artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

奈良美智「Sixteen springs and sixteen summers gone─Take your time, it won’t be long now」

会期:2018/07/07~2018/08/10

タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム[東京都]

奈良美智はいうまでもなく日本の現代美術を代表するスター作家だが、彼が写真に並々ならない関心を抱き続けてきたことは、それほど知られていないのではないだろうか。まだアーティストとして活動する前の10代の頃から、カメラを手にして写真を撮り続けてきた。だが今回タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムで開催された「2014年から約5年間に亘り撮影された写真群」による展示を見ると、写真はむしろ彼の作品世界の支えになっているのではないだろうか。奈良のドローイングや彫刻作品の多くは、観念レベルではなく身体レベルでの経験によるインスピレーションを得て制作される場合が多い。その場合、日常的な出来事を身体的に受け止め、記憶に落とし込み、それらをもう一度再構築して作品化するプロセスにおいて、写真で撮影するという行為が大事な役目を果たしているのではないかと思う。

ただ、今回の展示にもよくあらわれているのだが、奈良にとっての写真は単純な記憶のアーカイブというだけではない。それ自体がとても歓ばしい視覚的な体験なのだ。奈良の写真には正面から被写体を捉えた、いわゆる「記念写真」的な構図のものがとても多い。そして、そこに写っている被写体のほとんどは、彼が大好きなものなのではないかと想像できる。好きなものが目の前に現われたことの手放しの感動、そしてそれを写真という形で所有できることの歓びが、彼の写真からはつねに溢れ出ていて、その波動が観客を包み込むように広がってくる。今回のメイン展示である、3つの大きなテーブルに各55枚の写真を封じ込めたインスタレーションでは、それぞれの写真は以前のinstagramのように真四角にトリミングされていた。奈良はinstagramの「いいね!」の感覚を、実際にinstagramが登場する前から、ごく自然体で自分の写真に取り込んでいたということだろう。

なお展示にあわせて、タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムから写真集『days 2014-2018: Sixteen springs and sixteen summers gone─Take your time, it won’t be long now』が刊行された。そこにおさめられた写真も、ほとんどが真四角にトリミングされている。

Yoshitomo Nara, “SAKHALIN”, 2014, pigment print © Yoshitomo Nara / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film

2018/07/10(火)(飯沢耕太郎)

原田直宏「THE THIRD ROOM 三つ目の部屋へ」

会期:2018/06/22~2018/07/14

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

原田直宏は1982年、東京生まれ。2010年に早稲田大学芸術学校空間映像科を卒業し、2011年頃から写真作品を制作・発表し始めた。ZEN FOTO GALLERYでの個展デビューは、2014年の「泳ぐ身体」だが、そのときから「レイヨグラフ(フォトグラム)とストリートフォトグラフを混ぜ合わせる」という独自の手法を用いている。「泳ぐ身体」はモノクローム作品だったが、今回の「THE THIRD ROOM 三つ目の部屋へ」ではカラー写真に変わっており、フィルターを使ってつくり出したという原色の色面構成が効果的に使われていた。都市空間を舞台に見立てて、人工的なライティングで照らし出し、異化効果を引き出すやり方は、かなりうまくいっている。展示されている写真相互の関係性もよく考えられていた。

ただ、このまま続けていっても、バリエーションが増えていくだけなので、そろそろ次のステップに進むべき時期がきているのではないだろうか。「レイヨグラフとストリートフォトグラフ」という組み合わせは続けるにしても、どこで、何を撮影するのかという被写体の設定を、もっと注意深く考える必要がある。スナップ撮影だけではなく、あらかじめ場面をつくり上げて撮影する場合も出てくるかもしれない。その答えをうまく見つけられれば、作者の意図を、より精確かつ切実に観客に伝えることができるはずだ。

なお展覧会にあわせて、ZEN FOTO GALLERYから同名の写真集(プリントつきの「スペシャル・エディション」もあり)が刊行されている。

2018/07/10(火)(飯沢耕太郎)

三野新《Prepared for FILM》

会期:2018/06/01~2018/07/16

京都芸術センター[京都府]

京都芸術センター「Tips」展に出品された本作は劇作家サミュエル・ベケットの映画『フィルム』(1965)を元にしたインスタレーション。同時に、同タイトルのパフォーマンス(2014)を再構成したものでもある(ちなみに筆者はパフォーマンス版にドラマトゥルクとして参加していた)。

『フィルム』は逃げるように街路をゆく男の後ろ姿から始まる。男はある部屋に逃げ込むとカーテンを閉め、犬や猫を追い出し、鳥かごや金魚鉢に覆いをかけていく。他者の視線を排除し、安心した男がまどろみ始めると、カメラがゆっくりと男の正面へと回り込む。ハッと目覚めた男が目にするのは自らと瓜二つの男の姿だ。他者の視線をいかに排除しようと、自身の知覚から逃れることはできない──。

パフォーマンス版は犬や鳥かごなど映画に登場する要素を撮影した写真を展示したギャラリーで、それらの写真を使って『フィルム』を撮影する様子を観客に見せるというもの。インスタレーション版はパフォーマンスで使用した写真や上演台本、記録映像に加え、上演空間のジオラマと、そのジオラマを使った指人形によるパフォーマンスの「再演」映像によって構成されている。

