artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
赤鹿麻耶「大きくて軽い、小さくて重い」
会期:2017/07/18~2017/08/26
Kanzan Gallery[東京都]
展覧会のキュレーターやプロデューサーの役割については懐疑的な意見もあるが、赤鹿麻耶の今回の展示などを見ると、やはり大きな意味を持つのではないかと感じる。本展は、菊田樹子のキュレーションによってKanzan Galleryで開催されている連続展「写真/空間」の第3回目にあたる。それを見ると、いつもの赤鹿の、空き地や銭湯などで展開される、ごった煮状態のインスタレーションとはかなり違った印象を受けたからだ。
といっても、ポートレート、スナップ写真、オブジェを使った演出写真などが見境なく混じり合う構造に違いはない。だが、今回のようなホワイト・キューブでの展示空間を構成するにあたって、菊田はあえて「展示方法のディテール(大きさ、並べ方、印画紙の平面やたわみ、浮かぶことや隔てられることに起因する見え方の違い)に変化をつけた」という。そのことによって、野放図に伸び広がって、収拾がつかなくなりがちな赤鹿の作品が、すっきりと目に収まって見えるようになった。あまりコントロールを効かせすぎると、パワーが落ちてまとまりすぎになるが、そのあたりのバランス感覚が、とてもうまくいっていた。
「他人の見た夢」の再現、視覚化というこのシリーズの狙いも、しっかりと伝わってきた。これもやり方次第では混乱しがちなテーマだが、今回は丁寧につくり込まれていて説得力がある。まさに「大きくて軽い、小さくて重い」という、矛盾や飛躍を含んだ「夢」の構造に、全力でにじり寄ろうとしていることが伝わってきた。ただ、それぞれの写真のキャプションやテキストがすべて省かれているのが気になる。夢を言葉で捕獲・記述して、写真と対照させていくことも考えられそうだ。
2017/07/23(日)(飯沢耕太郎)
川口和之「PROSPECTS」
会期:2017/07/22~2017/08/06
川口和之は1958年、兵庫県姫路市生まれ。1977年に写真家集団Photo Streetを結成し、その中心メンバーとして主に路上の光景を撮影・記録し続けてきた。写真集として『Only Yesterday』(蒼穹舎、2010)、『沖縄幻視行』(同、2015)などがある。
今回展示された「PROSPECTS」(2011~17)は、川口にとっては身近な地域である大阪府から岡山県にかけて、つまり明治以前の呼称でいえば、摂津、播磨、丹波、但馬、淡路、備前あたりの眺めを、淡々と、感情移入することなく撮影したシリーズである。それらの写真を見ていると、いま日本の地方都市を覆い尽くそうとしている、「穏やかな滅び」の気配が色濃くあらわれていることに気がつく。歯が抜けたように空き地が目立つ商店街、まったく人気のない街並、白々とした舗装道路、妙にポップな看板、建て増しでアンバランスになってしまった家々──川口は、それらの見方によってはネガティブで物寂しい光景を、4000万画素を超えるデジタルカメラで、細部まで丁寧に写しとっていく。
モノクロームという選択肢もあったはずだが、あえてカラープリントに仕上げたのがよかったのではないだろうか。モノクロームだと情緒的に見えかねない街の眺めの、なんとも言いようのない身も蓋もなさが、ありありと提示されているからだ。それはまさに、2010年代後半の日本のPROSPECTS(眺望、予兆、展望)そのものといえる。なお展覧会にあわせてPhoto Streetから同名の写真集が刊行された。素っ気ないレポート風の装丁が、掲載されている写真の内容とうまくマッチしている。
2017/07/23(日)(飯沢耕太郎)
命短し恋せよ乙女~マツオヒロミ×大正恋愛事件簿
会期:2017/07/01~2017/09/24
弥生美術館[東京都]
「貴女、もう地獄に落ちてますよ」。シンガーソングライター・吉澤嘉代子の《地獄タクシー》(2017)は、女性解放を唄った名曲である。タクシーに乗り込んで空港へ向かう女は、「レースの手袋に滲んだ赤黒い染みを隠して、重い鞄を抱きしめた」。鞄の中に詰められているのは、亭主の首。だが、「窓の外を見遣ると、豊かな麦畑の黄金がそれはそれは美し」く見えるほど、女の気分はじつに晴れやかだった。抑圧からの解放と破滅の道が表裏一体であること。吉澤が軽やかに歌い上げているのは、地獄の釜の底に自由と解放を見出さずにはいられない女の切実な心情である。
