artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
プレビュー:新・今日の作家展2017 キオクのかたち/キロクのかたち
会期:2017/09/22~2017/10/09
横浜市民ギャラリー[神奈川県]
土地や歴史の調査、インタビューなど、リサーチやオーラル・ヒストリーといった手法を用いて制作する作家に焦点を当てたグループ展。
フランス人の母を持つ久保ガエタンは、自身のルーツや常識外の現象への関心を多角的に調査したインスタレーションを制作しており、フランスでリサーチした新作を発表する。小森はるか+瀬尾夏美は、東日本大震災を契機に2012 年より陸前高田、2015 年から仙台を拠点として活動。住民への聞き取りを元に、人々の記憶を内在化させた土地の風景への眼差しを映像作品、絵画、テクストといった複数の媒体で表現している。是恒さくらは、アラスカや東北で、各地の捕鯨文化や狩猟・漁労文化についてフィールドワークを行ない、手工芸やリトルプレスのかたちで発表し、異文化間の価値共有の可能性を探る。
また、笹岡啓子は、《PARK CITY》のシリーズにおいて、生まれ育った広島、とりわけ平和記念公園周辺を10年以上に渡って撮影し、記憶の表象と忘却について、記録装置である写真それ自体を用いて考察している。笹岡の直近の個展については、2017年7月15日号の本欄でも取り上げたが、震災以前に撮られたモノクロームの《PARK CITY》から、近年のカラー写真への移行において、「ヒロシマ」の表象をめぐる大きな転回が見られ、今後の展開を大いに期待させるものだった。笹岡によれば、今秋の展示は、前回の個展の内容をさらに発展、昇華させたものになるという。
4者それぞれの手法と表現を通して、個人史、都市や地域といったより大きな文脈の歴史、それらの交差、さらに異文化にまたがる文化的な共通性など、記憶の表象や記録するという営みについて多角的な思考を促す機会になるのではと期待される。
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笹岡啓子「PARK CITY」|高嶋慈:artscapeレビュー
2017/07/20(木)(高嶋慈)
プレビュー:ART CAMP TANGO 2017 音のある芸術祭
会期:2017/09/09~2017/09/24 (金・土・日・祝日のみ開催)
旧郷小学校ほか[京都府]
地域アートの隆盛の中でも、「音」にまつわる芸術表現に焦点を当てた芸術祭。「音」を主軸に、現代美術、音楽、サウンド・アート、ダンスなどの領域を横断して活躍するアーティストを国内外から招聘する。「ART CAMP TANGO」は、京都府北部に位置する京丹後市在住のアーティストと地域の有志が立ち上げた団体。2013年より活動を始め、丹後に滞在するアーティストが自然環境や風土、文化から得た体験を地域と共有するアート・プロジェクトを展開してきた。今回の「ART CAMP TANGO 2017 音のある芸術祭」の参加アーティストは、大城真、小川智彦、木藤純子、木村玲奈、鈴木昭男、三原聡一郎、宮北裕美、山崎昭典。また、香港のアートNPO soundpocketと協働し、香港を拠点とする4名のアーティスト、サムソン・チェン、アルミミ・ヒフミ、フィオナ・リー、フランク・タンが参加する。
丹後とサウンド・プロジェクトとの関わりは1980年代にまで遡る。丹後は、日本のサウンド・アーティストの草分けである鈴木昭男が、日本標準時子午線 東経135度のポイントで耳を澄ますサウンド・プロジェクト「日向ぼっこの空間」を1988年に行なった場所であり、以後、30年に渡る鈴木の活動拠点となってきた。鈴木の丹後での活動を通して海外のアーティストとの交流へと発展し、近年、若い世代のアーティストが国内外から丹後に来訪し、新たな交流が生まれている。このような経緯から、丹後の自然の中で、アーティストと一般の参加者が共にアートを体験する「ART CAMP TANGO」の構想が立ち上がったという。
メインとなるプログラムは、ローカル線 京都丹後鉄道の貸切列車内や駅舎で行なわれるオープニング・パフォーマンス「その日のダイヤグラム ─ 丹後~豊岡 パフォーマンス列車の旅」、 廃校となった旧小学校舎を会場に、音を聴く体験や音のある環境へと誘う展覧会 「listening, seeing, being there」、丹後の文化や自然が感じられる場所でのサイトスペシフィック・パフォーマンス「アートキャンプ in 丹後」。さらに、3つの滞在プログラムも組み込まれている(アーティスト・イン・レジデンス、香港から一般参加者を受け入れる「Being There Retreat Camp」、大友良英が始めた「アジアン・ミーティング・フェスティバル (AMF)」のアーティストが丹後を訪れて行なうサウンドツアー)。地域との持続的なつながりをベースに、外との交流がどう実を結ぶか、期待される。
公式サイト:http://www.artcamptango.jp
2017/07/20(木)(高嶋慈)
