artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

ブリューゲル展 画家一族 150年の系譜

会期:2018/01/23~2018/04/01

東京都美術館[東京都]

昨年から「ブリューゲル『バベルの塔』展」「ベルギー奇想の系譜」「ルドルフ2世の驚異の世界展」と、ブリューゲル作品が何点も公開されている。いよいよ世もマニエリスム期に入ってきたか。ところで、ご存知のようにブリューゲルといっても1人ではない。あの《バベルの塔》を描いた有名なピーテル・ブリューゲルの子孫の多くも画家になったため、単に画家のブリューゲルでは区別がつかない。しかもややこしいことに、ピーテルの長男は同じくピーテルという名で、次男はヤンだがその息子(ピーテルの孫)がまたヤンといい、その息子にヤン・ピーテル・ブリューゲルというのがいるから、もうヤンなっちゃう。以前、長男のピーテルは地獄図を描いたから「地獄のブリューゲル」、次男は花の絵を得意としたので「花のブリューゲル」と称されていたが、近年は父親をピーテル・ブリューゲル(父)、長男をピーテル・ブリューゲル(子)、次男をヤン・ブリューゲル(父)、その息子をヤン・ブリューゲル(子)と表記するようになった。でもそうすると、兄弟の兄が「子」で弟が「父」になってしまい、こりゃ変だというので今回は1世、2世と表記している。

さて、本家のピーテル1世は油彩画を約40点しか残してないため、所蔵先はなかなか日本には貸してくれない。今回も他者の筆が入った油彩の共作が2点、1世が下絵を手がけた版画が9点のみで、真筆の油彩は1点もない。いちばん多いのはヤン1世と2世で、全101点の出品作品のうちおよそ半分を占める。出品作家は一族の周辺の画家も含めて10人以上いるのに、この偏りはなんだろう? これと関連してか、所蔵先が明記してあるのは5点のみで、残り96点は匿名の「個人蔵」になっている。この「個人」が同一人物なのか複数いるのか、どこの人なのかわからないが、想像するにワケあって名を明かせないヤン・ブリューゲル大好き人間ではないか。ちょっと興味を惹かれる。

2018/03/29(村田真)

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猪熊弦一郎展 猫たち

会期:2018/03/20~2018/04/18

Bunkamura ザ・ミュージアム[東京都]

美術家や文豪にはなぜか猫好きが多い。熊谷守一や朝倉文夫などが記憶に新しいが、猫ブームも相まって、彼らの猫作品に焦点を当てた展覧会が近頃よく開かれている。美術に詳しくない者でも、猫を媒介にその美術への興味を持てるのだから、猫は偉大である。画家の猪熊弦一郎も部類の猫好きで知られていた。それも「いちどに1ダースの猫を飼っていた」というから半端ではない。本展は、タイトルどおり、猪熊が描いた「猫たち」に注目した内容だった。

猪熊が猫を飼い始めたきっかけは、もともと、妻が猫をかわいがり始めたことにある。猪熊の作品には妻をモデルにした人物画が多くあるが、最初は妻のそばに猫がたまたまいたため、ついでに猫も描いたという程度であった。それが多くの猫に囲まれて生活をするようになると、どんどん積極的に猫を描くようになる。戦前、パリに滞在してアンリ・マティスに師事していた頃は、マティスの影響を強く受けた色鮮やかな具象絵画のなかに猫を忍ばせた。また戦後、猪熊はニューヨークに渡って抽象絵画で大成するのだが、その移行期とも言える具象と抽象が入り混じった絵画を描いていた頃は、猫の姿形も徐々に抽象化されていった。このように自身の画風に合わせて、猫の絵も変化していったところが面白い。猪熊は猫を描くときに「写生したことはなかった」と言うほど、頭の隅々にまで猫の生態や特徴、さまざまなポーズが刻み込まれていたようだ。だからこそ、猫を題材に自由な絵が描けたのである。