本展は、明治大正時代の文学者や画家、詩人や俳人らの恋愛事件を当時の新聞記事や写真、小説など、数々の資料によって振り返ったもの。文学士・森田草平との心中未遂の後、洋画家・奥村博史と「結婚」ではなく「共同生活」をした、女性解放論者の平塚らいてう。そのらいてうが創刊した『青鞜』に執筆し、夫の田村松魚がいながら、『青鞜』の表紙絵を描いた長沼智恵子(後の高村智恵子)との恋仲が噂された、バイセクシュアルの小説家・田村俊子。そして二度目の駆け落ちでソ連に亡命し、スパイの容疑で収監、刑期を終えた後、ソ連でアナウンサーや演劇の仕事につき、当地で生涯を終えた女優・岡田嘉子。いずれも現在の姦しい不倫騒動が霞んで見えるほど劇的かつ濃厚、まさしく「事実は小説より奇なり」とも言うべき事件簿ばかりで、いちいち面白い。
展示で強調されていたのは、現在とは比べ物にならないほど頑強な「家制度」の力。家長たる男子を絶対視する家制度においては、個人の自由恋愛はそれを蔑ろにするご法度として罪悪視されていた。恋愛から結婚ではなく結婚から恋愛という手順が自明視されていた時代だからこそ、ある者は家制度の束縛に身を滅ぼすほど煩悶し、ある者はそれからの離脱に人生を賭けたのだった。言い換えれば、家制度が社会の核心に蔓延っていたがゆえに、それをよしとしない者たちは、たとえその外部が地獄だとしても、その釜の底を歩む道を選び取ったのである。
翻って現在、家制度の権勢は失われ、自由恋愛を阻む障壁の一切は取り払われたかのように見える。しかし、そうであるがゆえに、いわば地獄行きのタクシーに乗り込むような覚悟と情熱もまた、大きく損なわれてしまったのではなかったか。おびただしい数の資料群とともに展示されていたマツオヒロミによるイラストレーションは、竹久夢二や徳田秋聲との恋愛で知られる山田順子や前述した田村俊子を主題にしたものだが、流麗な線と艶やかな色彩によって女性の柔らかな肢体や着物の柄を丹念に描き出す力量は見事というほかない。あわせて展示されたラフ原稿を見ると、完成作の線とほとんど大差ないことにも驚かされる。だがその一方で、その耽美的な絵肌にいささか物足りない印象を覚えたのも事実である。というのも、マツオが描き出す女性像は、いずれも妖艶な魅力を確かに備えている反面、本展で詳しく紹介されている女性たちが醸し出す「業」を、ほとんど見出すことができないからだ。言ってみれば、天国で優雅に佇むような美しさは湛えているが、地獄の底を這いつくばりながら歯を食いしばって生きるような根性は到底望めないのである。
むろん、それは個人を疎外してやまない家制度の束縛から解き放たれ、自由恋愛を謳歌する現代の女性たちの等身大の姿なのかもしれない。彼女たちが100年以上も前の人間模様にある種の親近感を覚えることができるようにするための工夫とも考えられる。だが、かりにそうだとしても、そのようにして展示に含められた現代性を看過することはできない。なぜなら、そのような現代性は明治大正時代の展示構成にも少なからず暗い影を落としているように思われるからだ。
その暗い影とは、本展における伊藤野枝と阿部定の欠落である。前者は、言うまでもなく、雑誌『青鞜』に寄稿していた婦人解放運動家にして大杉栄と並ぶ無政府主義者で、事実、平塚らいてうと同様、野枝は結婚制度を拒否しつつ、大杉とのあいだに4人の子どもを設けたが、関東大震災の混乱に乗じた憲兵隊によって大杉とともに虐殺された。同じく『青鞜』に寄稿していた神近市子が大杉の喉元を刃物で刺した「葉山日陰茶屋事件」で野枝の名前を知る人も少なくないだろう。後者は、前者よりやや年少の芸妓・娼妓で、昭和11年(1936)に、性交中の愛人の男性を絞殺したうえ、男性器を切断して持ち逃げた「阿部定事件」で知られている。両者はともに家制度から逃れながら自由恋愛を実践し、結果として社会の大きな注目を集める事件を引き起こした点で共通しており、その意味で言えば、本展で紹介される資格を十分に備えているが、どういうわけか本展には含まれていない。