artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

クリスチャン・ボルタンスキー アミタス─さざめく亡霊たち

会期:2016/09/22~2016/12/25

東京都庭園美術館[東京都]

なるほど、この手があったか! と感心したのが本館の「作品」。展示室に入ると作品らしきものはなにもない。歩き回ると声が聞こえてくるが、これが「作品」か。意味を追おうとしても、詩のような言葉なのでつかみどころがない。これがホワイトキューブの展示空間だったらブチキレてるところだが、ここは装飾たっぷりのアールデコ空間なので飽きることがない。本館では同時に「アール・デコの花弁 旧朝香宮邸の室内空間」も開催しているが、これは特別になにか集めて公開するわけではなく、室内をそのまま作品として見せるだけ。つまりひとつの空間で視覚と聴覚ふたつの展覧会をやっちゃうという一石二鳥作戦なのだ。でもさすがにこれだけじゃあ「金返せ」と言われると思ったのか、新館では近作を展示。ギャラリー1は《まなざし》と題するインスタレーションで、中央にウンコのような金色の固まりを置き、周囲に顔の拡大写真をプリントした半透明の幕を幾重にも吊るしている。ギャラリー2は《アニミタス》という映像インスタレーションで、床に枯葉を敷き、中央のスクリーンに両側から乾いた風景と湿った風景を映し出している。これは南米と日本の対照的な風景だが、どちらにも風鈴を設置してあるのでシャラシャラと涼しげだ。まあ新館のほうがいかにも作品然としているが、刺激的という意味では本館のほうが好きだ。

2016/10/28(金)(村田真)

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古賀絵里子「Tryadhvan トリャドヴァン」

会期:2016/10/21~2016/11/26

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

古賀絵里子は2014年に京都に拠点を移す。お寺の住職と結婚し、子供が生まれた。その京都の日々をモノクロームで撮影した写真をまとめたのが、本作「Tryadhvan トリャドヴァン」である。「Tryadhvan」というのはサンスクリット語で「三生」、すなわち「過去生、現在生、未来生」のことだという。タイトルが示すように、今回のシリーズには京都の古刹で暮らす彼女の日常を軸に、複数の時間が重ね合わされている。お寺に伝わる古写真が引用され、やがて生まれてくるであろう子供の姿がエコー写真の画像で暗示される。とはいえ、それらの輻輳するイメージ群は互いに繋がり、結びついている。全体が、淡くおぼろげなソフトフォーカスの画面の中に溶け込んでいて、夢と現の境目を漂っているような感触だ。
本作は2016年4月~5月に開催された京都国際写真祭でも展示されていたのだが、今回のEMON PHOTO GALLERYの展示を見て、そのときとはかなり違う印象を受けた。京都ではひとつながりの和紙にプリントされた画像だったのが、ギャラリーの展示では分割され、パネル仕立てになっている。どちらかというと、巻紙を広げるような見せ方が、このシリーズには合っているのではないかと思った。また、展覧会にあわせて、赤々舎から同名の写真集が刊行されているのだが、その黒白のコントラストの強い印刷のほうが、展示プリントよりも闇の深さを表現するのに向いているように感じた。つまりこの作品は、シリーズとしてどのような体裁に落とし込んでいくのかということが、まだしっかりと確定していないのではないだろうか。
ぜひ、もう少し撮り続けていってほしい。古賀の写真のあり方は、前作の高野山をテーマにした『一山』(赤々舎、2015)から見ても大きく変わりつつある。さらなる写真表現の可能性を模索し、「未来生」を積極的に取り込んでいくような続編を期待したい。

2016/10/28(金)(飯沢耕太郎)

あざみ野コンテンポラリー vol.7 悪い予感のかけらもないさ展

会期:2016/10/07~2016/10/30

横浜市民ギャラリーあざみ野[神奈川県]

美術にとらわれず広く現代のアートを紹介するシリーズ「あざみ野コンテンポラリー」の7回目。タイトルはRCサクセションの「スローバラード」の1フレーズらしい。否定でも肯定でもなく、否定を否定することで肯定的に語るというのは、現代社会を表現するときの姿勢かもしれない。出品は岡田裕子、風間サチコ、金川晋吾、鈴木光、関川航平の5人で、映像2人、写真、ドローイング、版画が1人ずつ。興味深く見たのは関川の鉛筆ドローイングと、風間の木版画。どちらも紙にモノクロ表現だ。関川は鳥、草花、怪獣、ロボット、仮面などいろいろなものを描いているが、いずれもタイトルは「フィギュア」で、鳥なら生身の鳥ではなく「模型」「つくりもの」の鳥を描いているのだ。これはおもしろい。風間は現代では珍しい風刺版画をつくり続けているが、今回は折り込みチラシの住宅の画像をトレースした初期の作品から、校内暴力をテーマにした新作シリーズまで出品。ますますダイナミックに、ますますマンガチックに突っ走ってる。

