artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

Chim↑Pom個展「また明日も観てくれるかな?」

会期:2016/10/15~2016/10/31

歌舞伎町振興組合ビル[東京都]

歌舞伎町に行くのはもう20年ぶりくらいだろうか、とんと足が遠のいたなあ。劇場や映画館もすっかりなくなっちゃったし。その歌舞伎町のほぼど真ん中に建つビルをまるごと舞台にしたChim↑Pomの展覧会。入場料1000円とるが、これは見て納得。まずエレベータで4階まで昇り、各フロアの展示を見ながら降りていく。このビルは1964年の東京オリンピックの年に建てられ、2020年のオリンピックを見据えて取り壊すことになったため、約半世紀の時間がテーマになっているようだ。例えば4階は壁を青くしているが、これは半世紀前には建築を設計する際に活用された青写真(青焼き)に由来するという。おそらくその発想源であるこのビルの青焼きも展示。床には正方形の穴が開き、下をのぞくと1階までぶち抜かれている。これは壮観。3階には、繁華街で捕まえたネズミを剥製にしてピカチュウに変身させた《スーパーラット》や、性欲のエネルギーを電気に変換する《性欲電気変換装置エロキテル5号機》といった初期作品に加え、歌舞伎町の風俗店で働くみらいちゃん(18歳)のシルエットを青焼きにした《みらいを描く》も。2階ではルンバみたいな掃除ロボットの上に絵具の缶を載せ、ロボットが床に自動的に色を塗ると同時に掃除するというパラドクスをインスタレーション。そして1階では、ぶち抜かれた4階から2階まで3枚の床板のあいだに椅子や事務用品などを挟んで、《ビルバーガー》として展示している。これは見事、これだけで見た甲斐があった。ちなみにタイトルの「また明日も観てくれるかな?」は、お昼の番組「笑っていいとも」で司会のタモリが終了まぎわに言う決めゼリフで、2年前の最終回の終わりにもこのセリフを吐いたという。このビルの最終回に未来につなぐ言葉を贈ったわけだ。

2016/10/26(水)(村田真)

福島写真美術館プロジェクト成果展+新発田

会期:2016/10/19~2016/11/04

金升酒造二號蔵ギャラリー[新潟県]

会津若松の福島県立博物館を中核として、東日本大震災以後の「文化芸術による福島の復興、未来への模索」をめざして、2012年から展開されているのが「はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト」。「福島写真美術館プロジェクト」はその一環の企画であり、写真家たちが福島県各地を訪れ、それぞれの視点から写真を撮影・発表してきた。2015年からは、その「成果展」が福島県内だけでなく、長野県大町市、静岡県静岡市・浜松市、京都市などでも開催されている。今回、同展が開催された新潟県新発田町では、2011年から、写真を通じて「まちの記憶」を掘り起こそうとする「写真の町シバタ」というイベントが毎年秋に開催されており、今回の展示は2つのプロジェクトの融合の試みでもあった。
同市豊町の金升酒造二號蔵ギャラリーに作品を展示したのは、高杉紀子、片桐功敦、安田佐智種、本郷毅史、赤坂友昭、赤間政昭、岩根愛、土田ヒロミ、村越としやの9名である。2012年度から参加している作家たちに、今回は高杉、岩根、土田、村越が加わり、より厚みのある成果が披露された。福島県須賀川市の出身で、震災後精力的に故郷を取り続けている村越としやの「福島2015」、奥会津の三島町の「限界集落」を粘り強く記録している赤坂友昭の「山で生きる」、福島県内各地を定点観測的に撮影している土田ヒロミの「願う者は叶えられるか」など、今後もさらに大きく展開していきそうなシリーズが目につく。造り酒屋の蔵を改装したギャラリーの空間も素晴らしく、写真を「見せる」環境の重要性をあらためて感じた。いまのところはまだ「構想」の段階に留まっているが、各地の写真プロジェクトとの結びつきを強めることで、震災の記憶を受け継ぐ「福島写真美術館」が具体的にかたちをとってくることを期待したいものだ。

2016/10/26(水)(飯沢耕太郎)

TWS-Emerging 2016

会期:2016/10/15~2016/11/13

トーキョーワンダーサイト渋谷[東京都]

村井祐希、水上愛美、桜間級子の3人。村井は「絵画様式のフォーマリスティックな仕事の可能性を、最強のメディウムである『オムライス絵具』と共に追求している!! オムライス絵具とは、ムライが使用するむにゅむにゅした、まるで卵をかき混ぜたような絵具のことである!」とのことだが、展示空間全体をインスタレーションしていてどうも絵画には見えない。おそらく空間そのものを絵画化しようとしているのだろうけど、ファイルで見たキーファーばりのタブローのほうがいいように思う。まあ心意気は買うけどね。水上は2×3メートル程度の大作絵画を中心とする展示だが、大作は木枠に張らず、壁にとりつけた太いバーからカーテンみたいに吊るしている。内容はともかく、絵画の見せ方としては斬新だ。桜間は女性のヌード写真を7点。作者のセルフヌードかと思ったらモデルだそうだ。胸は大きいが、谷間に吹き出物ができてたり、毛深くてワキ毛やスネ毛が気になるなあ。すいません。

2016/10/25(火)(村田真)

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Chim↑Pom 「また明日も観てくれるかな?」

会期:2016/10/15~2016/10/31

歌舞伎町振興組合ビル[東京都]

