artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

紀成道「Touch the forest, touched by the forest.」

会期:0217/07/05~2017/07/18

銀座ニコンサロン[東京都]

紀成道(きの・せいどう)は1978年愛知県名古屋市生まれ。2005年に京都大学大学院工学部エネルギー科学研究科を中退し、写真家の道を選んだ。今回の展示は、北海道苫小牧市の近郊の精神科病院の「森林療法」の場面を撮影した写真、35点で構成されていた。病院を取り囲む森には全長1.7キロに及ぶ散策路が設けられており、患者さんたちは週一回の「森林療法」に参加することができる。紀が撮影したモノクロームの写真には、自然に包み込まれ、晴れやかな笑顔を見せる患者さんたちの姿が写り込んでおり、開放的な雰囲気で行なわれている治療の様子がしっかりと伝わってきた。それとともに、患者さんたちの日々の暮らしや、森の季節の移り変わりもきちんと捉えられている。会場には木製のパネルに焼き付けた写真を組み合わせたインスタレーションもあり、気持ちよく写真を見ることができる環境が整えられていた。
紀がこのシリーズを撮り始めるきっかけになったのは、大学院時代に精神的に不安定になったときに、京都近郊の森に入って癒された経験があったからだという。たしかにこれらの写真を見ていると、いわゆる健常者と障がい者との境界線が、まさに紙一重のものであることがよくわかる。「人間と自然の接続域と、当事者と健常者の共存域」と、紀は「あとがき」に書いているが、たしかにその二つの領域が混じり合っている場所こそ、彼の被写体となった北海道の「ふれあえる森」なのだろう。作品は森での体験をベースにしつつ、繊細さと大胆さがうまく噛み合ったドキュメンタリーとして成立していた。
なお、展覧会にあわせて赤々舎から同名の写真集が刊行された。その表紙には、彼が森で拾い集めてきたという落ち葉が、一枚ずつ丁寧に挟み込まれている。

2017/07/15(土)(飯沢耕太郎)

山谷佑介「Into the Light」

会期:2017/07/14~2017/07/18

BOOKMARC[東京都]

山谷佑介の新作は、いつもの路上スナップではなく、東京郊外の住宅地を、深夜に赤外線カメラで撮影したシリーズだった。赤外線カメラで撮影すると、色味がかなり変わって日常的な場面が非現実的な光景に変容する。だが、山谷の狙いはそこにではなく、むしろ「自己と他者との圧倒的な隔たりの中で、他者の領域に足を踏み入れる」というところにあるようだ。
たしかに、夜歩いていて、ふとこの家にはどんな人が住んでいるのだろうと思うことがある。写真で撮影したとしても、写りこむのは表層的な外観だけであり、苛立ちが募るばかりだ。それでも、彼が赤外線カメラでストロボを焚いて撮影した写真群を見続けていると、何かがじわじわと浮かび上がってくるような気がしてくる。「見えるもの」と「見えないもの」、あるいは「見ること」と「見られること」のあいだにそこはかとなく漂う、「妙な居心地の良さ」を感じさせる奇妙な気配こそ、山谷が今回のシリーズで見せたかったものなのではないだろうか。
表参道の洋書店の地下の会場には、大小20点の写真が並んでいた。そのままストレートにプリントした作品もあるが、黒い紙にプリントして闇の領域を強調したものもある。そういう微妙な操作は、展覧会と同時に発売された同名の写真集(T&M Projects刊)にも及んでいて、黒い用紙に印刷したページの間にノーマルなトーンの(といっても赤外線で変換された色味だが)写真のページが挟み込まれる構成になっている。そのあたりにも、山谷の写真家としての緻密な構想力がしっかりと発揮されていた。このような「小品」制作の経験を積み重ねつつ、次はぜひ大作にチャレンジしてほしいものだ。

2017/07/15(土)(飯沢耕太郎)

藤安淳「empathize」

会期:2017/07/04~2017/07/15

The Third Gallery Aya[大阪府]

