artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

アート&デザインの大茶会

会期:2018/06/15~2018/07/22

大分県立美術館[大分県]

茶会をテーマにした展覧会は案外多い。千利休に端を発する茶道という絶対的な様式美がアーティストやデザイナーの心をくすぐるのだろうか。本展はマルセル・ワンダース、須藤玲子、ミヤケマイによる合同展だったが、茶会のテーマにもっとも即していたのはミヤケマイだった。そこで本稿では彼女のインスタレーション作品《現代の大茶室》を取り上げたい。

ミヤケがテーマとしたのは「モダン陰陽五行」。陰陽五行説はご存知の通り中国で生まれた自然哲学で、茶道にも深い関わりがある。ミヤケはこれを独自に解釈し、「木」「火」「土」「金」「水」の五つの空間をつくり上げた。寄付から細い路地を通り抜けると、最初の茶室へと導かれる。そこは五つの空間の結節点であり、入口でもあった。茶室に上がって掛軸などの作品を観ていると、ひとつの空間の入口に明かりが灯った。明かりに導かれて足を踏み入れると、そこは「木」の空間だった。この空間の壁にはいくつものアクリル板の額がかかっており、額には松や南天、椿などの常緑樹が根っ子を付けた状態で、1本ずつ、植物標本のように収まっていた。しかも根や茎、葉は本物だが、実や花は造作というキッチュな魅力がある。中央には半畳分の茶室に見立てたロッキングチェアが置かれており、そこに正座して揺られながら、いくつもの額を借景のように眺める仕掛けとなっていた。

ミヤケマイ《SHISEIDO THE STORE ウィンドウディスプレイ》 (2018)[撮影:繁田諭]

隣の空間へ移動すると、そこは「水」の空間だった。壁には幻想的な水滴の展示があり、懐中電灯の光を当てると、それまで見えなかったメッセージが浮かび上がる。また野点傘がかかった1艘の舟があり、舟の中に座ると、それまで聞こえなかった水の音が聞こえてきた。しかも水の音は2種類あり、片側は雨の音、もう片側は波の音である。舟の中で対面する2人が互いに別々の水の音を聞くという仕掛けだ。続く「金」「火」「土」の空間でも、そうした体験型の作品が並んでいた。本来ならひとつの茶室の中にある五行をあえて別々の空間仕立てとし、鑑賞者は体験を通して、自らの脳内で五行を再構成するというインスタレーションなのである。さらにミヤケが作品を通して伝えたのは、「見えないからそこにないとは限らない」という一貫したメッセージだった。鑑賞者は何かしらの行動を起こしたり、注意を払ったりしなければ見ることができない些細な事象にハッと気づかされる。それは普段の生活に置き換えてみても然りだ。スマホの画面ばかりを見ていては季節のちょっとした移ろいにすら気づけなくなってしまう。そんな現代人への警鐘のようにも捉えられた。

公式ページ:http://www.opam.jp/exhibitions/detail/328

2018/06/16(杉江あこ)

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小瀬村真美:幻画~像(イメージ)の表皮

会期:2018/06/16~2018/09/02

原美術館[東京都]

絵画にはジャンルのヒエラルキーがあって、エライ順に、物語画、肖像画、風俗画、風景画、静物画となる。なぜそうなるかというと、簡単にいえば人間が描かれているからという西洋のヒューマニズム思想による。とくに物語画はたくさんの人物が出てきてなにかドラマを演じるので、いちばんエラい。別の見方をすると、主題や対象が動的であるほど絵画のヒエラルキーが高くなるといえるかもしれない。物語画は登場人物がなにかを物語るもっとも劇的なシーンを再構築しなければならないから、描くほうも見るほうも高度な技術が必要とされるのに対して、静物画は動かないモノが相手なので比較的楽だ。そんなことも階層づけに関与しているだろう。

小瀬村は、そんな最下位の静物画を「動かす」ことで、物語画の地位に高めようとしているようにも見える。初期の映像作品《薇》は、卓上の果物を数カ月かけてコマ撮りし、アニメーションの手法で動かしたもの。果物が徐々にしおれて腐っていく様子が、10分ほどの映像に収められている。静物も長い目で見れば動いて(変化して)いくのだ。これと対をなすのが《エピソードⅢ》という映像。《薇》と同じくアニメの手法でつくられたものだが、こちらは人物が寝息をたてながら寝ているあいだに花は枯れ、壁にはシミが浮かび上がり、やがて剥落し始める。写真創成期のイポリット・バヤールによるポートレートに触発されたもので、たぶん「スリーピング・ビューティー(眠れる森の美女)」も入っているに違いない。人物だけが動かず、周囲の静物や風景のほうが変化していくという反転した世界だ。

ほかにも、切り花がしおれていく過程を静止画(写真)で撮ったり、初期ルネサンスの横顔の肖像画の目や口を動かしたり、静物の卓上にモノを落として配置を壊していく様子をスロー映像で捉えるなど、絵画・写真・映像のあいだでさまざまな試みをしているが、上記の初期2作品にすべてが凝縮されているように思える。また、撮影に使ったセットや小道具なども公開しているが、いらないんじゃね?

