artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

ミリアム・カーン「photographs」

会期:2018/03/10~2018/05/12

ワコウ・ワークス・オブ・アート[東京都]

ミリアム・カーンは1949年、スイス・バーゼル出身の女性アーティスト。ユダヤ系の出自や、フェミニズムをバックグラウンドにしながら、外界と内面世界の狭間で形をとる幻想的なドローイングで知られている。WAKO WORKS OF ARTでの展示は3回目で、2012年の個展のタイトルは「私のユダヤ人、原子爆弾、そしてさまざまな作品」で、前回2016年のタイトルは「rennen müssen 走らなければ」だった。

カーンは1979~80年頃から「自分のアーカイブ」として自作を写真で撮影するようになった。その後、1990年代にスイスの山中のブレガリアで暮らすようになると、身近な環境や、ハイキングの途中で出会った景色を「ローライの小さなカメラ」で撮影し始めた。近年はデジタルカメラを使って、「チープなプリンター」で出力したりすることもある。今回の展示には、そうやって撮影・プリントされた写真が単独で、あるいはドローイングと組み合わされて並んでいた。また、画像を連続的にモニターで上映するインスタレーションもあった。

ドローイングと比較すると、カーンの「photographs」は、軽やかな「思いつき」の産物に見える。プリントのクオリティにはあまりこだわらず、写真を自由に並べることで、イメージ相互の響きあいを楽しんでいる。写真にさらに色鉛筆で加筆した作品もある。まだドローイングと写真との関係性が突き詰められているわけではないが、ユニークな作品世界に成長していきそうな予感を覚えた。この方向を極めていけば、ゲルハルト・リヒターやサイ・トゥンブリーのように、「写真家」としても高い評価を得るようになるのではないだろうか。

2018/04/11(水)(飯沢耕太郎)

写真都市展 ―ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち―

会期:2018/02/23~2018/06/10

21_21 DESIGN SIGHT[東京都]

ウィリアム・クラインは「20世紀を代表する写真家」で、「写真、映画、デザイン、ファッションのジャンルを超えた表現と、ニューヨーク、ローマ、モスクワ、東京、パリなどの世界の都市を捉えた作品で、現代の視覚文化に決定的な影響を与え」たそうだが、どこがいいんだかピンと来ない。でも展覧会は評判がいいので行ってみたら、クライン以外の日本人の作品が展示構成も含めてとても刺激的だった。

たとえば安田佐智種の《Aerial》は、超高層ビルなどの高所から都市の俯瞰写真を何百枚も撮り、撮影者の足元が消失点(そこだけ白く抜けている)となるように組み合わせた放射状の風景写真。《みち(未知の地)》は、東北の被災地の家が建っていた跡を歩きながら真上から撮影し、つなぎ合わせたもので、どちらも作者の拠って立つ足元を意識させる。西野壮平も都市の断片を歩きながら何千枚も撮って組み合わせ、再構築しているが、こちらは多焦点的で時間軸も組み込んだ未来派的写真といえる。勝俣公仁彦も、同じ場所から異なる時間に長時間露光で撮影した写真を組み合わせたシリーズを発表。静止画像が積層されて時間を与えられ、都市が動いているように感じられる。

彼らは写真を、1点の固定した場所から切り取った一瞬のイメージという既成観念から解き放ち、それこそ都市生活のなかでいつも感じているような多焦点的、持続的な経験を濃密に味わせてくれた。展示方法もすばらしい。仮設壁ならぬ太い仮設柱に展示したり、台の上面に貼りつけたり、印画紙の四隅を天井から吊るして宙に浮かせたり、あえて引きのない狭い通路の両側に大作を展示したり、多彩な写真に見合った多彩な展示で見る者を飽きさせない。満足して帰ろうとしたら、窓から藤原聡志の超巨大な画像が、まるで布団でも干すように垂れ下がっているのが見えた。唐突感がすばらしい。

2018/04/11(村田真)

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Re又造

会期:2018/04/11~2018/05/05

EBIS 303 イベントホール[東京都]

近ごろ大きな展覧会に行くと、目玉作品の絵を映像化して動かしたり、立体化したりする例が増えている。昨年の「ブリューゲル『バベルの塔』展」では、映像によって塔で働く人たちを動かしてみたり、塔を高さ3メートルを超える立体に再現してみたり、漫画家の大友克洋が塔の内部を想像で描いてみたり、一昔前にはありえないような試みをやっていた。なぜ一昔前にはありえなかったかというと、ひとつは技術的問題があるが、これは単純にCG映像の発達・普及によってクリアされる。もうひとつは著作権も含めた倫理的問題で、果たして世界的に価値ある芸術作品を現在の解釈で勝手に動かしちゃっていいのか、所有者は許可するのかといった問題がついてくるからだ。でも時代は確実に、そんなカタいこといわず、見て楽しければいいじゃんという方向に流れている。そんなわけで、展覧会の名画は少しずつ動き出している。