2016/10/27(木)(村田真)

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柳幸典 ワンダリング・ポジション

会期:2016/10/14~2016/12/25

BankART Studio NYK全館[神奈川県]

大空間をインスタレーションで思い切り使いきった力作が続く回顧展である。これだけまとめて、彼の作品群を見たのは初めてかもしれない。三分一博志が入って、現在の犬島の美術館ができる以前の1995年頃から柳が考えていた構想の全容もきちんと紹介されていた。そして、犬島の美術館の空間体験を再現したイカロス・セルの通路を抜けると、奥に巨大なゴジラの目が睨みをきかせている。

2016/10/27(木)(五十嵐太郎)

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Chim↑Pom 「また明日も観てくれるかな?」

会期:2016/10/15~2016/10/31

歌舞伎町振興組合ビル[東京都]

昨今「地域アート」という言葉が躍っている。ただいろいろ見ていくと、都市型の芸術祭と過疎地型のそれでは様子が違う。都市型の特徴は過疎地型のように開催する土地への振り返りに乏しく、その代わりに国際性を謳いがちで、テーマは外から持ち込まれる。するとそれは、規模が大きいだけで一般の美術展とさほど変わらなくなる。過疎地型は最初から自分たちの「過疎」というネガティヴな問題を隠そうとはしない。けれども、都市型の場合、問題はいくつもあるのだろうが、内側の問題を開くよりも外から持ち込んだテーマでそれを覆ってしまいがちだ。それは、単にキュレーターや作家の想像力の欠如を指摘して済むものではなく、フェスティバル主催者である地域行政の思惑などが絡まり合った結果であり、それゆえに、その場のポテンシャルが十分引き出されぬまま、淡く虚ろな鑑賞体験しか残さない、という事態が起こる。けれども、都市には過疎地とは異なる見どころやパワーが潜んでいるはず。Chim↑Pomは活動の最初期からずっとそのパワーと向き合ってきた。本展は、歌舞伎町振興組合ビルを展示会場かつ展示作品とするプロジェクトで、オールナイトのイベントが2夜実施された。一種の「家プロジェクト」だけれど、都市型らしい騒々しさがあり、イベントでは窓を開け放して爆音で音楽を鳴らしたりしたそうだが、近くの交番からの中止要請はなかったそうだ。そもそも悪い場所だから、これくらいの悪さは悪さに入らない? そう考えると、あちこちでいかがわしく淫らなことが行われているとしても、つまらない干渉を互いにしないし、だからみなが個性的に街を闊歩している歌舞伎町は、日本には珍しく国際的な雰囲気を漂わせた寛容な世界なのだ。Chim↑Pomはそこで、五階建てのビルの各階の床を2メートル四方ほどくり抜き、吹き抜けを施すという乱暴さを発揮する。《性欲電気変換装置エロキテル5号機》、《SUPER RAT-Diorama Shinjuku-》など初期作品の発展型となる展示もあり、吹き抜けに映写される《BLACK OF DEATH》含め、Chim↑Pomはずっと都市のパワーと付き合ってきたんだよな、と再確認させられる。これは紛れもない地域アートであるはずだ。しかし、これはいわゆる「地域アート」ではない。「地域アート」では行政による介入は不可避であり、その結果、できないことばかりが増えていく。ぼくたちはそうやって自分たちの首を絞めている。Chim↑Pomが巧みなのは地域の当事者と直に接触するところで、そうすると通らないのものも通ってしまう。たまたま歌舞伎町振興組合の組合長と卯城竜太がカメラ越しにトークしている場面に出くわした。都市型芸術祭には、こういう当事者との直接的な接触があるようでないのだ。その場は、善悪を決めつけずに相手と付き合う歌舞伎町的流儀の話で盛り上がった。なるほど「善悪を決めつけない」場というものこそ、アートの場ではないか。
公式サイト:http://chimpomparty.com/

2016/10/26(水)(木村覚)