2018/06/15(村田真)

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小林秀雄「中断された場所 / trace」

会期:2018/06/08~2018/07/07

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

小林秀雄は1990年代後半から2000年代にかけて、HOKARI Fine Art Galleryやツァイト・フォト・サロンでクオリティの高い作品を発表して注目された写真家である。2014年には、EMON PHOTO GALLERYでひさびさの個展「SHIELD」を開催した。今回の展示は、旧作のニュー・プリントによるものだが、あらためて彼の作品の持つ喚起力の強さを感じた。

「中断された場所」は「繋ぎ合わせたコンクリートの壁で風景の一部を覆い、隔離する」シリーズで、ゴミ捨て場や空き地のような見慣れた空間が、架空のステージに変質させられている。「trace」は林や草むらのような場所で「ストロボを均等に発光」することで、やはりテンポラリーな虚構空間を出現させる。どちらも日常性と非日常性を逆転(あるいは往還)させるという発想を、緻密なコンセプトと完璧な技術で実現しており、日本の写真家には珍しいタイプの仕事を粘り強く続けてきたことがよくわかった。

小林の作品は一部では評価が高いのだが、一般的にはほとんど知られていない。それはひとつには、彼が被写体として選んでいる場所が、地域的な特性をほとんど持っていないからだろう。茨城県在住の彼の自宅の近くの、これといった特徴のない空間を舞台に展開されていることで、例えば「ヒロシマ」や「フクシマ」といった社会的、歴史的文脈へと観客を導く回路を設定することを頑に拒否しているのだ。だが、逆にいえば「なんでもない場所」への一貫したこだわりが、彼の写真作品の真骨頂ともいえる。近作を含めて、もう少し大きな会場での展示をぜひ見てみたい作家のひとりだ。

2018/06/13(水)(飯沢耕太郎)

第21回文化庁メディア芸術祭受賞作品展

会期:2018/06/13~2018/06/24

国立新美術館[東京都]

例年どおり冷やかし程度にしか見てないので、めんどくさい作品は通りすぎている。ずいぶん乱暴な見方だが、それで足が止まった作品はホメてあげたい。折笠良の《水準原点》はクレイアニメ。雪原か海原のような白い風景のなかをぐんぐん進んでいくと、ときおり津波のような高波が押し寄せる。なんだろうと見ていると、今度は同じ場所を斜め上から見下ろすかたちで映し出していく。なんと津波の中央では文字が生まれている、というより、文字が生まれる波紋で津波が生じているのだ。その文字をたどっていくと、シベリア抑留経験のある石原吉郎の詩「水準原点」になる。言葉の生成現場がかくも厳しいものであることを伝えるこのアニメも、かくも厳しい生成過程を経て完成したものだ。

もうひとつ、Gary Setzerの映像作品《Panderer(Seventeen Seconds)》はきわめてわかりやすい。映像のなかで男が観客に対し、「美術館で、平均的な鑑賞者がアート作品を見るのに使う時間は1作品につき約17秒であり、この映像作品はその制約を受け入れて17秒という理想的な鑑賞時間を正確に守っている」と語り、17秒で終わる。作品の内容と形式が完全に一致した「理想的」なアートになっているのだ。もちろん理想が必ずしもすばらしいとは限らないが。

2018/06/12(村田真)

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内海信彦展

会期:2018/06/05~2018/06/16

Fei Art Museum Yokohama[神奈川県]

屏風48面、計36メートルにおよぶ《INNERSCAPE 2016-18 “MULTIVERSE”》を中心とした展示。会場に入ると、観客を囲むように屏風が立ちふさがる。そこには、墨流しというか垂らし込みというか垂れ流しというか、たっぷりの墨を画面において風を送り墨を流すことで得られた複雑な流動的パターンが現出している。見ようによっては大洪水にも大津波にも見えないことはない、黙示録的世界観といってもいいかもしれない。手法としてはシュルレアリスムに近いが、内海はそれを「古代中国の画家がもっとも重視した「気」の力が顕現させる自然そのもの」とし、「そこに近代主義的な絵画への強烈な対抗文化を見出し」ている。キャンバスではなく屏風仕立てにしているのはそのためだ。画面をよく見ると、48面は墨の流れによって大きく3グループに分類でき、さらに継ぎ目で4枚ずつに分けられる。おそらく4枚単位で制作していったのだろう。これを物語として読めるだろうか。

2018/06/08(村田真)