インスタレーション版では、来場者の鑑賞行為そのものが元となったパフォーマンスの一部、視線の運動を再現することになる。そもそものパフォーマンス版自体が展示空間で写真を見ていく様子を要素として組み込んでいたからこその手法だが、指人形を使った「再演」映像とジオラマによるサイズ感の操作も効いている。鑑賞行為自体をキーにするという手法は、そのままの形で保存・再生することができないパフォーマンスをいかにアーカイヴするかという問いに対するひとつの応答であり、『フィルム』の脚本冒頭に掲げられた哲学者バークリーの言葉「存在することは知覚されることである」を体現するものでもあるだろう。作品に内在する運動は文字通り、鑑賞されることによって立ち上がる。

[撮影:Arata Mino]

公式ページ:https://www.aratamino.com/
三野新「Prepared for FILM」初演劇評:http://www.wonderlands.jp/archives/26131/

2018/07/08(山﨑健太)

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「地平」展

会期:2018/06/30~2018/08/04

CASE TOKYO[東京都]

『地平』は1972~77年に東京写真専門学校九州校(現・九州ビジュアルアーツ)、大阪写真専門学校(現・ビジュアルアーツ専門学校・大阪)の教員だった百々俊二、黒沼康一らを中心に、全10冊刊行された写真同人誌。掲載された写真は、「政治の季節」の余波が残る時代を背景に、自己と世界との関係のあり方を、文字通り体を張って問い詰めていくものが多かった。のちに有名になる黒沼康一のマニフェスト「見たいのはきみの写真でなく、きみの写真が開示する世界なのです」には、当時の若い写真家たちの気分がよくあらわれている。

その『地平』が、休刊から40年以上を経てCASEから復刊されることになった。メンバーは百々俊二、阿部淳、野口靖子、山田省吾、松岡小智、赤鹿麻耶、浦芝眞史の7名で、旧『地平』の創刊時のメンバーであった百々をはじめとして、ビジュアルアーツ写真専門学校・大阪の関係者、卒業生が顔を揃えている。「大阪」をキーワードに2カ月間で撮り下ろした作品をおさめた、その『地平』11号の刊行に合わせて、CASE TOKYOのギャラリースペースで、メンバーたちの作品展示が行なわれた。

大阪の写真家たちの「お家芸」というべき路上スナップが中心なのは予想通りだったが、都市の外観とインテリアとを写真で繋いでいく赤鹿の作品、ゲイの男性のポートレートをプリントアウトし、彼のリアルな身体と対比させた浦芝の作品など、新たな視点も芽生え始めている。黒沼のマニフェストは、今なお有効性を保ち続けているが、それを40年前とは大きく変容してしまった「世界」に向けて投げ返すには、より多次元的なアプローチが必要になるはずだ。とはいえ、その起点となるのが写真家一人ひとりの身体性であることが、彼らのエネルギッシュな写真群から充分に伝わってきた。「20、30、40、50、60、70代の各世代の女3人・男4人のメンバー」たちが、号を重ねるたびにどんな化学反応を見せていくのか、これから先がむしろ楽しみだ。

2018/07/07(土)(飯沢耕太郎)

ゴードン・マッタ=クラーク展

会期:2018/06/19~2018/09/17

東京国立近代美術館[東京都]

ゴードン・マッタ=クラークについては、切断系のいくつかの作品と、レストランを営む「フード」の活動は知っていたが、本展はほかに知らないプロジェクトがいろいろと紹介しており、ついに日本で彼の全貌に触れることができる貴重な内容だった。住居・空間・都市の空間と使い方に対するぎりぎりの挑戦は、建築では超えることが難しい一線を軽々と超えており、きわめて刺激的である。実際、彼は空き家に侵入して床や壁を切断したり、倉庫を改造したことによって、逮捕状が出たり、損害賠償請求が検討されている。美術館の依頼による仕事や許可を得たプロジェクトにしても、建築の場合、手すりなしで、人間が落下可能な穴をつくることは不可能である。とはいえ、リチャード・ウィルソン、川俣正、西野達、Chim↑Pom、L PACK、アトリエ・ワンの都市観察などを想起すれば、マッタ=クラークは現代アートのさまざまな活動を先駆けていたことがわかる。

彼は建築を学び、その教育を嫌い、父のロベルト・マッタと同じく、アートの道に進んだ。展覧会場の窓を破壊し、ときにはピーター・アイゼンマンを激怒させたこともある。が、やはりマッタ=クラークの作品はとても建築的だと感じさせる。円、球、円錐などのモチーフを組み合わせた切断の幾何学が美しいからだ。特に倉庫に切り込みを入れた「日の終わり」は、暗闇のなかに光を導き入れ、建築の破壊というよりも、空間の誕生を感じさせる。原広司の有孔体理論のように、閉ざされた箱に穴を開けること。その結果、光が差し込む(=開口の誕生)のは、建築の原初的な行為そのものではないだろうか。「日の終わり」は倉庫を聖なる教会に変容させたかのようだ。また内部の床や壁の切断も、垂直や水平方向に新しい空間の連続を生成している。彼の手法は、非建築的な行為と解釈されることが多いけれど、壊されゆく建築の内部に新しい建築をつくっているのだ。

早稲田大学建築学科小林恵吾研究室が製作した「サーカス」のダンボール模型(左)、美術館の前庭に展示された《ごみの壁》(右)


《スプリッティング:四つの角》


手前は「リアリティ・プロパティーズ:フェイク・エステイツ」、会場デザインは小林恵吾


《クロックシャワー》(写真右手)


「オフィス・バロック」(写真左手)と「市場」カテゴリの展示エリア(写真右手)


2018/07/07(土)(五十嵐太郎)

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