藤安淳は、双子である自身と弟の身体パーツを同じフォーマットで互いに撮り合った処女作《DZ dizygotic twins》から出発し、他の双子を撮影したポートレイトのシリーズ《empathize》を発表してきた。本個展では、既発表作に新作を加え、「双子」を軸に3つの異なるアプローチが展開されている。
それぞれを概観しよう。1)「双子」の一人ずつを独立したフレームに収め、自室や思い出の場所で個別に撮影したポートレイトを2対で展示するもの。藤安の撮影方法の特徴は、ダイアン・アーバスや牛腸茂雄のように、「双子」を2人1セットとしてひとつのフレーム内に収めるのではなく、それぞれを私的背景とともに個別のフレームに収めることで、「独立した個人」として扱う点にある。そこでは「双子への眼差し」は、フォトジェニックあるいは奇異な対象と見なすことから解放され、顔が似ているだけに、微妙な表情の差異、服装の趣味や生活空間の違いが逆に浮かび上がる。また、新たな試みとして、2)「双子」(子ども)と両親、「双子」(親世代)とそれぞれの子どもを「家族写真」として撮った作品がある。双子という横軸の限定性に、親子という縦軸が加わり、被写体の「類似と差異」は、より時間的な厚みの中で眼差されることになる。さらに、3)「双子」それぞれの顔写真2組を、表情を変えて撮り、「証明写真」を思わせるフォーマットで展示した作品も発表された。この手法はより撹乱的であり、「同じ1つの顔を4つの表情で撮ったのか?」「メイクや髪型、服装を変えて撮ったのか?」「数ヶ月間のスパンで撮ったのか?」と鑑賞者をはぐらかす。だが細部を仔細に観察すれば、ホクロの位置などの微細な違いで、かろうじて別人と識別できる。
ここで、藤安自身と双子の弟を、頭部の正面像、耳、胸、腹部、腕、手や足の指といったパーツ毎に切り取り、厳格な同一フォーマットで撮影した《DZ dizygotic twins》を思い出してみよう。モノクロームで撮影されていることも相まって、それらは明らかに、「ベルティヨン式」の司法写真アーカイヴを想起させる(「ベルティヨン式」とは、再犯者の身元同定のため、頭部、耳、手指など犯罪者の身体パーツを撮影し、計測データとともに記録するシステムであり、1880年代フランスでA・ベルティヨンが確立した)。両者に共通するのは、データベースとしての写真の集合体を用いて、身体的特徴の類似と差異に基づき、個人を特定する手続きである。また、上述の3)において「証明写真」風のフォーマットが採用されていることからも、藤安の写真において真に主題となるのは、目を引きがちな「双子」というモチーフではなく、「写真とアイデンティファイ」の問題である。声のトーンや身振りのクセといった視覚情報以外のものを削ぎ落とす写真は、その人をアイデンティファイするための手段や拠り所でありつつ、アイデンティファイすることを無効化してしまう、というアポリアが前景化する。
従って、藤安作品は正確には「双子を撮った写真」ではない(アーバスや牛腸のように同一フレーム内に収めないことが証明するように。あるいは「家族写真」という別の枠組みへと回収されるように)。「極めて類似した、しかし同一ではない」ものを前にしたとき、「表面」しか写せず、視覚情報に還元してしまう写真は、その証明性の確かさと根源的な不確かさを同時に露わにするのである。だが一方で、ポートレイトとしての魅力が、写真をめぐるそうした思弁的思考に陥ることから、藤安作品を救い上げている。


撮影:藤安淳

2017/07/15(土)(高嶋慈)

岡本太郎と遊ぶ

会期:2017/07/15~2017/10/15

川崎市岡本太郎美術館[神奈川県]

「遊び」を切り口として岡本太郎の作品を紹介するとともに、現代アーティストが岡本太郎の作品「と」遊ぶ展覧会。本展に出品されている岡本太郎の作品の中でデザインという視点から興味惹かれるのは「遊ぶ字」。画集『遊ぶ字』(日本芸術出版社、1981)に収録された字など、太郎の「遊ぶ字」は、読めるか読めないかといえば、ちゃんと読める字として描かれれている。書というよりも、絵画というよりも、多分にグラフィック的。その仕事はしばしば商業的あるいは非営利のポスターにも用いられている。誰が見ても岡本太郎の作品であることは一目瞭然なのだが、他方でその字はそのポスターとしっかり結びついて、人々に記憶されている。すなわち、正しくロゴタイプとして機能しているのだ。野沢温泉の「湯」の字(1983)はその典型だろう(考えてみれば、岡本太郎の彫刻作品もまた太郎の作品であると同時に、その土地のランドマークともなっている)。「岡本太郎と遊ぶ」という点では、ドローイングと作品を比較させてみたり、畳敷きに座って作品を見たり、彫刻に触れたり、《梵鐘・歓喜の鐘》を叩いて音を聞いたり、匂いから岡本太郎の作品をイメージさせる作品など、参加型の展示がある。夏休みらしい、それでいて大人も楽しめる鑑賞のための工夫がいい。参加アーティストは、チーム☆TARO (NPO ARDA)、酒井貴史(美術作家)、BBモフラン(打楽器奏者)、たたら康恵(音楽療法士)、田中庸介(詩人)、横山裕一(漫画家/美術家)、井上尚子(美術作家)。[新川徳彦]

2017/07/14(金)(SYNK)

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源信 地獄・極楽への扉

会期:2017/07/15~2017/09/03

奈良国立博物館[奈良県]

平安時代の僧・恵心僧都源信(942~1017)は、死後に阿弥陀如来の来迎を受けて極楽浄土に生まれることを願う「浄土信仰」を広めた人物であり、誰にでも分かりやすく地獄と極楽の姿を説いた『往生要集』を著したことでも知られている。本展では、源信の足跡をたどりつつ、地獄絵、六道絵、来迎図の名品によって、仏教の死後の世界観を体感するものだ。前後期で作品の多くが入れ替わるが、筆者が鑑賞した前期では、聖衆来迎寺の「六道絵」15幅は圧倒的な存在感があった。また来迎図、極楽図では、當麻寺の「當麻曼陀羅(貞享本)」と「當麻寺縁起 下巻」、知恩院の「阿弥陀聖衆来迎図(早来迎)」がおすすめだ。ただ、これらの作品は細密描写が多く、肉眼で細部まで見切るのは至難の業。しかも平安や鎌倉期の作品にはイメージがかすれているものも多い。これから出かける予定の方にはオペラグラスか単眼鏡の持参をおすすめする。それにしても本展で見られる地獄と極楽のイメージは現在でも十分通用する。逆に言えば我々日本人の死後の世界のイメージは、源信が活躍した時代に形成されたのだ。その事実を知ったことが、筆者にとって最大の収穫だった。

2017/07/14(金)(小吹隆文)

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