猪熊が生前に作品を寄贈した丸亀市猪熊弦一郎現代美術館には、猫の絵だけでも約900点収蔵されているという。これら猫の絵のなかにはカンヴァスにきっちりと描かれた油彩画もあれば、スケッチブックにペンや鉛筆でさっと描かれた絵もある。むしろ後者の方が多いだろう。本展も大半がそうであった。最初は何かの作品の下絵なのかと思ったが、そうではない。まるで子どもが描いた絵のようにも見えるし、そのときのひらめきや思い付きを留めておくための備忘録のようにも見える。そのあまりの力の抜け具合に、思わず微笑んでしまう絵が多かった。このように猪熊が猫の絵をスケッチブックにさっと描いた行為はきっと、現代の私たちが猫をスマホで撮ってInstagramに写真を上げるような行為に近いのかもしれない。



公式ページ:http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/18_inokuma/

2018/03/28(杉江あこ)

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佐藤麻優子「生きる女」

会期:2018/03/24~2018/03/25

VACANT[東京都]

1993年生まれの佐藤麻優子は、最も若い世代の写真家のひとりである。2016年に第14回写真1_WALL展でグランプリに選ばれ、2017年に個展「ようかいよくまみれ」を開催した。その時の作品は、主に同性の友人たちをフィルムカメラで撮影したスナップショットで、どこか閉塞感の漂う時代の空気感が、まさに身も蓋もない画像であっけらかんと定着されていた。

今回のVACANTの展示では、カメラを中判カメラに替えることで画像の精度を高め、アイランプによるライティングも積極的に使うことによって、意欲的に表現世界を拡大しようとしている。チラシに寄せた文章に「性差が曖昧にもなり、しかし相変わらずはっきりともしている現代で、女性性として生きている人がどんなことを考えているのかどんな姿をしているのか、見たくて知りたくて、写真にして話を聞きました」と書いているが、これまでの被写体の範囲を超えた女優や、イラストレーターなどの他者も「生きる女」として取り込むことで、同時代のドキュメンタリーとしての強度がかなり高まってきている。

ただし、写真作品としての完成度が上がることは、彼女にとって諸刃の剣という側面もありそうだ。以前の写真は、技術的に「下手」であることが、逆にプラスに作用していたところがあった。ぎこちなく、不器用なアプローチが、逆に現代社会を覆い尽くす妖怪じみた「よくまみれ」の状況を、ヴィヴィッドに浮かび上がらせていたのだ。だがどんな写真家でも、写真を撮り続けていくうちに、「巧く」なってしまうことは避けられないだろう。今回のシリーズのようなテンションを保ちつつ、あの魅力的な何ものかを呼び込む「隙間」を失くさないようにしていってほしいものだ。

2018/03/25(日)(飯沢耕太郎)

森山大道「Ango」

会期:2018/03/21~2018/04/22

POETIC SCAPE[東京都]

町口覚のブックデザインでBookshop Mから刊行されている「日本の写真×日本の近現代文学」のシリーズも5冊目になる。太宰治、寺山修司、織田作之助のテキストと森山大道の写真という組み合わせが続いて、坂口安吾+野村佐紀子の『Sakiko Nomura: Ango』を間に挟み、今回の『Daido Moriyama: Ango』に至る。坂口安吾といえば、なんといっても「桜の森の満開の下」ということで、1972年に発表した「櫻花」など、桜というテーマとは縁が深い森山とのコラボは、季節的にも時宜を得たものと言える。

町口覚のブックデザインは、テキストと写真との関係のバランスを取るのではなく、むしろ互いに挑発し、触発しあうようなスリリングなものに変えてしまうところに特色がある。今回もその例に漏れないのだが、柿島貴志が担当したPOETIC SCAPEの展示構成も、写真集をそのまま踏襲するのではなく、さらに増幅させているように感じた。22点の展示作品は、デジタル・データからのラムダ・プリントがベースなのだが、その大きさを微妙に変え、黒枠のマットで黒縁のフレームに入れて、壁に撒き散らすように展示している。「漆黒の桜」という今回の写真のコンセプトに即した、黒っぽい焼きのプリントを、深みを保ちながらも重苦しくなく展示するための、細やかな配慮が感じられた。