ベルギー奇想の系譜展 ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで
会期:2017/07/15~2017/09/24
Bunkamuraザ・ミュージアム[東京都]
ボス、ブリューゲルに始まり、アンソール、クノップフ、マグリット、そしてヤン・ファーブルにいたるまで、ベルギーは一風変わった画家を輩出してきた。幻想的というだけでなく、フランスやイタリアのような美術大国の王道から外れ、少しイジケて奇をてらったような奇想の画家たちというべきか。これはおもしろそう。展覧会は15-17世紀と19-21世紀の2つの時代に完全に二分されていて、フランドル─ベルギーの歴史の複雑さ、アイデンティティの危うさに思いを馳せざるをえない。
初めにボス工房の《トゥヌグダルスの幻視》を中心に16世紀の油彩が並ぶ。先日の「ブリューゲル《バベルの塔》展」にも見られた聖クリストフォロス、聖アントニウスを主題とする作品が多く、興味深いことにどの作品も画面の左または右奥が火事で燃えている。これは地獄の業火に由来するらしいが、こうしたネガティブなモチーフもベルギー絵画の特徴のひとつだ。その後ブリューゲルの版画と、息子のヤン・ブリューゲルの油彩小品(これもボスの伝統を受け継ぎ、画面奥がハデに燃えている)、17世紀のルーベンスの版画へと続くが、ルーベンスは絵画の王道を歩んだ巨匠であり、明らかに「奇想の系譜」から浮いている(というより「奇想の系譜」が美術史の王道から浮いているのだが)。中途半端に版画を出すくらいなら最初から選ばないほうがよかったのに。
その隣の壁からいきなりフェリシアン・ロップス、フェルナン・クノップフ、ジャン・デルヴィル、ジェームズ・アンソールら19世紀末を飾った象徴主義が始まり、その落差がいかんともしがたい。300年間なにやってたんだ? だが、時代が離れていてもベルギー美術に通底するのが「死」の影であり、これが20世紀のマグリットやデルヴォー、そして現代のヤン・ファーブル、ウィム・デルヴォワ、ミヒャエル・ボレマンスらの作品にも見え隠れしている。いじわるな見方をすれば、伝統的な死の影を作品に盛り込むのが現代ベルギーのアーティストの世界戦略なのかもしれない。
2017/07/18(火)(村田真)
もにゅキャラ考
会期:2017/07/17
首都大学東京秋葉原サテライトキャンパス[東京都]
「もにゅキャラ」とは、モニュメントと化したアニメやマンガのキャラクターのこと。「鉄腕アトム」や「火の鳥」「メーテル」「ラムちゃん」「両津勘吉」など、さまざまなもにゅキャラが、ここ20年あまりのあいだ全国の公共空間に急速に設置されつつある。『美術手帖』元編集長で首都大学東京准教授の楠見清と、マンガ解説者の南信長は、全国のもにゅキャラを調査し、このほど『もにゅキャラ巡礼』(扶桑社、2017)を上梓した。楠見によって企画されたこのシンポジウムは、同大学の大学院生による研究報告をはじめ、「ケツバットガール」や「美少女図鑑」で知られるフォトプロデューサーでディレクターの西原伸也と筆者による基調講演、そして来場者をまじえたディスカッションを行なったものだ。
もにゅキャラの最大の特徴は、2次元のキャラクターを3次元のモニュメントに変換する点にある。そうした次元変換自体は、この国の芸術史あるいは芸能史を紐解けば一目瞭然であるように、さして珍しいわけではない。だが、もにゅキャラが謎めいているのは、その次元変換を、例えばコスプレのように主体的に身体化させるのではなく、ブロンズ像や石像、あるいはFRP像として客体的に造形化するからだ。謎というのは、もにゅキャラがあらゆる世代にとって親しみのあるキャラクターに基づいていることは事実だとしても、それらをわざわざ銅像に仕立て上げることの必然性がほとんど見受けられないことを意味している。コスプレであれば、衣裳とメイクによってキャラクターになりきるという点に個人的で主観的な欲望を投影しうるため、次元変換に合理的な理由を認めることは十分にできよう。しかし、もにゅキャラの場合、次元変換の背景にそのような享楽性を見出すことはできない。多くのモニュメントがそうであるように、歴史を超越する永遠性が体現されていることは理解できるにしても、なぜ、あえて平面上に描写されたキャラクターを立体造形化するのかは理解に苦しむ。そのキャラクターのファンですら、その疑問は禁じえないのではないか。現代美術の抽象彫刻であれば街の風景の一部として見過ごすことができるし、裸体彫刻であれば人体を再現したという揺るぎない理由がそのような謎を端から寄せつけないだろう。誰もが知るキャラクターであるがゆえに、それらを立体造形化していることの不思議さがよりいっそう募るのである。