厳密に言えば、阿部定事件があったのは昭和だから、明治大正時代の恋愛事件簿を取り扱う本展にはそぐわなかったのかもしれない。だが、平塚らいてうがいて伊藤野枝がいないのはどう考えても不自然であるし、自然主義文学運動を牽引した島村抱月と愛人関係にあった女優の松井須磨子がスペイン風邪で亡くなった抱月の後追い自殺を遂げた事件や、『婦人公論』の記者・波多野秋子と不倫関係にあった文学者の有島武郎が軽井沢の山荘で心中した事件を目の当たりにした以上、来場者の想像力が情死の極致とも言うべき阿部定事件に及ぶのは、至極当然の成りゆきではないか。
政治性とセクシュアリティ──。伊藤野枝と阿部定が本展からあからさまに排除されたのは、おそらく彼女たちが近代の美術館が露骨に忌避するこの2つの条件をものの見事に体現しているからだ。前者はアナキズムの運動家という点であまりにも政治的であり、後者は男根を直接的に連想させるという点であまりにも性的にすぎる。明治大正時代の恋愛事件簿を総覧した本展は、基本的にはその醍醐味をあますことなく伝えることに成功していると言えるが、伊藤野枝と阿部定を等閑視することによって、結果的にその本質的な魅力を半減させてしまっているのではないか。平成を視野に収めすぎたがゆえに、明治大正の濃厚な色彩がいくぶん脱色されてしまっていると言ってもいい。
ところが、改めて確認するまでもなく、男であれ女であれ、人は誰しも性的存在であり、なおかつ「個人的なことは政治的なことである」というフェミニズムの大前提を持ち出すまでもなく、抑圧された女性が解放を求めるとき、政治性とセクシュアリティを無視することは決してできない。それらは、ある種の生きにくさを痛感させられているあらゆる人々にとっての問題のありかを示す道標であり、同時に、解放のための闘争の現場でもある。とりわけ戦後の現代美術が、こうした基本的な問題設定を忘却の彼方に沈めてきたことを思えば、地獄行きのタクシーに乗らなければならないのは、もしかしたら「美術」そのものなのかもしれない。
2017/07/22(土)(福住廉)
生誕150年記念 藤島武二展
会期:2017/07/23~2017/09/18
練馬区立美術館[東京都]
今年2017年は洋画家・藤島武二(1867-1943)の生誕150年。15年ぶりの大回顧展となる本展では、藤島武二の作品のみならず、彼が学んだ日本画家、洋画家、留学時代の師の作品、資料を含む約160点が紹介されている。また、日本のアール・ヌーヴォー様式の代表作のひとつである鳳晶子(与謝野晶子)『みだれ髪』装幀(1901/明治34年)を含む、グラフィックデザインの仕事が多数紹介されている点も特筆されよう。本展チラシのデザインもアール・ヌーヴォーを意識しているようだ。ほとんどアルフォンス・ミュシャのスタイルの模倣である「すみや書店」刊行の絵はがき《三光(星・日・月)》(1905/明治38年)などからは、藤島が同時代のヨーロッパの流行を熱心に研究していた様子がうかがわれる。藤島武二とアール・ヌーヴォー様式には黒田清輝、久米桂一郎らによって結成された白馬会との関わりが指摘されている。1901/明治34年、フランスから帰国した黒田らはアール・ヌーヴォー関連の情報、資料をもたらし、白馬会第6回展(1901年10~11月)では多数のアール・ヌーヴォー様式のポスターが展示されたという。しかしそれ以前からアール・ヌーヴォーのデザインは日本に影響を与えていた。黒田、久米らの不在中に開催された白馬会第5回展(1900年10~11月)にアール・ヌーヴォーのポスター2点が展示されており、また藤島武二は『明星』第10号(1901/明治34年1月)にアール・ヌーヴォー風の挿絵を発表している。藤島武二自身がヨーロッパ留学に出発したのは1905年のことなので、彼は日本に居ながらにして、そして黒田、久米が持ち帰った資料の影響を受ける以前にすでに、ヨーロッパのポスターや雑誌によってアール・ヌーヴォー様式を研究、マスターしていたことになる。他方で、装幀やデザインの仕事の場としては東京新詩社の主催者であった与謝野鉄幹、晶子夫妻との関わりが指摘されている。鉄幹と藤島との親交は1901年から始まり、夫妻とのコラボレーションはその後30年以上にわたって続いたという。さらに、デザイナー藤島武二誕生に影響を与えた人物として、ここでは藤島が洋画を始める前に師事した四条派の画家 平山東岳、円山派の川端玉章の影響も挙げられている
