鮮語話者であった場合)、「支配的言語の強制」「母語の剥奪」といった植民地的暴力を想像することも可能だろう。本作は、「_1」と銘打たれているように、パフォーマーを変えてシリーズ化が構想されているという。シリーズ化を通して、テーマの発展とより深い掘り下げに期待したい。

2018/06/23(土)(高嶋慈)

池田葉子「Crystalline」

会期:2018/06/08~2018/07/07

gallery ART UNLIMITED[東京都]

池田葉子は今年の1月に、「壁面をきらびやかに埋め尽くすヨーロッパ古典絵画」の展覧会をたまたま見て、作品を「コレクティブに見せる」展示の仕方に強い印象を受けた。今回のgallery ART UNLIMITEDの個展では、そのパワフルな視覚的効果を再現するために、一番大きな壁に大小さまざまな写真18点を、「結晶体=Crystalline」に見立てて展示構成していた(ほかに11点を出品)。

京都、北海道、ロサンゼルス、ロンドン、台北など撮影地はさまざまだが、被写体の切り取り方には独特の美意識とリズムを感じる。クローズアップで、何が写っているかわからないほどに抽象化された写真が多いのだが、色味をコントロールして柔らかいトーンでまとめているので、目に気持ちよく飛び込んでくる。今回、特に特徴的だったのは「結晶体=Crystalline」といっても輪郭がくっきりと際立った鉱物質ではなく、どちらかといえばエッジがぼかされた有機的な印象を与える、画面の一部がブレたりボケたりした作品だった。フレームの色や材質もそれぞれの写真で変えるなど、会場全体のインスタレーションも注意深く整えられていて、新たな方向に踏み出していこうとする強い意欲を感じた。

2016年に第32回東川賞新人作家賞を受賞したことで、池田の写真家としての営みに弾みがついてきているようだ。こうなると、モノや風景だけでなく、ヒトを撮影した写真も見たくなってくる。

2018/06/21(木)(飯沢耕太郎)

百々武「もう一つのものづくり MOTTAINAI ARIGATAI」

会期:2018/06/14~2018/06/20

キヤノンギャラリー銀座[東京都]

百々武が2017年に刊行した『もう一つのものづくり』(赤々舎)は、とても興味深いテーマの写真集だった。被写体になっているのは岡山に本拠を置く産業廃棄物処理会社、平林金属の作業場である。OA機器や家電から自動車や船舶まで、驚くほど多種多様な廃棄物を「選別・破砕・切断・解体・圧縮」して、リサイクル資源として活用していく現場が、克明に描写されていた。

今回のキヤノンギャラリー銀座の個展では、基本的には写真集のコンセプトを活かしつつ、展示作品のインスタレーションに工夫を凝らしている。かなり大判のプリントに引き伸ばされ、アクリル加工された写真(15点)には、それぞれの画面にのみエリアスポットライトで光を当て、あたかも現代美術の彫刻作品を思わせる産業廃棄物のフォルムや質感を強調している。また、金属やプラスチックの塊を、黒バックで「宝石のように」撮影し、モザイク状に並べて背後からの透過光で浮かび上がらせるインスタレーションもあった。この種の作品の場合、どうしても「モノ」中心の構成になりがちだが、作業員の存在をきちんと取り込み、ヒトの匂いのする空間として撮影していたのもよかったと思う。

大事なのは、産業廃棄物処理という仕事が、「処理ではなくものづくり」であり、その現場は「factoryではなくfarm」であるという認識が、きちんと貫かれているということだ。写真を通じて、そのことをけっして押し付けがましくなく、謙虚な姿勢で伝えようとしていた。「farm」としての工場というのは面白い観点だと思うので、被写体の幅を産業廃棄物だけでなく、もっと広げていってほしい。なお本展はキヤノンギャラリー名古屋(2018年7月5日~7月11日)、同大阪(2018年7月19日~7月25日)にも巡回する。

2018/06/20(水)(飯沢耕太郎)

ゴードン・マッタ=クラーク展

会期:2018/06/19~2018/09/17

東京国立近代美術館[東京都]

ゴードン・マッタ=クラークというと、パリの建物を円錐形にくり抜いた《円錐の交差》が知られている。ちょうどポンピドゥー・センターが建設中だったときで、再開発で取り壊される前の建物を使ったのだ。ほかにも、建物を真っ二つに切断した《スプリッティング》、ゴミを固めて壁をつくる《ごみの壁》、当時流行り始めたグラフィティを撮影して着色した《グラフィティ・フォトグリフス》、食を通じて交流を目指す《フード》など、すでに70年代に先駆的な活動を展開。その後のサイト・スペシフィックなインスタレーションやストリート・アートやコミュニティ・アートやソーシャリー・エンゲイジド・アートなどに道を開いたといっても過言ではない。意識したかしないかに関わらず、川俣正もPHスタジオも殿敷侃も中村政人もChim↑Pomもその影響圏内にあるのだ。

でもそのわりに知られてないのは、彼の作品がモノとして残らないこと、そして、78年にわずか35歳で病死したからだ。亡くなる前に、自分は有名じゃないから作品はすべて処分してくれと遺言したらしいが、遺族は処分しなかった。もし処分していたらその後の美術の流れは変わっていたかもしれないし、こんな極東の国立美術館で紹介されることなどありえなかっただろう。とはいえ、残されたものはスケッチや記録写真、ビデオ映像、使用した建築の断片などで、いかにも作品然としたものはほとんどない。今回の回顧展では、仮設壁を立てたり鉄パイプを組んだりフェンスを張ったりしたなかに、こうした記録や作品の断片をいかにも雑然とした感じで並べていた。まるで「工事中」で、マッタ=クラークにはまったくふさわしい。

そもそも都市を舞台にした活動を美術館で見せることを、マッタ=クラークは望んだだろうか。望んでいなかったから遺品を処分してくれと頼んだのではないか。そこは矛盾しているが、矛盾を抱えていたほうが展覧会としては刺激的になる。だいたい都市と美術の関係なんて矛盾しているし、それ以前に美術館の存在自体、矛盾の固まりではなかったか。みたいな、自爆的な展覧会。

2018/06/18(村田真)

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