「Re又造」は、日本画家の加山又造を紹介する展覧会だが、フツーの展覧会を期待して行ってはいけない。作品は32点だが、原画は11点、つまり3分の1程度で、あとは版画、特殊印刷、陶板、そして映像なのだ。原画はまともに展示しているものもあるが、あえて照明を落としたり、妙な小細工でインスタレーションしているものもあって、まあ楽しめることは楽しめる。んが、絵画とはそれだけで成り立つように描かれているわけで、その上に演出を施すというのは余計なお世話というか、作者に対して失礼ではないかとも思う(もちろん親族の了承を得ているが)。六曲一双の大作《火の島》などは原寸大で映像化し、赤を基調とする山肌や雲をゆっくり動かしていた。たしかにすごい迫力だが、これを見た後で原画を見たらがっかりするかもしれない。山と波と月を描いた《春秋波涛》は、それぞれの図像ごとに3枚に分解し、距離を空けて重ね、立体的に見せている。これはもう原画とは違う作品として見たほうがいい。大きな部屋の天井には巨大な天井画《天龍寺雲龍図》の原寸大複製が張ってあるが、天井画は持ってくることができないのでこの複製は正しい使い方だ。最後は黒い薔薇模様のレースをまとった4人の女性ヌード像《黒い薔薇の裸婦》。なんと女性たちが艶かしく動くのだ。ちょっとやりすぎではないかと思ったが、よくも悪くもこれが展覧会の未来像なのだ。単なる「加山又造展」だったら見に行かなかっただろう。いろいろ考えさせられる、そして、はっきりいって楽しい展覧会だった。

2018/04/11(村田真)

吉野英理香「MARBLE」

会期:2018/04/07~2018/05/19

タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム[東京都]

吉野英理香のタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムでの3回目の個展となる本展のタイトルは、「光の中できらめく結晶石」を意味するというマーブル(大理石)から採られている。「日々のなか」で見出された事物のかけらを、拾い集めていくやり方に変わりはない。だが、2014~17年に撮影された作品から、17点を選んだ今回の展示作品の多くは、金属やガラスの輝き、鮮やかに色づく花々、光の戯れなど、彼女自身が「自由と希望を見出すカギ」と表現するような、美しく、肯定的なイメージに傾いているように思えた。

その「レンズを通して見た光の結晶」を切り出す手つきは洗練されていて破綻がない。前作の「NEROLI」(2016)では、どちらかといえば「匂い」への反応が強調されていたが、今回はより視覚的なアプローチになっている。写真作家としての安定した水準を保つことができる段階に達しているので、安心して写真を見ることができる。だが逆に、このまま洗練の度を強めていっていいのだろうかという疑いも生じてきた。吉野の写真がモノクロームからカラーに変わったのは、2011年の写真集『ラジオのように』(オシリス)からだが、その頃はまだネガティブで不透明な日常の厚みが、そのまま生々しく露呈していた。そこからノイズを削ぎ落としたことで、作品世界がやや小さくまとまってきている。ここで立ち止まることなく、五感のすべてを開放することで、安らぎと危険とが両方とも含まれているような、流動的な世界の像を定着していってほしいものだ。

Erika Yoshino, “Untitled”, 2014, C-print © Erika Yoshino / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film

2018/04/07(土)(飯沢耕太郎)

ブルーノ・ムナーリ こどもの心をもちつづけるということ

会期:2018/04/07~2018/06/10

神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]

ダネーゼの製品や美しい絵本、あとは《小ざるのジジ》。私が知っているブルーノ・ムナーリといえばこのくらいだった。しかし本展を観て、それはムナーリのほんの一面にすぎないことに気付かされた。なにしろ、本展は日本初公開作品だけで約150点もある「日本最大の回顧展」である。画家、彫刻家、グラフィックデザイナー、インダストリアルデザイナー、著述家といった、さまざまな顔を持つムナーリの思考をたどりながら、ムナーリを立体的に浮かび上がらせる内容となっていた。初日のレセプションに招かれた画家の渡辺豊重がムナーリを評して「美術でこれだけ遊んだ人はいない」と発言したが、まさにムナーリは多くの“実験”を通して遊んだのではないかと思えてくる。

ムナーリは、イタリアの前衛美術運動「未来派」の一員となり、抽象絵画を発表するところから活動が始まる。まずムナーリの抽象絵画を観る機会自体が初めてで、初っ端から新鮮な驚きをもたらした。その後、ムナーリは絵画に動きを取り入れることを思い付き「役に立たない機械」を発表する。これはいわゆるモビールなのだが、空気のわずかな流れを動力に一定の動きを繰り返すにもかかわらず、何も生産しないということから、この名を付けたという。また1枚の紙を折り曲げてつくった旅先に持ち運べる「旅行のための彫刻」や、座面が極端に斜めに傾いた《短い訪問者のための椅子》、フォークの歯を曲げて人のようなジェスチャーに見立てた「おしゃべりフォーク」など、ムナーリの実験的精神に基づいた遊びは尽きることがない。

《役に立たない機械》(1934/1983)

特定非営利活動法人市民の芸術活動推進委員会 © Bruno Munari. All rights reserved to Maurizio Corraini srl. Courtesy by Alberto Munari

なかでも秀作は子どものための絵本だろう。ムナーリは絵本において文字と絵のみならず、ページごとに紙のサイズを変えたり、フリップを付加したり、トレーシングペーパーを採用したりと、紙自体も表現手段として積極的に用いた。絵本以外にも、文字と絵すらない、さまざまな形に断裁された色紙を綴じた《読めない本》も有名だ。ムナーリは、線や色、形などの美術を構成する要素は、文字と同じように事物を伝えられると考えていたという。何事も固定概念にとらわれていてはならない。いつでも遊び心を大切に、人間の五感をフル回転して事物に接せよと、ムナーリに教えられているような気持ちになった。

《読めない本》試作(1955) パルマ大学CSAC © Bruno Munari. All rights reserved to Maurizio Corraini srl. Courtesy by Alberto Munari


公式ページ:http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2018/munari/index.html#detail

2018/04/07(杉江あこ)