2017/07/22(土)(SYNK)
松田修展「みんなほんとはわかってる」
会期:2017/07/15~2017/08/12
無人島プロダクション[東京都]
先ごろ神奈川県立近代美術館葉山館で萬鉄五郎の回顧展がおよそ20年ぶりに開催された(9月3日まで。その後、新潟県立近代美術館に巡回)。萬といえば日本にフォーヴィスムを導入した立役者のひとりとして評価されているが、本展で強調されていたのは初期に学んだ水墨画や南画風に描かれた土着的な風景画などで、在野のモダニストとして一面的に語られがちな画家の多面性をあますことなく伝えていた。
松田修は東京藝術大学出身のアーティストだが、現在は特にペインターを自称しているわけでもないので、出身校以外に萬との共通点があるわけではない。だが、萬の代表作のひとつ《雲のある自画像》(1912)を見ると、松田との強い関連性を痛感しないわけにはいかない。暗く陰鬱な表情や顔立ちが似ているというだけではない。頭上に雲(と断定してよいものかどうかわからないが)を抱いた男という謎めいた主題が、松田の作品に感じる独特の気配と著しく通底しているように感じられるからだ。
今回発表された新作の映像作品《さよならシュギシャ》は、まさしく松田ならではの気配が濃厚に漂う作品である。カメラの前で松田自身が演じているのは、主義主張が異なるさまざまな主義者。マルクス主義者、フェミニスト、ペシミスト、ナルシシスト、新自由主義者、レイシスト、ナチュラリスト、ポピュリスト、ファシスト、アナキストなど、いかにも発言しそうな言葉をいかにもな身ぶりと声色で簡潔に語ってみせる芸は、ややふざけすぎている印象が強いとはいえ、それを徹底している点で見事である。最後を「オサムちゃん」で締めるなど、構成も素晴らしい。
むろん、ここにはあらゆる主義者を徹底的に小馬鹿にする批評性がないわけではない。政治的なイデオロギーは何であれ、特定の主義者にアイデンティティーを置く者が見れば、自らが嘲笑されたとして烈火の如く怒り狂うかもしれない。あるいは逆に、自らと敵対する主義者がネタにされているのを見て「ざまあみろ」と喝采を送った者もいるだろう。だが、かりにそうだとしても、来場者の脳内に一抹の疑問が残ることは否定できない。では松田自身は何主義者なのかと。
《さよならシュギシャ》という作品名から察すると、あらゆる主義主張を批判的に相対化する相対主義者のようにも見えるし、どんなイデオロギーであれすべてを笑いに還元する道化に徹しているという点では、虚無主義者のようでもある。松田はステイトメントにおいて既成のレッテルやカテゴリーへの批判的な問題意識を表明しているが、結果として「相対主義者」や「虚無主義者」に回収されているように見えかねない点は、あるいはこの作品の本質を突いているのかもしれない。
おそらく松田自身は知っているのだ。自分がどんな主義者にもなりきれないことを。だからこそどんな主義者にも等しくなりきる演技ができるのだろう(時折視線を落として手元の原稿を読んでいるような演技は、それが演技であることを鑑賞者に訴えるためのメタ演技である)。しかしその一方で、彼はなんらかの主義者を演じることを余儀なくされることもまた十分に熟知している。「オサムちゃん」にしても、たまたま同じ名前であるという理由だけで例の芸をやらざるをえない役割期待の重圧を物語る格好の例証だろう。その不可能性と役割期待とのあいだで自由に身動きが取れないまま生きてゆかざるをえないところに、彼はやるせないほどのリアリティを置いているのではなかったか。
松田はその暗澹たる気配を直接的に視覚化しているわけではない。その気配の質が直接的な表現を決して許容しないからだ。松田修の頭上に何かが浮かんでいるとすれば、それは萬鉄五郎の「雲」のように暗い内面の鬱勃の現われというより、むしろ自らの表現を抑圧してやまない「塊」なのではなかったか。彼の作品に強く醸し出されている、乾いた、そして醒めたユーモアは、その「塊」から生まれた生存様式なのだ。
2017/07/21(金)(福住廉)