artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
菱田雄介「border|korea」
会期:2018/05/27~2018/06/24
Kanzan Gallery[東京都]
菱田雄介は2017年に写真集『border|korea』(リブロアルテ)を刊行した。2009年以来、北朝鮮を7回、韓国を10回以上訪問して撮影した、「朝鮮半島の北と南を並置した組写真」によるこの写真集は、土門拳写真賞や林忠彦賞の最終審査に残るなど高い評価を受ける(第30回写真の会賞を受賞)。ちょうど、南北首脳会談や米朝首脳会談が話題になり、朝鮮半島の政治・社会状況に対する関心が高まってきたことも、本展が開催された背景にあるだろう。
今回のKanzan Galleryでの個展は、むろん写真集に収録された学生、軍人、主婦、僧侶、生まれたばかりの赤ん坊などを対比させた写真の展示が中心なのだが、写真集では別冊として提示した「脱北者」の写真も含まれている。それよりも、むしろ本展において重要な意味を持つのは、新作の映像作品「Moving Portrait」ではないだろうか。「Moving Portrait」は、菱田が北朝鮮と韓国でモデルたちを撮影している様子を、別のカメラで撮影した「メイキング動画」とでもいうべき作品である。モデルたちはカメラを向けられることで、緊張や戸惑いの表情を見せる。特に北朝鮮の若い学生やダンサーたちの落ち着きのなさが印象深い。つまり、写真の前後の時間の厚みが動画によって補強されるとともに、彼らを取り巻く環境がリアルな空気感として捉えられているのだ。デジタルカメラに動画機能が取り込まれることで、「写真家による映像表現」の可能性は大きく拡張しつつあるが、本作もその雄弁な証明といえそうだ。
「border|korea」のシリーズは、一応は完結したが、現代社会におけるさまざまな「border」は、むしろ強化されつつあるように思える。それらを鋭敏に嗅ぎ当て、カメラを向けていく菱田の試みも、さらに続いていくはずだ。
2018/06/02(土)(飯沢耕太郎)
下瀬信雄「蛇目舞(jamais vu)」
会期:2018/05/30~2018/06/05
銀座ニコンサロン[東京都]
「蛇目舞」と書いて「jamais vu(ジャメヴュ)」と読ませる。「jamais vu」(未視感)は、「déjà vu」(既視感)の逆で、見慣れたものであるにもかかわらず、初めて見るように思えるという感覚である。下瀬信雄は「身の回りの自然、小動物」を撮影する行為を続けるなかで、「jamais vu」に気づき、それを写真シリーズに定着しようと考えた。今回の銀座ニコンサロンの個展では、その第一弾として55点のプリントが提示されていた。
下瀬は1944年生まれ、山口県萩市在住のベテラン写真家で、1977年の「萩」(銀座ニコンサロン)以来、これまで受賞記念展やアンコール展を含めると銀座、新宿、大阪のニコンサロンで30回もの個展を開催している。これは歴代最多であり、さらに更新されていく可能性が高い。にもかかわらず、いつも新たなジャンルにチャレンジしようとしている。今回の「蛇目舞」シリーズも、デジタルカメラだけでなく4×5インチ判や8×10判の大判カメラも使用し、ギャラリーの壁ごとにプリントの大きさを変えて展示するなど、若々しい意欲にあふれていた。デジタルプリントの色味の調整も、だいぶ思った通りにできるようになってきたようだ。
今回は、月の光で撮影された、不思議な生き物のような「キカラスウリ」の写真(DMにも使われている)など、植物のイメージが中心だったが、それだけでは終わるつもりはないようだ。「蛇目舞」シリーズは、今後はもっと幅の広い被写体で撮り続ける予定だという。次回の展示も楽しみである。なお、本展は2018年6月28日~7月4日に大阪ニコンサロンに巡回する。
2018/06/01(金)(飯沢耕太郎)
松原健「Spring Steps」
会期:2018/05/18~2018/06/13
LOKO GALLERY[東京都]
松原健は1980年代から写真作品をコンスタントに発表してきた。2000年代以降は映像を積極的に使ったインスタレーションに移行し、「記憶の反復や循環、共鳴」をテーマに、さまざまな方向に作品世界の幅を広げつつある。その高度に洗練された作品は、むしろ日本よりも欧米諸国での評価が高い。今回、東京・代官山のLOKO GALLERYで展示された「Spring Steps」も、彼の志向が隅々にまで行きわたった見応えのある作品だった。
今回の展示の発想の元になったのは、戦前に横浜のダンスホールで撮影されたという一枚の写真である。シックな装いの男女が、楽しそうに社交ダンスに興じている。松原はたまたまその写真を目にして、「ダンス」をモチーフにした作品群を構想した。メインの作品となる「Dancing Table」は、丸いガラスに封じ込まれた映像の断片が吊り下げられて回転し、それがテーブル上に置かれた割れた鏡に反射して壁に投影されるインスタレーションである。イメージの断片が、変幻しつつ姿を変えていく様は、幻影と現実とのあいだを往還する楽しみを味わわせてくれる。ほかにも、ダンスシューズや丸テーブル(松原が写真に付け加えた架空のオブジェ)をテーマにした作品が並び、会場には物憂いジャズのスタンダードナンバーが流れていた。