西原が仕掛けたケツバットガールは、そのようなもにゅキャラの謎に対する、ひとつの創造的な回答であるように思われる。舞台は新潟市の古町通5番町商店街。この一角に設置された『ドカベン』の山田太郎像は、バッターボックスでバットを力強くスイングしているが、弓なりにしなったバットがあたかも臀部を打ち叩いているかのようなポーズで写真に収まる女子たちのことをケツバットガールと言う。むろん、ここにはかつての体育会系の伝統とされたケツバットという体罰をあえて自演してみせる自虐的な批評性がある。けれども、それ以上に重要なのは、ケツバットガールという西原によって開発された形式が、もにゅキャラという謎めいた銅像に新たな意味を付与しているという点である。ケツバットガールがなければ、山田太郎像は『ドカベン』のファンにとっての聖地にはなっていたかもしれないが、それ以上の意味を見出すことはできなかったに違いない。銅像という古めかしいメディウムは、山田太郎というキャラクターの名前以上の意味をことごとくはねつけるからだ。逆に言えば、モニュメントの永遠性が担保されるのは、銅像が銅像であるというトートロジー以外の意味を受けつけないからではなかったか。だからこそ、多くのモニュメントは認識されることはあっても、とりわけ愛着をもたれることはなく、どちらかと言えば風景の一部として放置されているのである。ケツバットガールは、そのような銅像の単一のイメージに全力で対抗することによって、それを複数のイメージに分裂させる。無味乾燥とした硬い銅像を柔らかく揉みほぐし、一時的に我有化することで新たな意味を生成していると言ってもいい。これほど愛されたもにゅキャラがあっただろうか。
とはいえ、地元住民に愛されるもにゅキャラがないわけではない。楠見と南によれば、神楽坂商店街のコボちゃん像は服を着せられているし(同書、pp.179-182)、鳥取の境港市の水木しげるロードに設置されたねずみ男像は、明らかに仏像ではないにもかかわらず、撫で仏のように撫でられているため鼻の下と膝頭がツルツルに磨き上げられているという(同書、p.117)。このように、もにゅキャラの作者はもちろん、マンガの原作者でさえ想定してなかった愛着の持たれ方は、あるいはもにゅキャラの謎を解き明かす、ひとつの鍵になりうるのかもしれない。もにゅキャラに限らず、この国のありとあらゆる造形の歴史を振り返ってみればわかるように、造形を制作する側というより、造形を受容する側に、民間信仰に似た精神性を無意識のうちに作動させてしまう論理と力学が確かに認められるからだ。私たちは愛着のあるイメージを造形化することによって、その愛情の投影をより直接的かつ確実にしながら、同時に、救いや祈りの対象にもしてきたのではなかったか。すべてとは言わないにせよ、もにゅキャラはそのような無意識の欲望の延長線上に現われた現象と言えるかもしれない。
しかし、仮にそうだとしても、もにゅキャラの謎は依然として深い。なぜならケツバットガールたちの方法は、いずれも写真というメディアに帰着しているからだ。もにゅキャラは2次元のキャラクターを3次元のモニュメントに置換したものだが、彼女たちは、いや、もにゅキャラに近接する者たちは誰であれ、もにゅキャラを再び写真という2次元に変換しているのである。だとすれば、もにゅキャラはいったいどこにいるのだろうか。
2017/07/17(月)(福住廉)
アブラカダブラ絵画展
会期:2017/06/03~2017/07/30
市原湖畔美術館[東京都]
同展のゲストキュレーター、カトウチカさんから熱心なお誘いを受け、東京駅前から高速バスでアクアラインを通って市原湖畔美術館へ行くハメになった。なんだかんだとここへ来るのも5回目。タイトルの「アブラカダブラ」とはいうまでもなく魔除けの呪文だが、もうひとつ「わけがわからずチンプンカンプン」という意味もあって、ここでは「得体の知れない絵画展」とでも訳すか。カトウの選んだアーティストは、佐藤万絵子、曽谷朝絵、原游、福士朋子、フランシス真悟、水戸部七絵ら12人。いま挙げた6人は、絵画といっても「絵画」の概念を問い直すような境界線上の作品で知られるが(偶然か、うち3人の名前に「絵」が入っている!)、残る6人のうち石田尚志、西原尚、松本力、村田峰紀はそれぞれ映像、音、アニメ、パフォーマンスのアーティストであり、絵画と無縁ではないものの完全に境界線を超えている。ここらへんが「得体の知れない絵画展」たるゆえんだろう。
小規模な美術館の割に出品者数が多いため、ひとり当たりのスペースが限られたせいか、旧作が多いのは残念なところ。監視員や額縁をシートに描いて壁に貼った福士、キャンバスに油彩で同語反復のように服や絨毯を再現する原、超テンコ盛りにした油絵具の重量に耐えきれず斜めに展示する水戸部、回転するドラム缶にスーパーボールを押しつけて意外な音を出す西原など、楽しめる作品も多い。もっとも感銘を受けたのは、正方形の格子天井にボールペンでガリガリと引っ掻き傷をつけた村田の《原初的身体所作図》だ。システィーナ礼拝堂の天井画を描いたミケランジェロのように、実際に上を向いて掻いたのか、それとも天井板を下ろして掻いたのかは知らないが、かつては洋の東西を問わず天井も絵画の支持体であったこと、その天井画は天井を抜けて天上を目指していたことを思い出させてくれる。タイトルの《原初的身体所作図》は、「掻く」という行為が「描く」「書く」の起源であることを示唆している。思考も行為もいよいよ熟してきた。
2017/07/16(日)(村田真)