Chim↑Pomの醍醐味は、同時代における政治的社会的な問題への先鋭な意識と、それらを体現する桁外れな想像力の強度である。時として作品の重心が前者に傾きすぎると奇妙に優等生的で退屈になりがちであり、後者に傾きすぎると社会を騒乱させる「お騒がせ集団」というレッテルを貼られがちだという難点がないわけではない。だが、その両極のあいだで絶妙な均衡感覚を保ちながら生き延びてきた粘り強い生命力こそ、彼らの類い稀な特質なのかもしれない。
本展は新宿歌舞伎町の一角に立つ古い雑居ビルで催された彼らの自主企画展。ギャラリーの後援も企業や自治体による支援もないまま、建物の全体をほぼ丸ごと使用しながら空間の隅々に作品をインストールし、あるいはその空間全体を作品化した。この雑居ビルは、前回の東京オリンピックが催された1964年に建造され、次回の開催が予定されている2020年を前に解体が決定していることから、これまでのChim↑Pomの作品の多くがそうであったように、過去と現在と未来という時間軸を強く意識させる展観になっていた。
なかでも最も際立っていたのが、2階から4階までの会場の床を位置と大きさをそろえて切り落とした作品。4階から床に開けられた穴を見下ろすと、1階まで抜ける高さに恐怖を禁じえない。ところがほんとうに恐ろしいのは、むき出しにされた床の断面である。そこに認められる鉄筋の数が想像を超えて少なかったからだ。重力に逆らいながらも私たちの文明的な日常生活を支えているはずの土台が、思いのほか不安定で寄る辺ないもののように見えることが衝撃だったのである。むろん、こうした不安の感覚は911が起こったときに否応なく味わったという点で、決して新しいものではない。だが歌舞伎町のど真ん中に穿たれた巨大な穴は、究極的には重力に敗北せざるをえない建築の宿命とは、やや性質を異にしていると思われる。
端的に言えば、それは建築の敗北というより、むしろ戦後民主主義の敗北ではなかったか。というのも、この底抜けの感覚は昨今の政治的社会的な状況の正確な反映として考えられるからだ。民主主義という制度と思想が戦後の日本社会の復興と繁栄を領導してきたことは事実だとしても、主権在民という原則を足蹴にする極右政権の誕生と持続は、それが必ずしも人間の善と幸福を約束するわけではないという事実を改めてつきつけた。戦争の放棄を謳う平和憲法をないがしろにする政策や、沖縄の米軍基地をめぐる問題について民意を無視した強行政策に見られるように、民主主義という理念はいままさに骨抜きにされつつある。それまで民主主義を信奉してきた者さえ、その価値に疑いの眼差しを向けているほど、それは大きな危機に瀕していると言わねばなるまい。これまでの戦後社会を支えていた土台が次々となし崩しにされているという点で言えば、私たちは確実に落ちているはずなのだが、社会全体が周囲の風景を巻き込みながら落ちているせいだろうか、落下の感覚すらおぼつかない。あの1階まで抜けた穴を見下ろしたとき、私たちは落下するかもしれないというより、むしろいままさに落ちていることを想像的に思い知るのである。その反動として思わず上を見上げたとしても、そこにはジェームズ・タレルの作品のように解放感あふれる大空があるわけではなく、薄汚れた5階の床がまるで私たちの未来に蓋をするかのように広がっている。それゆえ結局のところ、私たちは果てしなく落ちていくイメージに束縛されながら、自らの脚で階段を降りていくほかないのだ。
しかしChim↑Pomの今回の作品が優れているのは、物質を大胆に工作することで、そのような社会状況をみごとに体感させているからではない。最下層の1階に降り立つと、そこで眼にするのは、積み上げられた3枚の床。2階から4階までの切り抜いた床を、そのまま下におろし、ビル内にあった色とりどりの家具や事務用品なとの廃物を挟み込んだ。コンクリート製の床面をバンズに、廃物を具材に、それぞれ見立てたハンバーガーのような作品である。つまり切り抜いた床は本来的には落下すると粉砕される可能性が高いが、彼らはそれらを自分たちに馴染みのある造形として反転させたわけだ。《スーパーラット》が渋谷の雑踏でたくましく生きる自分たち自身の自画像だったように、この作品もまた私たちの現在地を刻んでいると言ってよい。
落ちつつも、単に滅びるのではなく、再び立ち上げること。あるいは、なんとかして立ち上がろうともがくこと。ここにこそ、Chim↑Pomならではの思想が表わされている。例えば坂口安吾が扇動したように、滅びの時代にあっては、堕落の道を極めることもありえよう(『堕落論』)。だが、Chim↑Pomの時代感覚はあくまでも同時代的である。どれだけ過去を振り返り未来を見通したとしても、彼らの関心はいかにしていまを生きるかという点にあるからだ。過去や未来はあくまでも現在の輪郭を明確にするための参照点であり、未来の光明を信じて現在の滅びをよしとすることはありえない。そこに、Chim↑Pomのしぶとい生命力の源がある。

2016/10/24(月)(福住廉)

ダリ展

会期:2016/09/14~2016/12/12

国立新美術館 企画展示室1E[東京都]

実はあまり期待していなかったが、いわゆるダリ風の絵が完成する前の作品、すなわちいろいろな流行をコピーした挙句、25歳で突如開眼した経緯を確認できたのが収穫だった。また、映画(ブニュエル、ヒッチコック、ディズニー)、舞台美術、宝飾、挿絵などの仕事のほか、原爆が彼の作品に与えた影響など、多角的な側面からダリを紹介していた点もよかった。すぐに人気者となり、アートのジャンルを超えて、彼が商業的に大成功した意味を考えさせられる。

2016/10/24(月)(五十嵐太郎)

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