森山大道にとっての桜の意味は、1970年代と近作では違ってきているはずだ。それでも、あのひたひたと皮膚に纏わりついてくるような感触に変わりはない。展示作品からは外されていたが、写真集には、森山のデビュー作である胎児を撮影した「無言劇(パントマイム)」シリーズのなかから1点だけ収録されていた。桜と胎児のイメージは、森山自身の初源的な記憶の領域で結びつき、溶け合って出現してくるのかもしれない。

2018/03/23(金)(飯沢耕太郎)

ヌード NUDE—英国テート・コレクションより

会期:2018/03/24~2018/06/24

横浜美術館[神奈川県]

ありそうで意外になかったのが「ヌード展」。なぜなかったのかといえば、西洋美術ではヌードはあまりに当たり前で、あまりに作例が多すぎるため、「ヌード展」なんて大ざっぱなくくりでは成立しないからだろう。したがって「ルネサンスのヌード」とか「横たわるヌード」とかテーマを設けるのが普通だ。この展覧会はとくにテーマを掲げていないが、「英国テート・コレクションより」というサブタイトルが同展の性格をある程度物語っている。つまり、保守的な伝統を持つイギリスの、近現代美術を専門とするテート・コレクションから選ばれたヌードであり、いいかえれば19世紀のヴィクトリア朝時代の保守的なヌードも、現代美術における革新的なヌードも期待できるというわけだ。もうひとつ重要なのは、これらの作品を選んだキュレーターが女性であること。内覧会の記者会見に出たら、テート学芸員で同展を監修したエマ・チェンバース氏をはじめ、館長の逢坂恵理子氏、担当学芸員、司会、通訳も含めて登壇者全員が女性だった。ここから展覧会の性格もおぼろに見えてくる。

出品作品は計134点。うち18世紀が2点、19世紀と21世紀がそれぞれ20点前後で、あとは20世紀の作品。展示は必ずしも時系列に沿っていないが、大ざっぱに時代を追いながら、「物語とヌード」「モダン・ヌード」「エロティック・ヌード」「身体の政治性」など小テーマに分かれている。第1章「物語とヌード」では、ジョン・エヴァリット・ミレイやフレデリック・レイトンら19世紀の古典的なヌード像を堪能できるが、唯一の女性画家アンナ・リー・メリットが描くのは男の子の後ろ姿のヌード。当時は女性画家自体が少ない上、女性が男性ヌードを描くことが許されていなかったのだ。ドガやルノワールが登場する第2章「親密な眼差し」でも、女性画家はグウェン・ジョンただひとり。かつてフェミニストのグループ、ゲリラガールズが「近代美術で女性アーティストは5パーセントしかいないのに、ヌードモデルの85パーセントは女性だ」と喝破したのを思い出す。

同展最大の見どころといえば、第4章の「エロティック・ヌード」だろう。ロダンの《接吻》をはじめ、ターナーやピカソらの男性目線による春画が出ているが、それだけでなくホックニーによるホモセクシュアルな表現や、ルイーズ・ブルジョワによる恋人たちのダンスを描いた版画もある。第7章「身体の政治性」では、マルレーネ・デュマスやサラ・ルーカスら女性アーティストが半数となり、最後の第8章「儚き身体」では、シンディ・シャーマン、トレイシー・エミンら5人中4人が女性で占められている。つまり男女比は第1章と逆転したわけで、展覧会全体を通して、女性が男性のためのヌードから自身の身体を取り戻していく過程と読み解くこともできる。まあそれはそれとして、ぼくが個人的に好きなのは、スタンリー・スペンサー、ルシアン・フロイド、ジョン・カリン(全員男性)のいかにも肉肉しいヌードたち。脂肪の乗った滑らかな身体を表わすには油絵具がもっともふさわしいのだ。

2018/03/23(村田真)

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