視覚、聴覚などを喚起する全身的な体験を、細やかに編み上げていく松原の能力の高さは、特筆すべきものがある。だが、何度かこの欄でも指摘しているように、日本の美術関係者の評価はあまり高まってこない。もう少し大きな会場で、思う存分腕をふるった作品群を見たいものだ。
2018/06/01(金)(飯沢耕太郎)
荒木経惟「恋夢 愛無」
会期:2018/05/25~2018/06/23
タカ・イシイギャラリー東京[東京都]
「モデル問題」で、ネガティブな状況に直面した荒木経惟だが、本展を見る限り、写真家としての凄みはさらに増しているように思える。6×7判のカメラで撮影されたプリントが98点並ぶ会場には、この写真家が本気を出したときに特有の、張り詰めた緊張感が漂っていた。
荒木は基本的に「コト」に反応してシャッターを切る写真家だが、時折、あえて被写体を「モノ」として突き放し、一切の修飾語を剥ぎ取った裸形の存在を開示する写真を出してくることがある。今回の「恋夢 愛無」展には、殊のほか、そんな写真が多く選ばれているように感じた。タイトルを勝手につけてしまえば、「右眼の女」、「帰宅途上の小学生」、「洗面台の生首」、「部屋の隅の小人」、「空を指差す指」といった写真群だ。時に微妙にピントがズレたり、ブレたりしている写真もあるが、奇妙な霊気が漂っていて心が揺さぶられる。全点、モノクロームにプリントしたのもよかったのではないだろうか。例によって「写真は、モノクローム。恋は、モノクロー夢。愛は、モノクロー無」と洒落ているが、被写体の骨格をより強く、くっきりと浮かび上がらせることができるモノクロームのほうが、カラーよりも「写真」に内在する輝きと表現力が純粋に宿っているように見える。
本展は、荒木の78歳の誕生日にオープンした。たしかに「後期高齢写」ではあるが、まだエネルギーは枯渇していない。新作がいつも待ち遠しい写真家はそれほど多くはないが、荒木は僕にとっていつでもそのひとりだ。
「恋夢 愛無」(2018)ゼラチン・シルバー・プリント Image size: 42×53 cm / Paper size: 45.7×56 cm
© Nobuyoshi Araki
2018/05/31(木)(飯沢耕太郎)
ルーヴル美術館展 肖像芸術—人は人をどう表現してきたか
会期:2018/5/30~2018/09/03
国立新美術館[東京都]
これまで数多くの「ルーヴル美術館展」が開かれてきたが、今回は「肖像」がテーマ。肖像といってもいろいろあるので、序章と終章を除いて「記憶のための肖像」「権力の顔」「コードとモード」の3章に分けている。このうち第3章は広く肖像画を集めているので省くとして、第1章は消えゆく人の姿を残すため、第2章は権威づけのプロパガンダとしてつくられたもので、前者は「死への抵抗」、後者は「生への執着」と読み替えられるかもしれない。おそらくここに絵や彫刻をつくることの初期衝動が潜んでいるはずだ。
第1章で注目したいのは、数人の家族の顔を石板に彫ったレリーフ《墓碑肖像》と、腹から虫がわき出し腸がはみ出ている悲惨な姿を彫った《ブルボン公爵夫人…(長いので省略)》という石像。前者は家族の思い出に彫ったものだが、どの顔も似たり寄ったりで区別がつかず、後者は「メメント・モリ(死を想え)」の一種だろうが、悪趣味きわまりない。だからおもしろい。有名な作品では、ダヴィッドの《マラーの死》(弟子に描かせたコピーで、原画はブリュッセルにある)も出ているが、これは英雄の死を悼むと同時に、革命のプロパガンダとしても機能したことから、第1章と第2章の橋渡しも兼ねているようだ。
第2章ではアレクサンドロス大王やカラカラ帝、グロによるナポレオン1世などおなじみの肖像があるが、そそられるのは《国王の嗅ぎタバコ入れの小箱》に収納された権力者たち48人の小さな肖像画。セーヴル王立磁器製作所でつくられた磁器製のミニアチュールで、縦7センチ足らずの楕円形の画面にマリー・アントワネット、ルイ14世、モリエール、スウェーデン女王クリスティーナらの肖像が描かれているのだ。これはほしくなる。なぜほしくなるのか考えたら、おそらく掌に収まるくらい小さいうえに、絵画や彫刻より耐久性があるからだろう。つまり「永遠の生」を手に入れることに通じるのだ。
最後に、第3章で触れなければならないのは、メッサーシュミットの《性格表現の頭像》だろう。こんな彫刻は見たことないというくらい思いっきり顔をしかめたセルフポートレートなのだ。彼は自身が精神を病み始めたころから、笑ったり唇を突き出したり異様な表情の彫刻を密かにつくり始め、死後アトリエから69体もの変顔の頭像が発見されたという。ある意味、現代美術やアウトサイダーアートにも通じるものがある。
2018/05/29(村田真)